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瑠璃・王妃の水晶玉

 天気のいい日だった。

 朝早くから洗濯をし、日当たりのいい物干し場に干す。既に馬と牛への餌やりと乳しぼりを終えていた。後は鳥小屋へ行って卵を拾い、家の掃除をするだけだった。厩の掃除は潤が暇をみてやってくれる。

 もう瑠璃は手際よく家事ができるようになり、午前中、忙しく動けば、午後からは自分の時間が持てるようになっていた。


 今日は、昼ご飯を隣の紅桔梗と一緒に食べる約束をしている。そして午後からパン作りを手伝うことになっていた。瑠璃はこの時間が楽しくてしかたがない。まるで母からパン作りを教わっているような気がする。母親と養母の顔をはっきりと覚えていないからなのかもしれない。


 この日、瑠璃はおにぎりを作っていく。おしゃべりをしながら食べるのに都合がよかった。

 家を出ていつもの小道へ入り、紅桔梗の家へ行く。


 いつもなら、一日中でも家の戸を開け放っている紅桔梗だが、今日はドアが閉まっていた。しかし、瑠璃はそんなことを気にしないでドアをノックした。

 返事はなかった。しかし、絶対にいるはずなので、そっとドアを開ける。

「こんにちは、瑠璃です」

 それでも返事がない。

 以前にも、紅桔梗が家の奥にいて、声が届かなかったときがあった。土間へ入って、もう一度声を張り上げた。

「こんにちは、お邪魔しちゃってます。瑠璃ですよ。紅桔梗さん、お昼食べましょうよ」

 昼寝でもしてしまったのかと思う。最近、疲れやすくて困る、年はとりたくないとこぼしていたことを思い出した。

 昼寝をしているのなら、そうっとしておいた方がいいのかもしれない。ちょっと寝室を覗いてみて、寝ているようなら、後でまた来ると書き置きし、出直そうと思った。

 

 その時、わずかにうめき声が聞こえた。階段の方だ。そちらへ足が向く。

「紅桔梗さん」

 曲がりくねった階段の下に誰かが倒れていた。すぐに紅桔梗だとわかった。


「大丈夫ですか」

 周りに洗濯物が飛び散らかっていた。たくさんの洗濯物を運んで降りようとしたときに、足を滑らせたのかもしれない。

 紅桔梗が、顔を上げて瑠璃をみた。

「瑠璃さん、来ちゃだめ。逃げてっ」


 紅桔梗がそう叫んだ。しかし、瑠璃にはその逃げるという、言葉の意味がわからなかった。

 頭から少し血が出ているし、右足が奇妙な方向を向いていた。かなり重症だと感じていた。

 紅桔梗を抱き起こそうとした。

 

 その時、やっと瑠璃は階段上に気づいた。そちらの方向に顔をむける。

 上からものすごい形相でにらみつけている女がいた。この女性は、いつか瑠璃と一緒に乗り合い馬車で揺られてきた人だった。それからずっとこの家に住み込んでいることは知っていたが、瑠璃が来るといつの間にかどこかへ行ってしまっていた。こうして家の中で顔を合せることはなかった。


「オリーブ、瑠璃さんには関係ない。そうでしょ」

 紅桔梗が叫んだ。

 その名を聞いた瑠璃は、頭のどこかで警告を感じていた。

 オリーブ、聞いたことがある。どこか遠いところで、その存在を知っていた。


 オリーブの目は赤く光る。突然入ってきた瑠璃を、その目が捕えていた。瑠璃の足がすくむ。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。

 そのオリーブはもはや人の顔をしてはいない。目の周りや顔全体がどす黒く、歪んでいた。まるで朽ちていく死者の顔のようだ。ゾクリとした。


「瑠璃さん、逃げて。早くっ」

 オリーブが襲ってくると感じた。しかし、それでも動けない。金縛りにあったかのようだ。目は化け物と化したオリーブに釘づけとなっていた。


 オリーブは、クワっとその口を開けて、階段を飛び降りるかのように、瑠璃に飛びかかってきた。その瞬間、金縛りが解けた。瑠璃は紅桔梗の前に立ちはだかった。

 よくそんな勇気があったと思う。しかし、その時は体がそう動いていた。

 オリーブは飛びかかってきていた。すぐそばにその顔が近づいてきていた。枯れ枝のような手が伸びてくる。


 瑠璃は、咄嗟に左手をその化け物に向かって突き出した。瑠璃の左手の平には瑠璃紺に輝く水晶玉があった。水晶玉が眩しい閃光を放っていた。化け物は頭からもろにその光を浴びていた。


【成仏して。あなたはただ、操られていただけ】


 どこからか、そんな声がした。それは一瞬のことで、瑠璃自身もなにが起ったのかわからない。


「ギャアアア」

 凄まじい声を上げ、その化け物が瑠璃の足元に転がった。呻き声を上げながら悶絶している。三十歳くらいの女性だったはずの体が、見る見る間に干からびていった。生気が全部流れ出してしまったかのような老婆になっていた。やがて、その目から光が消え、眼玉が落ち、朽ちる。骨と化していき、ついにはすべて灰になっていった。


 瑠璃は自分の手から輝く水晶玉が出たことに驚いていた。なにが起こったのか、わからない。もうその水晶玉は消えているが、左手をじっと見ていた。

 しかし、紅桔梗に視線を移したとたん、もうその水晶玉のことは、瑠璃の記憶から消えていた。


 紅桔梗は、足の骨折の痛みに意識が朦朧としている様子だ。とりあえず、瑠璃はそのねじれた足の患部に手を添えた。なぜかわからないが、そうすることで治せると瑠璃は確信している。

 元々、人の体は健康であった元の姿に戻ろうとする治癒力がある。ただ、それをもっとスムーズにいくように、エネルギーを加え、手助けしてやればいいだけなのだ。

 わずかにグキっと音がして、足が元通りの方向を向いていた。

 すると、紅桔梗の痛みは半減した様子だ。苦しそうに荒かった呼吸も落ち着き、青白かった顔に色が戻ってきた。たぶん、大丈夫だろう。


「紅桔梗さん。旦那さんはどこですか。私、呼んできますから」

 紅桔梗はこんな時でも瑠璃に笑顔を見せようとしていた。無理しなくてもいいのに。

 旦那と聞いて、その顔が曇った。

「ああ、主人は昨日から隣町へ出かけていて、今夜遅くに戻ってきます」


「じゃ、息子さんを呼びましょうか」

「・・・・あ、はい。では、カーマインをお願いします」


 紅桔梗に肩を貸して起き上がらせ、一歩一歩を踏み固めるかのようにして階段を上り、上の寝室まで連れていった。

 紅桔梗をベッドに寝かす。少し頭も打っているらしく、額に血がにじんでいる。

「すぐにカーマインさんを連れてきますからね」

 瑠璃は急いで家に帰り、馬の茜に鞍をつけ、その背に乗った。

 


 まず、近くの黒い森の診療所、守り役に紅桔梗のことを伝えた。すぐに家へ駆けつけてくれるという。

 そして次に茜は王宮へと走った。まるで瑠璃の心がわかるかのようだった。瑠璃にも不安はなかった。行先も道もすべて任せていた。

 今度はいつも携帯している身分証明書を門番に見せ、カーマインに母親が階段から落ちたということを伝えてくれというと、すぐに姿を見せた。


「瑠璃さんっ、母が怪我を?」

「足と頭も少し打ったみたいです。今は守り役にきてもらっています。けど、家に一人なのでカーマインさんを呼んでほしいと」

「わかりました。すぐに帰ります」

「待ってます。茜に乗って帰りましょう」


 いいよね、と念を押すように、茜に頬を寄せた。

 栗毛の馬は異議なしと言わんばかりに落ち着いていた。

「茜が人を乗せるなんて、信じられない。この僕も乗せてくれるのか」

 カーマインは半信半疑で、瑠璃の後ろに乗った。そんなに意外なことだったのだろうか。瑠璃は不思議に思う。

 急いで家に戻る途中、背中から瑠璃に何か言っていた。茜に関することだった。

 この茜は、妹の・・・・、王妃・・・・とか。しかし、瑠璃にはそれを聞き返すほどの余裕はなかった。聞きそびれていた。



 家では、紅桔梗は守り役と談笑していた。

 カーマインはその母親の姿を見て、やっと安堵の笑みを見せる。心配だったのだろう。

 守り役がカーマインに説明をした。

「お母さんは大丈夫だよ。足の骨にひびが入っているけど、しばらく安静にしていりゃ、命に別状はない。頭の方も少し血が出ていたが、こっちは三日もすれば大丈夫だろう。階段から落ちたらしいが、紅桔梗さんも案外そそっかしいようだな」

 そう言われて、紅桔梗も恥ずかしそうに笑っていた。


「ほんと、いつも気をつけているんだけど、つい、何かに気をとられてね」

「なにか?」

「そう」

 紅桔梗が遠い目をしていた。何かを思い出そうとしている。

「ああ、思い出せないけど、あっと思ったらもう落ちてたのよ。足が痛くて、頭も打ったみたいで動けなかった。そこへ瑠璃さんが来てくれたの。お昼を一緒に食べようって約束していたから、本当に助かりました」


 紅桔梗も瑠璃も、オリーブとの出来事は全く覚えていなかった。

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