瑠璃・里帰り
銀朱に踏まれた瑠璃の手は折れていた。事情を知った真朱が、すぐに癒しの力で骨折を治してくれたが、二、三日たってもその痛みが残った。真朱は銀朱のことで怒りをあらわにしていた。
そんなに怒った真朱を見るのは初めてで、瑠璃の方が戸惑うほどだった。このことで二人が正面から衝突するようなことにでもなれば、大変なことになると思ったからだ。しかし、それからは銀朱は後宮には現れなかった。公務で顔を合わせるが、その場では真朱は銀朱の毒にコントロールされていて、怒ることもできない。
瑠璃はカスミに呼ばれた。
その時間は真朱が晩餐会に出席しているときで、瑠璃は真朱の居室を整えていた。真朱が疲れて帰ってくる。その時に暖かい飲み物を用意しておこうと思っていた。
いつも真朱は晩餐会に出席しても何も口にできない。銀朱の放つコントロールの毒が受け付けさせなかった。そして戻ってくるなり、ベッドに寝込んでしまうこともあった。
「瑠璃殿、いつもご苦労様です」
「いえ」
カスミは真朱のお気に入りであるが、瑠璃と二人きりになると少しつめたい態度をとることがある。だから、少し緊張していた。他の侍女たちも瑠璃には意地悪をする者も多い。瑠璃が特別なことができるわけでもないのに真朱の側にいるから、侍女としては面白くないのだろう。皆の嫉妬を浴びている。
「真朱さまが今宵はいつもより遅くなる故、瑠璃殿にはもう自分の部屋へ戻ってもよいと仰せられた」
「あ、そうですか」
以前にもそういうことがあった。その時、瑠璃はずっと待ち続け、ウトウトしてしまったこともある。だから、その時は別段おかしいとは思わなかった。
まだ、七時前だ。部屋へ戻ってゆっくりできると思った。
しかし、カスミは意外なことを言った。
「瑠璃殿に、今宵は実家に帰ってもよいと、真朱さまが仰せられた。どうする? 明日の朝、早くに戻ってきてくれればいいのだと。どうじゃ。帰るなら馬車を出すが」
実家へ今晩、帰ってもいいということ。しかも馬車まで出してくれる。とんでもないと思ったが、確かに瑠璃がここにいても夜遅く戻ってくる真朱は、そのまま寝てしまうだろう。瑠璃の出る幕はない。明日の朝、戻ってくればいいのだ。
白藍や潤はこの後宮で顔を見るが、衛兵である竜胆とは全く会えないでいる。今、帰ればちょうど夕食が終わったところだろう。今頃、くつろいでいるに違いなかった。
思わぬ申し出に、心が動いていた。
「明日の朝、戻ってくればいいんですね。そう真朱さまはおっしゃられたんですね」
そう確認するとカスミがにっこり笑う。
「なんなら明日の朝、迎えに馬車をよこそうか」
「あ、いえ。そこまでしていただかなくても。姉たちと一緒に出勤してきます」
「では、今宵は帰るのだな」
「そうさせていただけるのなら、帰りたいです」
「瑠璃殿は真朱さまのお話し相手。真朱さまが公務の間は自由にしてよい。誰に気兼ねすることもないぞ」
「はい」
その言葉に素直に従うことにした。
「では、支度が整い次第、門の方へ。馬車を用意させておこう」
「ありがとうございます」
瑠璃はすぐに自分の部屋へ行った。夜着と明日の着替えだけでいい。化粧品は姉の白藍に借りればいいから、それほどの荷物もなかった。思わぬ休暇となった。
馬車で帰る。家の中へ入って行くと皆が驚いていた。
「やめさせられたのか」
竜胆が相変わらず、皮肉る。
「そんなんじゃないわよ。今夜は真朱さまが公務で遅くなるって言うから、実家に帰りたかったら帰っていいって言われたの」
白藍も嬉しそうだった。ギュッと抱きしめてくれる。
「そうよね。真朱さまがいないんだったら瑠璃の役目はなしだもの。本当なら昼間だけで夜は帰ってきてもいいくらいよ」
「うん、半年したらそうしてもいいって言われてる」
そう言って着替えの入ったカバンを床に置いた。懐かしい家だった。
その時、白藍、潤、竜胆の他の見知らぬ顔があることに気づいた。
瑠璃と目が合うとにっこり笑う。四十くらいの人の好さそうな男だった。
「あ、こちら、シルバーさん。オレの部隊に入っている剣の指南役。黄の国からきてる」
「お客様だったんだ」
竜胆は少し気まずそうな顔を見せた。
「あ、そうじゃなくて。ちょうど瑠璃が宮殿に入った頃、シルバーさん、部屋を探していた。それで今、瑠璃の部屋にいる」
「えっ、私の部屋に」
「そう、シルバーさんに瑠璃の部屋を貸しているってこと」
そんなこと、聞いていていない。
「ってことは、私の部屋、ないのね」
「悪かった。まさか突然帰ってくるとは思ってもみなかったし、言おうと思ってたけど、なかなか会わなかったしな。オタクのものは下の物置に入ってる。義姉さんが片づけてくれた」
片づけてくれたって言っても、なんとなく不愉快だった。勝手に人の持ち物を移動させられ、その部屋を他人に貸すなんて。せっかく帰ってきたというのに、なぜこんなことになっているんだろう。
その不満をぶつけるかのように竜胆を睨みつけた。
「けど、オタク、今夜ここに泊まるって言ってたけど、どこへ寝るんだ」
「えっ」
じっと竜胆を凝視していた。何を言っているのか理解できなかった。
そうだ。瑠璃の部屋はシルバーという人が入っている。他に寝る場所はこのリビングのソファしかない。
「いいじゃない。竜胆君と一緒で。今まで別々に部屋があったこと自体がおかしかったの」
白藍の提案にギョッとした。瑠璃もだが、竜胆も狼狽を隠せない。
「いや、義姉さん。そりゃあまりにも急で・・・・」
「そうよ。お姉さん。冗談じゃないわよ」
そう二人で反論した。すると白藍は今までに見たことのないような怖い顔になった。
「何が問題なのっ。今時、結婚していないから一緒に寝ないなんて古いのよ」
白藍がそう言ってテーブルをドンと叩く。興奮していた。
「まったくもう。二人とも子供じゃないんだから。まだその気になれないからって生ぬるいこと言っちゃって、先に体の関係になれば自然と燃え上ってくるわよ」
姉がそんなことを言い始めた。いつもなら潤が制するが、その気迫に飲まれているらしく黙っている。
「でもさ」
竜胆がまた何か言おうとした。しかし、白藍はその倍の速さで夫婦とは、男女とはの流儀をまくしたて、何も言わせない。
「わかった。じゃ瑠璃、オレんとこ、寝ろ」
竜胆がそう言った。
「えっ」
瑠璃が目を剥いた。しかし、竜胆は白藍に見られないように、口を動かして〔オレ、長椅子で寝る〕と伝えてきた。
ほっとした瑠璃の表情で、白藍の言葉。
「竜胆君、リビングに寝ようなんてこと、許さないからね」
ピシャリと言われた。姉にはすべてお見通しだった。
「わかりました。お姉さんの言う通りに致します」
やけになり、多少大げさに瑠璃が言う。
竜胆は慌てていた。
「あ、散らかってるぞ」
瑠璃は遠慮なく竜胆の部屋に入った。今まで毎日のように入り、掃除をしてきたのだ。入ってはいけない部屋という意識は全くなかった。
竜胆の言う通り、ベッドは朝のまま、毛布はめくれ、枕も落ちそうだ。しかも脱いだ夜着が散乱している。床には昨日か一昨日の靴下もおちていた。
それらを見て、後から追ってきている竜胆を振り返った。
「ほんとにすごく散らかってるじゃない」
竜胆は笑ってごまかす。
「あはは、わりイ、シーツも変えてない」
「あははじゃないわよ。私がいなくてもちゃんとするって言ったじゃない」
竜胆は瑠璃の連発苦情に、口を尖らせた。
「なんだよ、今日たまたまやってないだけだ」
「これって今日だけじゃないわよね。シーツはいつ変えたの? 三日くらい前?」
容赦なく責めたてる瑠璃。
「え、あ・・・・一週間くらい前だったかな」
と竜胆はそう言って目をそらした。
「一週間・・・・・・。全くもう」
瑠璃は力任せにシーツを引っ張り、はがし始めた。その反動で枕も毛布も床に落ちる。竜胆がそれらを拾う。
「荒っぽいぞ」
「いいから、早く新しいシーツ持ってきてよね。床も掃除するからね」
「え~」
白藍がニヤニヤしながら顔を見せた。
「全くこの二人って、顔を合わせれば喧嘩。瑠璃もわざわざ喧嘩をしに帰ってきたみたい。仲がいいんでしょうけど、程々にね。絡むんだったら後でゆっくり二人だけでやって」
そう言われて瑠璃は黙った。ブツブツ言いながら枕カバーを変えている竜胆を見る。
どうするんだろう。竜胆とこのベッドで寝ることになるのか。この家にはリビングのソファ以外に寝られるようなところはなかった。
白藍が下へ戻っていった。
瑠璃が床をほうきで履いた。
不意に竜胆が言った。
「オタク、ベッド、使ってもいいぞ」
「えっ」
「オレ、床でいい。夜中の勤務で、交代するときに宿舎で仮眠をとるときがあるんだ。その部屋に誰かがいると床で寝ちまう。こういうのに慣れてるから」
そう言って、竜胆は下へ降りていった。
やはり竜胆が部屋がないという理由だけで、一緒に寝るなんてことはあり得ない。ましてや突然、瑠璃を抱くなんてことは考えられなかった。




