家庭の主婦は大変だ
瑠璃は、泥だらけの野菜を台所の裏口で洗っていた。ほうれん草やその他、名前も知らない葉物野菜、今夜はこれらを使って何を作ろうか。葉と葉の間にはおどろくほどの泥がある。店から買ってくるときはきれいになっていることが多いから、最初は本当に驚いた。
瑠璃たちはここ、キャンベルリバーへ来て、早二週間がたっていた。まず、この広い農家だった家を借り、すぐに潤(烏羽)は王宮建設のオフィスでの仕事が決まり、竜胆(紫黒)は外壁などの工事現場で働いている。白藍は、服飾の仕事の経験と刺繍の腕をかわれ、後宮内の王妃のドレスを手掛ける服飾人として勤務していた。よほど手不足だったらしく、三人ともこの家に引っ越してその翌日には朝から出勤して行った。
瑠璃は家に残り、家のことをすることになった。
元々この家には老夫婦が住んでいた。つい最近まで自分たちの食べる野菜を育て、二頭の牛と二頭の馬の世話をしていた。十数羽の鶏も飼っている。
今、キャンベルリバーでは、家や土地を持っている人は、他から引っ越してくる人のために家や部屋を貸したり、売ったりする場合、優先的に街中にある便利な集合住宅へ入ることができると推進していた。
八十近くになるマルーンは、夫のフォーレストの体が心配だった。それにマルーン自身も使っていない部屋の掃除に疲れていた。
家を貸そうかという話に心を傾け始めた時、瑠璃たちが訪ねてきたときは本当に驚いたという。
今、二人は新しい住宅で快適に過ごしている。それでも暇を持て余している時は、三日に一度くらい、ここに来ていた。家のことをする瑠璃が、野菜栽培のことも牛も馬のことも全く知らないから、なんとか一人でそれらの世話ができるまで通って教えてくれると言ってくれた。
今日も体の丸いマルーンが来て、乳牛から乳を搾り、それでクリームとバターを作ってくれた。瑠璃はやっと少しなら乳が搾れるようになったところだ。
ここでの生活は覚えることばかりだった。特に異国で暮らしていた瑠璃は自分でも嫌になるほど何もできなかった。パンも焼いたことがないというと、マルーンは目を丸くして「おやまあ」と、大げさにつぶやいたほどだ。
マルーンはすぐに、隣の家の夫人を紹介してくれた。四十代後半の紅桔梗は毎日野外マーケットで、午前中にはすべて売り切れるほどの人気なパンを焼くのだという。紅桔梗は気さくな女性で、毎日採れる野菜や卵とパンを交換してもらうことになった。
「この国でパンを焼いたことのない女人がいたとはねえ」
今日もそうつぶやかれた。
マルーンがそういうたびに瑠璃は小さくなっていた。この辺りでは小さい頃から母親のパン作りを手伝う。マルーンは瑠璃のことを孫のように思うのか、時々かなり厳しく言ってきた。パンも焼けない女の子が、人の嫁になるなんて悲劇だとまで言った。
「じゃあ、今まで瑠璃は何を料理し、食べていたのかね」
と口数の少ないフォーレストが聞いた。
その時、瑠璃の頭の中に何も浮かんでこなかった。まったくそうだ。瑠璃は一体何を作り、何を毎日食べていたのだろう。けれどワンテンポ遅れて、次々と浮かんだものは白いホカホカのご飯とみそ汁、焼き魚、野菜の煮物などだ。
米はこの蒼い国では取れない。すべて輸入品になる。瑠璃が緑の国で育ったというと納得してくれた。緑の国は移民が多いし、広大な土地を持つ。さまざまな環境で育った人々が集まり、独特のものを栽培し、売っていた。
「ああ、あの国ならなんでもあるよ。それじゃあ今度、米を買ってきてあげる。瑠璃さんの米料理を食べてみたい」
そうフォーレストが言ってくれた。
あらかたの泥を洗い流した。あとでもう一度丁寧に洗う。それを湯がき、お浸しにしようと思った。
台所に入る。土間になっていて、隅にはまだ泥のついた芋やニンジンが置いてある。
今日もマルーンにブツブツ言われた。瑠璃は手順も悪いのだそうだ。この辺りの娘たちはみんな料理や家事を十六歳になれば殆どできるようになると。瑠璃は親に何を教わってきたんだろうねと。
瑠璃は養子に入っていたと言ってある。けれどその育ての親の顔もはっきりとは思い出せなかった。余りにも曖昧な記憶に手が止まってしまう。マルーンはそんな瑠璃を見て、再びため息をつくのだ。
本当にそうだ。マルーンが顔をしかめるのはわかる。瑠璃は一体何をして暮らしていたのか。学校へ通い、遊んでいた記憶はある。パン? いや、母がパンを焼いた姿を見たことはない。けれどパンは食べていた。焼き立てのパンが並んでいるベーカリーを思い浮かべる。ああ、すべて店から買ってきていた。母、いや養母は・・・・そのしなやかな手がおにぎりを握る。
そんなわずかな記憶しかなかった。
とりあえず、夕食にはポテトグラタンと畑で採れた野菜のお浸しを作る。クリームとバターがふんだんに手に入るため、グラタンなどは作りやすかった。それとお隣の紅桔梗からもらった雑穀パン。これを温めてバターを塗ると噛みしめる度にうまみが口の中で広がるのだ。
潤は馬に乗って帰ってきた。白藍と竜胆はこの辺りまで循環している乗り合い馬車に乗って帰ってきた。
竜胆は、仕事上体力を使うからか、いつも帰るなり腹減ったぁと騒ぐ。そして台所へ入ってきてすぐに何かをつまむ。
この日も案の定、帰るなり竜胆が入ってきた。
「瑠璃、帰ったぞ。晩飯は?」
「あ、お帰り」
振り返ると竜胆は薄汚れた作業服のままだった。
「竜胆さん、そんな恰好でまた馬車に乗って帰ってきたの? 一緒に乗っている人に嫌がられるでしょ。もう」
瑠璃がそう言ったが、竜胆は全く気にしていない。
「いいんだよ。あの馬車はオレ達の仲間がほとんどだったから皆、ほこりまみれだった」
姉の白藍がくすくす笑っている。
「というか、皆、その様子で遠慮していたのよ。私は一緒に乗ってきちゃったけど」
「ほら、皆に迷惑かけているんだから、自覚してよ、自覚」
「うっるせぇな。いいから食べようぜ、腹減って死にそう」
「だめ、手と顔を洗って着替えてきてよ。その埃だらけの作業着は絶対にお風呂場で脱いできて」
「ええ~」
抗議の声を出す竜胆だが、瑠璃はその口に雑穀パンの切れ端を突っ込んだ。竜胆はそのパンをもぐもぐと咀嚼しながら二階へあがっていく。
「全く子供なんだから」
瑠璃がブツブツ言いながら、温め直したグラタンをダイニングテーブルの中央に置いた。白藍が笑いながらサラダを取り分けてくれる。潤も入ってきた。手にはボトルを持っている。
「今日、赤ワインをボスからもらったよ。今までわき目もふらずに働いてきたから、今夜はこれで乾杯しよう」
そこへ竜胆も姿を現せた。
「おっ、すっげぇ。ワインとか酒類はしばらく飲んでなかったな」
竜胆はまるで昔から酒を飲みつけていたかのようなことを言った。
「大げさ。竜胆さん、そんなにお酒、好きだっけ」
「あ、まあな」
皆がリラックスしていた。赤ワインを開け、皆が瑠璃の作ったグラタンを食べる。
しかし、竜胆が文句をつけた。
「なんだよ。肉が入ってねえよ。また野菜ばっかりの夕食か。せっかくの赤ワインなのに」
「だってしかたないでしょ。肉を買うには繁華街まで行かないといけないし、この近くの野外マーケットにはあまり肉は売っていないの」
「オレは毎日体力を使っているんだ。肉が食いたいっ」
子供のような竜胆、それに対してすぐに反応する瑠璃。このくらいのやり取りは毎日のことだったから、白藍も潤も気にしないで食事をしていた。
「この辺りでは肉用にウサギを檻で飼っているらしい。うちもそうしようぜ」
瑠璃は目をむく。
「ウサギ? 誰がそれを肉にするのよ。冗談じゃないわよ」
瑠璃にとってはウサギはペットでしか見られない。ところがこの周辺では肉のために飼う家が多い。牛や鶏は、乳、卵を生むから肉用にはしない。定期的に肉を食べるにはこうした小動物を飼うのだ。
そのことに反論すると、竜胆は体力が持たないと騒いだ。
「全くもう、竜胆さんみたいにひ弱なタイプは水堀を作るとか城壁を作るなんて、無理なんじゃないのっ」
「ばっかっ、ああいうのはな、力があるないじゃない。知恵なんだよ。オレはそれを評価されてるんだ」
「その割にはお腹が空くのね。知恵だけならそんなに空腹にならないでしょ」
「ばっかっ、頭を使うんだって腹は減るんだ。明日は肉を食わせろよ」
仕方がない。明日はマーケットを探し、もし見つからなかったら繁華街へ出て買ってこようと思う。




