竜胆 女の気持ち
長文です。
その夜、竜胆は夜遅く帰ってきた。
外壁が仕上がり、その後、祝いの酒も振る舞われた。皆とかなり飲んだから少し酒臭いかもしれなかった。
「疲れたぁ。ボスがさ、なかなか帰してくれねえんだ。へとへとに疲れてんのに、祝いの酒盛りにつきあえって座らせられた」
そう騒ぎながら竜胆はドカッと椅子に座った。
本当にへとへとに疲れていた。酒を飲んでいい気分の時はまだよかったが、今はそのほろ酔い加減も薄れていて、余計疲れを感じていた。
「おかえりなさい。本当に遅くまでご苦労様でした」
るりがそう声をかけてくれた。けれどその表情はいつもより堅い。普段なら、座る前に着替えろとか、手を洗ってこいとイチイチ指図するのに、今夜は何も言わない。そして伏し目がちに、オレをちらちら見ていた。何か言いたそうだった。
「竜胆君、相変わらずね。今夜は腹減ったって言わないだけまし」
白藍のからかいの言葉。いつも家へ帰ると騒ぎ立てるからだろう。でも、ここが唯一自分を出せる場所なのだ。
「瑠璃がわざわざお弁当を持って行った甲斐があったってことね」
白藍はそう言って瑠璃を見た。瑠璃はそれを肯定するように笑顔を向けた。それは白藍への気遣いで、本心から笑ったわけではないことがわかった。
瑠璃に今日の御礼を言わなくてはと思うが、瑠璃の態度がいつもと違っていて、なんだか言いにくい。向こうが〔話しかけないでオーラ〕を出している。
とにかく今は白藍がいる。
王宮内に務めている白藍は余計なことを知らない方が身のためなのだ。今日の出来事は、後でゆっくり潤と話すつもりだった。とりあえず、風呂に入ろうと思う。
「風呂、入る」
そう言って立ち上がった。
潤はソファで新聞を読んでいた。別に普段と変わった様子はない。
瑠璃が仏頂面で、タオルを持ってきてくれた。ボールパスをするかのように、ドンとタオルを押し付けてくる。
「どうぞ、ごゆっくり」
そう瑠璃は言って、くるりと背を向けると台所へ入っていった。
なんだよ、一体。瑠璃はなんでこんなに機嫌が悪いんだ。
竜胆は、潤と白藍に、目で救いを求めたが、二人とも目を丸くして肩をすくめた。
「私はもうちょっと刺繍の仕上げをするわ。寝室にこもるけど、潤さんが寝るまでには終わらせるから」
白藍がそう言って中腰で屈みこみ、潤にキスをした。
「わかった、頑張って」
潤もにっこり笑いかける。
竜胆は、そんな二人から目をそむけるように背を向けて、風呂場へ向かう。
いつも二人の、仲のいい光景だった。しかし、今夜は眩しすぎた。あの二人は本物の夫婦なのだ。
烏羽(潤)が白藍に、一目ぼれしてつきあうようになったと聞いた。好きあう同士が普通に付き合い、結婚するという当たり前のことがうらやましいと感じた。
竜胆は、なにやら自分でもわからないようなモヤモヤした感情を感じていた。
竜胆が風呂から出て、再びリビングへ入る。瑠璃もちょうど台所からお茶を持ってきた。
「お茶、どうぞ」
まだ瑠璃には笑みはないが、帰ってきた当初の固い表情はない。少しほぐれてきているようだ。
「サンキュ」
ソファに座り、そのお茶に手を伸ばそうとしたとき、瑠璃が竜胆を見て、目を剥く。
「あっ、竜胆さんったらっ」
竜胆がギョッとする。
瑠璃は別のタオルを手にしていた。それを竜胆の頭からかぶせ、ゴシゴシと拭きはじめた。
「え、なんだよっ」
抗議をするが、瑠璃はその手を緩めない。
「もう、ちゃんと髪を拭かないから、ぽたぽた垂れてるのっ」
竜胆の頭が左右に揺れる。結構乱暴に拭いている。
それでも竜胆はされるがままになっていた。瑠璃にそうしてもらうことに心地よさを感じていた。
しかし、ちょうど瑠璃の胸が目の前にあった。それに気づき、ドキリとする。いけない、これは接近しすぎだ。
「いいよ、もう。このくらい自分でできる」
そう言っても瑠璃はやめない。
「子供じゃないんだから、自分でできるっ」
竜胆は瑠璃の手からタオルをひったくり、立ち上がった。
そういうと瑠璃はかなり不満そうだった。
「じゃあ、ちゃんとしてくださいっ」
「わかったよ」
瑠璃が甲斐甲斐しい妻のように振る舞えば振る舞うほど、竜胆は戸惑い、わざとそっけなくする。そのたびに気まずくなる。しかし、そうするしかない。
竜胆は、自分のお茶を手にして、瑠璃と反対側のソファに座りなおした。
「竜胆、今日は遅くまで大変だったね。ご苦労様」
「うん、やっと完成した。ボスは、次は道路を広げるって言ってた」
しかし、竜胆はこの次の仕事が決まっていた。もう肉体労働はお終いだった。
「あの仕事も面白かったけどな。あ、そうだ」
竜胆がそこで思い出していた。あわてて風呂場へ戻り、脱ぎ捨てた作業着のポケットを探る。
「これ、見つけてきた。新しい水晶のペンダント」
今持っている物よりも大粒のクリスタルだった。
瑠璃の水晶が、もう記憶を吸収できないから、竜胆は仕事を抜け出して、近くの石屋で見つけてきた。潤がそれを手にして品質を見分ける。
「うん、なかなか上質の石だね。これなら今のものよりもたくさんの記憶が保てる」
潤がそれを瑠璃に渡した。
「きれい」
瑠璃は嬉しそうだ。早速、自分のペンダントを外し、石をつけかえている。
竜胆がテレパシーを潤に送った。
《ってかっ、なんでそもそも瑠璃の記憶がきちんと封じ込められないんだよ。あの三人、王の守り役だっていばってっけど、大したことないんだな。本当ならこんな水晶だって必要ないはずだろっ》
《うん、そうだけど、やはり瑠璃ちゃんは特別なんだと思う。この世界で生まれていないことに意味がある。だから、あの三人の術にかかっても完全に支配されない。それってすごいことだと思うよ》
《あ、瑠璃が特別ってことか。あいつらがダメなんじゃなくて?》
潤はくすっと笑う。
《そういうことにしておこう。こういう会話は守り役たちに筒抜けになってる。今頃聞いて、三人とも怒り狂ってるよ》
《いいよ、聞かれたって》
子供の頃からガミガミ言われてきた三人だ。遠慮も何もない。
瑠璃には聞こえていない。新しい水晶を光にかざしてみたり、瑠璃紺に変わった石と重さを比べたりしている。
《瑠璃ちゃんから今日の話を聞いた。あの石があれほどいっぱいになった出来事を》
《迂闊だった。まさか、瑠璃が一人で来るとは思ってもみなかったから》
《それよりも瑠璃ちゃんの気持ちの変化に気が付いたのか?》
いつもよりもキツイ言い方だ。なんだろう、瑠璃の気持ちの変化って。
《瑠璃の気持ち?》
潤は少しがっかりした顔をした。
《気づいてないのか。お前が瑠璃ちゃんを抱きしめた時のこと》
《ああ》
思い出した。あの時、瑠璃に監視の目がついていた。それを誤魔化すために、夫として振る舞おうとかなり大げさに瑠璃を抱きしめた。
あの時の瑠璃はたちまち複雑な感情になり、最後には竜胆のことを怒っていたように思えた。けれど、あの場合はそうするしかなかった。
《怒らせちまったことか?》
《ん、結果的にはそうだけど、その微妙な女心、わかっているのか》
《へっ、微妙な女心って? オレが急に抱きしめたから怒ったんだろ》
潤は、やっぱりわかっていないのか、という心をぶつけてきた。
瑠璃がチラチラとこっちを見ていた。テレパシーだから、聞こえないはずだが、なにかが潤と竜胆の間に起っていることを感じ取っているようだ。
《瑠璃ちゃんは、竜胆に抱きしめられたとき、初めてお前を意識したんだよ。今まで許婚っていっても兄のような人を押し付けられたとしか思っていなかったのに、あの時、初めてドキッと胸を躍らせた。その瞬間、恋に落ちたというか。けど、すぐにお前は監視の目があるから抱きしめたと明かした。それで瑠璃ちゃんは一瞬の恋が打ち破られたような気になったんだ》
あの瞬間に、そんな微妙な心の変化が起っていたと知り、竜胆は唖然としていた。あの時の瑠璃からは困惑と失望でしかなかったのはわかっていた。だから、抱きしめて悪かったと思い、ますますそっけなくしていた。
《このままじゃ、瑠璃ちゃんが竜胆を本気で好きになるかもしれない》
潤がギョッとすることを言った。
竜胆と瑠璃は、そういう関係になってはいけないのだ。でも瑠璃は記憶を消されているから、知らず知らずそうなる可能性はある。
《瑠璃ちゃんの記憶を戻して、何もかも思い出してもらおうとも思った。そうすれば瑠璃ちゃんは竜胆とのことに悩まなくて済む。街へ出かけなければ、あんな能力者チェックなんて受けなくて済むかと》
《だめだよ。瑠璃の行動範囲を制限するのは無理だと思う。近所の家の行き来、大家もくる。いつ、繁華街まで一緒に行こうって言われるかわからない》
《わかってる。もう時は遅しで、瑠璃ちゃんには監視の目がきているんだ》
《えっ、監視の目は追い払ったと思ったけど》
《大した監視じゃないけど、瑠璃ちゃんの記憶の中にオリーブらしい女性を見た。しかも、隣の家にね。しばらく、瑠璃ちゃんの行動を見るんだと思う》
《オリーブ、あいつも生き返ったのか》
愕然とした。白磁はどこまで恐ろしい奴なんだと思い知らされる。
《うん、体は別人、だけどあれはオリーブ。そこのところ、瑠璃ちゃんも微妙に気づいていた。けどオリーブはただ、目に映る様子を伝えるだけ。人の頭の中を読むことはできない。だから瑠璃ちゃんは別に構えなくても普通にしていればいいんだ》
二人がテレパシーで話している中、瑠璃は居心地悪そうだ。
何かを思い立ったように、すっくと立って、台所へ行く。ティポットにお湯を足すつもりらしい。
竜胆も、瑠璃をのけ者にしている感じで空気が重かったと気づく。瑠璃がこの場から離れてくれて少し楽になった。
《でもこのままじゃ、瑠璃ちゃんは竜胆のことをずっと意識することになるよ。それじゃあ、かわいそうだろう。じゃ、許婚を解消しようか。そうすれば余計な期待をしなくて済む》
《それはわかる。けどな、瑠璃はオレの許婚でなきゃいけないんだ。もっとやばいことになる》
《どういうこと?》
《隣の家の息子、あいつ、瑠璃に気がある。あいつの頭ン中に監視の目がついていた時、わかった。瑠璃に許婚がいるってことで諦めてはいるけど、まだ、正式に結婚はしていない。だから、まだチャンスはあると考えていた。だから、そういうことも吹き飛ばす意味で瑠璃を抱きしめたんだ。瑠璃が別の反応をしたのは悪かったけど、やっぱ、ここでは瑠璃はオレの許婚ってことにしておかないと、今度は他から瑠璃に言い寄る余計な男の心配もしなきゃいけなくなる》
《なるほど、そんなことが起っていたんだね。そうか、瑠璃ちゃんがフリーになると言い寄る男が別に表れるってことか、それなら竜胆という許婚がいるということにしておいた方が無難だね》
《だろっ》
《仕方がない》
潤がため息をつく。
女心をコントロールするのは難しい。
《オレ達は絶対に一線を越えてはならない、それはオレが一番よくわかってるから、うまくやる》
《わかった。任せるよ》
瑠璃が戻ってきた。




