1、いつか
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もしこの世界の何処かに、彼女が今も存在しているなら、今僕の前髪をゆらしたそよ風は、いつか彼女の頬を撫でた風ではあるまいか? 今僕が流した涙が、いつか水蒸気となり雲となり雨となって降り注ぐ時、その雨粒のたった一つが彼女の裾を濡らしはしないか?
蜘蛛の糸程の儚げな希望でも、この世界の何処かに彼女が存在しているのなら、毎日毎日、ただ彼女の幸せを祈ろう。ただ彼女の幸せを祈り暮らすことが、僕の存在理由。願わくば、いつか彼女に会いたい。今生が無理なら来世でも良い。その時彼女が人間で、僕が昆虫だったとしても良い。あるいは彼女がお姫様で、僕が奴隷だったとしても構わない。その再会にきっと僕は涙する。ありがとうと、この世界に全身全霊で感謝する。
大江聡美。
僕の胸の中に永遠に住み続けるであろう女姓の名前だ。
彼女と出会ったのは二十数年前の夏。アルバイト先の海の家でだった。僕は大学2年生、彼女は高校2年生。クルクルとよく働く明るい娘で、気が付けばいつも目で追ってしまっていた。僕のことを、気の良いお兄さん程度にしか認識していなかったらしい彼女に思いを告げると『何で私? 色っぽい紗希ちゃんとか、スレンダーな美紀ちゃんとかの方が良くない?』と一緒だったバイトメンバーを勧めてくる始末。バイト仲間に【犯罪者】と揶揄されながらも『お試しで』と彼女を説き伏せ、なんとか交際に持ち込んだ。
夏休みが終わってからも、彼女はバイトに忙しく、あまりデートはできなかった。せめてもと贈った指輪は『高価過ぎる』と突き返され、露天で見つけた500円のネックレスを申し訳なさそうにねだった。
『じゃ、この指輪はサトちゃんがも少し大人になるまで持ってる』
返品してきて、と言う彼女にそう言うと、仕方なさそうに頷いた。
それから半年が経つ頃には『お試し』と言う枕詞も取れて、それなりに恋人らしい日々を過ごしていた。公園のブランコで、デート帰りの家の前で、僕たちは沢山話をした。それは他愛もない、けれど愛しい日々だった。
『勉強は嫌いだから、就職する』
彼女はあまり裕福な家の娘ではなかった。親に負担を掛けまいとそう嘯く彼女に『それなら俺のトコに永久就職してくれよ』と冗談でも何でも無く言った。
『大輔君の友達に聞いたよ。実はお坊ちゃんなんでしょ? お父さん、会社の社長さんなんだって? そんなの私と釣り合わないよ』
そう言われてムキになった部分も確かにあったと思う。
『俺はサトちゃん以外嫌だからな。俺が大学卒業したら結婚してくれ』
『はいはい。その頃まで大輔君が私に飽きてなかったらね』
そんないい加減な気持ちで付き合っているんじゃないと証明したくて、早々に彼女を親に合わせようとしたのがそもそもの間違いだった。
『結婚を考えている女性がいるんだ。一度会ってくれないか』
ところが母・真津子の反応は思わしくなかった。
「まだ高校2年生なの!? どんな女の子か知らないけれど、大学生と付き合うなんて不良なんじゃないの?」
そうじゃないと言っても取り合ってもらえず。会う気は無い、とけんもほろろに突き放された。
そればかりかその話をした途端、『あなたには許嫁がいる』と言い出した。寝耳に水だ。
後日、母に騙されて行った食事会で、母が言わんとする許嫁、芙沙子さんと無理矢理見合いをさせられる羽目になった。
彼女は僕と違い、この縁談について早くから聞き及んでいたらしく、『やっとお会い出来て嬉しいわ』と和やかに微笑んだ。
失礼だとは思ったがすでに心に決めた相手がいると伝えると、聡美のことを根掘り葉掘り無邪気な顔で尋ねてきた。
『まあ、素敵な方ですのね。お友達になりたいわ』
おっとりとした、害のないお嬢さんだと思った。
けれど彼女は母の差し金か、いつの間にか僕の自宅にも頻繁に顔を見せるようになり、二人きりになると当たり前のようにスキンシップを求めてくるようになった。
『私ってそんなに魅力がありませんか?』
『好きな女がいるのに、他の女に手をだすような男を信じられますか?』
『大輔さんになら、何をされても良いんです』
まるで違う言語を喋られているようで困惑した。
なるべく芙沙子さんが来る日は外出をし、二人きりにならないように気をつけた。母はお冠だったが、こちらも腹を立てていた。聡美の話を持ち出すと不機嫌になり、依然として会ってくれる気がないようだった。
その頃には聡美は高校3年生になり、まだ将来に具体的展望を持たない僕とは違って、着々と就職に向けて動いていた。
自分より先に社会人になる彼女に焦って、このまま親が聡美を受け入れてくれないなら、駆け落ちもやむなしと思い始めていた頃、それは起こった。
聡美の高校の卒業式の日。お祝いをしたくて待ち合わせていた場所に、彼女は来なかった。
自宅に電話すると彼女の母親が、聡美は体調が悪いので寝ている、と言った。まだ学生が当たり前のように携帯電話を持つ時代でもなかったし、連絡用に持って欲しいと言ったポケベルを、猫の鈴みたい、と聡美は嫌がった。声を聴きたかったが、具合が悪くて寝ているのだから、起こしてくれとも言えなかった。「お大事に」と聡美の母親に言い、次の日大学が終わってから彼女の家にお見舞いに行こうと決めて電話を切った。
けれども、それから彼女に会うことは叶わなかった。
今の今まで。
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じれじれが苦手な方は早く逃げて!
ヘタレヒーローの恋愛譚、始まります。(苦笑い)