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謎の女性と流れ出る記憶

 人々は乗っては降りて、どんどん人が入れ替わっていった。しかし、繁華街から抜けると乗る人は少なくなり、馬車の中も乗客の姿はまばらになっていた。


 瑠璃の隣には三十くらいの女性が座ってきた。他の席がガラガラに空いているというのに。

 瑠璃と目が合い、瑠璃の涙に気が付いたのか、にっこり笑いかけてきた。その表情、誰かに似てると思った。

「大丈夫ですか」

「あ、はい。大丈夫です。ちょっと目にゴミが入ってしまって・・・・」

 下手な言い訳だった。しかし、その女性がそれを信じても信じなくてもよかった。ちょっとした時間を共有しただけのこと。詳しく説明することはない。その女性もそれ以上、詮索はしてこないだろう。

 そう、瑠璃の気のせいだったようだ。よく見ると知らない顔。しかし、向こうも意外なことを言った。


「なんだかお嬢さんをみていると知り合いを思い出します。どこかでお会いしましたか」

「いえ、私はこっちに来て日が浅いので、たぶん人違いだと思います」

 不思議な感じだった。以前に会ったことはない。けれど彼女から漂ってくるピリッとした気配をなんとなく知っているような気がした。


 瑠璃はその女性に神経を集中していた。もう泣いていたことを忘れていた。

 知り合いではない。しかもこんな街の中心に出向いたのはこれが初めてだった。でもなんともいえない緊張感が瑠璃を取り囲んでいた。警戒していた方がいい。


 郊外へ出る。馬車にはほんの数人しか乗っていない。この女性はどこまで行くのか。それでも瑠璃の横にぴったりとくっついて座っている。少し気味が悪くなっていた。そろそろ瑠璃の家への小道になる。足元に置いてあった空っぽのバスケットを持ち直し、隣の女性に降りるというジェスチャーを送った。

「降ります」

と瑠璃が言うと、馬車が速度を緩め、止まった。すると瑠璃の隣の女性も腰を上げた。

 えっと思う。

 つけられてる? そんなこと、何のために。

 ゾクリとした。

 しかし、その女性はするりと降りて、御者にありがとうと礼を言い、そのまま隣の家への小道へと歩いて行った。その後姿を不思議な気持ちで見ていた。

 紅桔梗の家へ訪ねていく人だったのか。不審に思って悪かったと思う。人をそんなふうに疑ったことなんて、今までになかったのに、なんとなくあの女性に対しては警戒していた。どうしてだろう。


 瑠璃も家へ戻った。もう家の中は薄暗くなり始めていた。

 そんな時間なのだ。もっと早く帰って来てもう一品作ろうと思っていたのに。たぶん、潤と白藍はすぐに帰ってくるだろう。それなら簡単にできる野菜炒めとサラダにしようと思い、すぐさま、朝、採っておいた野菜に手を伸ばした。

 水で青菜を洗う。その水に手が触れるとふと頭の中に、ある情景が浮かんできた。


 どこかで瑠璃は野菜を洗っていた。その台所には電子レンジ、炊飯釜、電気ポットなどが所狭しと置かれていた。テーブルの上には父親の愛用の湯呑がおいてある。瑠璃はそれを洗わなくてはと思う。


 そして次に浮かんだのは大学の校舎。大勢の学生が行き来するキャンパス。次はほぼ満員に近い電車の中に押し付けられて乗っている瑠璃。電車から吐き出されると、瑠璃はその流れに沿って慌ただしく駅の階段を下りていく。ティシャツにジーンズという軽装の人もいれば、スーツ姿の男性もいる。おしゃれをしている女の子や着物を着て急いでいる女性もいた。


 そう、電車、バス、車がひっきりなしに行きかう忙しい世界。隣の人が何をしていても気にしない。皆が時間に追われて暮らしている世界。常に音が行き交う騒音の世界。 

 雨が降る。アスファルトに流れる雨。その雨に流されるのはごみや埃だけではない。人々のねっとりとした黒い念も動かされる。それらは浄化されず、都会の街の中を徘徊しているのだ。そんな黒い念がぷっくりと膨れあがり、瑠璃の前に立ちはだかってきた。

 逃げようとするが、体が動かない。声にならない悲鳴。


「瑠璃ちゃん、大丈夫? 瑠璃ちゃん」

 はっとした。そこに潤がいた。真っ暗な台所に瑠璃は水に手をつけて立っていた。白藍が明かりをつけた。真っ青な顔をして瑠璃を見ていた。

 瑠璃の見たものは一体なんだったのか。もう脳裏からは消えていたが、何とも言えない恐怖と違和感があった。まったく別の世界だった。それは本当に暮らしていたという緑の国なのかはわからない。

 瑠璃はどのくらいそうしていたか覚えていなかった。


「大丈夫?」

 潤が繰り返した。

「あ、おかえりなさい。ごめん。夕食の支度、途中なの」

 どうしてしまったのだろう。

 白藍が瑠璃の洗った野菜を手にする。

「いいわよ。パイがあったから。それを温めて食べれば充分」

 潤が瑠璃を座らせた。

「ごめんなさい。ぼうっとしてたみたい」

「いいの、瑠璃にばかり家事を押し付けて、悪かったわ。疲れたのね」

 そう? 疲れたのだろうか。

 潤がめざとく瑠璃のペンダントを見つけた。

「これ、もう一杯になってる。今日、なにかあった?」


「え? あ、ああ、これね。そう言えば紫黒くんもそんなこと言ってたっけ。新しいのを用意してくれるって」

 潤が興味深そうに瑠璃を見る。じっと目の奥を見つめられた。

「紫黒? 今日、会ったの?」

「そう、お弁当を持って行ったの。紫黒くんに会いに行くってちょっと大変だった」

 潤はうなづいた。

「そうか、会いに出かけたんだね。でもね、瑠璃ちゃん。紫黒ではなくて、彼の名前は竜胆だよ。あなたの許婚は竜胆っていう」

「りんどう・・・・・・」

 そうだ、竜胆だった。なぜ、紫黒なんて言ったんだろう。言ってはいけないんだ。そう決して言ってはいけない名前だった。


「ずいぶんと吸い込まなきゃいけない記憶が現れたんだね。この石はもう一杯だから、そこからあふれかえっている。だから、いろいろなことが頭に浮かんできたんだよ。少し消すね。竜胆が新しいのを手に入れるまで」

 潤が瑠璃の下げているペンダントに手をかざした。今まで瑠璃の頭の中にあった重々しい物がふっと消え、軽くなった。下げて入る水晶の色も少し薄くなっていた。


「今日のこと、ちょっと思い出してみて」

 潤が瑠璃の第三の目のあたりに手を添えた。


 ウサギのパイをかかえ、馬車に乗る。門番に身分証明書の提示を求められてパニックになる。竜胆の名を忘れてしまったこと。能力者かどうか見分けるチェック。

 わずか数秒で、潤は瑠璃の記憶を見ていた。

「なるほど、能力者に心を探られないように水晶ががんばっってくれたんだ」


 白藍が夕食をテーブルに並べてくれる。

「瑠璃が今日、王宮へ来たの? 大丈夫だった? 気疲れしたのね」

「そうかも」

と姉に曖昧な返事をする。

「で? 竜胆はどうだった。お弁当を届けて」

「あ、うん。喜んでくれた」

 瑠璃はわずかに視線を逸らした。潤にすべてわかってしまわないように。

 そう、思い出していた。竜胆が瑠璃を抱きしめた。そのことに動かされた心。そしてそれはただの形でしかなかったこと。落胆、帰りながら泣いたこと。


 そんな瑠璃の複雑な心を知らずに、白藍が嬉しそうに言った。

「なんか二人はやっと接近するようになったのね。じゃ、そろそろ寝室を一緒にしたらどう?」

 半ばからかい半分だろう。

 しかし、瑠璃の心は痛んだ。そんなこと、あり得ない。瑠璃はともかく、竜胆にはまったくその気はなさそうだったから。


「白藍さん。瑠璃ちゃん達をそう急き立てないでください。竜胆との関係は少しづつ進めるっていうことになっていたはず」

「そうですけど、瑠璃がその気になれば後は男女の関係として、それほど難しくないと思うけどな」

「白藍さん、これは二人だけの問題です。周りが軽々しく言うのはやめましょう」

 潤にしては珍しく厳しい言い方をした。白藍が首をすくめる。

「わかりました。二人のことはもういろいろ言わない。長い目で見守ることにするわ」

「はい」

 いつになく、厳しい表情の潤だ。どうしたんだろう。瑠璃が勝手に外出したことにより、何かが起ってしまったようだ。

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