コントロール不可能な体
銀朱が食堂を出て行った。今から準備で忙しいのだろう。
真朱はホッとしていた。
カスミが近寄ってくる。
「もう少し紅茶をお召し上がりになられますか」
真朱がリラックスした直後だった。カスミはその空気を感じ取っての言葉をかける。
「もらおう」
カスミは当然の様子で、すぐさま真朱のカップにアツアツの紅茶を注いだ。
「クリームを少し入れますときっと真朱さまのお好みのミルクティになります。お試しなされますか」
真朱はカスミを見る。今まで真朱は、紅茶の色を楽しみ、その味を感じることが好きだった。クリームやミルクを入れるとその色も味も別のものになってしまうと思い、試したことはなかった。
不思議と腹が立たなかった。もし他の者が、オリーブでさえ、こんなことを言ったら真朱は腹を立てていたかもしれない。カスミの言う通りに試してみようと思った。
真朱がかすかにうなづくと、カスミはそれをイエスと判断し、クリームを入れた。
それを見て、カスミは真朱がクリームを入れることを許可するとわかっていたことがうかがえた。
一口飲んでみた。確かに全く別ものだが、そのまろやかさとほんの少しの甘味が口に広がり、これもおいしいとわかった。不思議な感覚に襲われていた。真朱はこれを知っていた気がしたからだ。まるで懐かしい家に戻ったかのような安堵した味とでも言おうか。
真朱の満足げな表情に、カスミもうれしそうだった。
民衆の前に出るということで、再び着替える。真朱の前には出来上がったばかりのシェルコ・トゥベールがあった。淡い朱の色、まさしく真朱色のコタルディに紅色をベースにした手の込んだ刺繍が入ったシェルコ・トゥベールは映えた。
「なんと美しい刺繍。このような刺繍をする服飾人がいるとは」
「はい、今、この街には優秀な人員がどんどん集まっております。この者はひと月前から王妃さまの服飾部屋に勤務しております」
「そうか」
銀朱の言う通り、今、皆がこぞってこの街に職を求めて来ているのだ。その能力を生かせる職場につけるからだ。
真朱がそのシェルコ・トゥベールを身につけると、その者の忠義心、優しさが伝わってくるような気がした。
「さあ、参りましょう。もうお時間でございます。皆が真朱さまをお待ちでございます」
カスミはそう言って、鏡の中の真朱と目を合わせる。
「そなたには礼を申すぞ。よくやってくれている」
真朱がそういうとカスミは頭を下げる。
「もったいないお言葉でございます」
後宮を出て、表の館へ行く。カスミが先導してくれていた。しっかりとした厚い絨毯が敷かれた廊下。いくつもの部屋が並んでいるその先に、一人の男性が現れた。
「真朱さまでございますね。わたくしは銀朱さまの侍従で、タンと申します。ここからはわたくしがご案内いたします」
タンは、真朱の頭一つ飛び出て背が高い。それでいて華奢な肢体で、青年というよりもまだ少年の翳りを残していた。
銀朱の侍従、初めて見た。あの銀朱が選んだ者ということは、それなりの能力者ということになる。油断しないほうがいいのだ。銀朱は一般人の中からもその能力の可能性がありそうな人を選びだし、訓練もさせているという。もう能力に秀でているとわかっている人のほとんどは、黒い森に入っている。黒い森の守り役たちには、本王宮の息がかかっている。彼らが銀朱に協力する可能性はなかった。
このタンからは能力者という感じは受けない。普通の人なのか。
真朱は、自分と年齢が近いタンに興味を持っていた。
《わたくしは十七歳でございます。先日、誕生日を迎えました》
はっきりとしたテレパシーが送られてきた。先を歩いているタンから送られてきたのだ。
真朱の頭の中が読まれていたらしい。
《読まれていたか。わらわとしたことが不覚よのう》
《いえ、読んでいたわけではございません。ちょっと関心をよせた時、わたくしの年齢に興味を示されたのが伝わってきましたので》
それからもタンからいろいろな景色が流れ込んできた。すぐれた能力を持っているが、能力者同士の交流をあまり知らないのかと思う。ブロックや自分の考えをもらさない訓練がまだ浅いのかもしれない。
しかし、真朱はタンから流れてくる風景を楽しんでいた。
タンは、この北のキャンベルリバーから南下した海岸沿いの小さな町に生まれた。林を抜けると美しい海が広がっている。その見慣れた風景に愛着を感じる。
大柄の男はたぶん父親だろう。その横にいる華奢な女性は母親。タンは絶対的に母親似だとわかった。笑いがこみ上げてくる。父親は王宮づくりのためにここへ呼ばれた。今、彼は王宮の周りの塀、掘りを作っている。初めはタンもその手伝いで、現場で働いていたが、銀朱がタンの能力を感じ取り、侍従として雇われたばかりだった。
タンは幼い頃から自分の能力に気づいていた。人が口にしていないことを先に言ってしまったりして、奇妙な目で見られることが多くなった。父親はその能力を知られると黒い森から迎えがきて、二度と親と会えなくなると言い、タンはそれが恐ろしく、ずっと隠していた。
タンは銀朱のことを悪い人だとは思っていない。しかし、いい人かどうかは分かりかねる。ボスと割り切っていることもわかった。
《という経緯で、わたくしはここにおります》
タンが頭の中から自分の経歴の景色を消した。訓練が浅く、意識から漏れていたわけではなかった。真朱に見せたのだ。してやられたという意識が起る。
「なんたる不覚」
真朱がそう口にしたから、後ろにいたカスミが驚いていた。カスミにはそのテレパシーが感じられないからだ。
「あ、すまぬ。タンと話していた」
カスミはすぐに納得した。能力者同士の会話だ、全く気にする様子はなかった。
ガランとしたホールに入っていく。ここはようやく内装を終らせた様子で、絨毯もなにも入っていなかった。バルコニーへのガラスのドアは開いていた。外からは民衆の歓声が聞こえてきた。外の広場に大勢が集まっているのがわかった。
もうすでに銀朱はバルコニーに出て、姿を見せていた。挨拶を済ませたらしい。
「さあ、銀朱さまと民衆がお待ちでございます。あちらへどうぞ」
わかっている。その向こうからものすごい期待感と妬み、人々の持っている不安などのネガティブな念まで伝わってきた。
思わず、足が止まる。
前回は、真朱の頭の中ははっきりしていなかった。だから、受ける念は少なかった。エンパスである真朱にはそれを受ける覚悟が必要だった。
《真朱さま、こちらへ》
銀朱だった。なかなか姿を現さない真朱に苛立っている様子。真朱も王妃だという気がある。
深い呼吸をし、一歩踏み出した。
民衆は、真朱の姿を見て歓声を上げた。それまで不安を持っていた人々が、他の人の興奮に感化され、期待度がぐっと増していた。
真朱はお辞儀をし、ゆっくりと顔を上げた。その瞬間、真朱をこの目で見られたという人々の感動が押し寄せてきた。真朱さまという歓声が飛ぶ。民衆のほとんどは真朱を見に来ていたことがわかった。そして真朱の装いに皆が満足している。美しい、大人びたと感じていた。
手を振ると再び歓声が高まった。
真朱はまさしく、この蒼い国の王妃として認められていた。そのことを実感していた。
しかし、次の瞬間、真朱は奇妙な感覚に陥った。頭の中と体の連結が何者かによって切られていた。体が言うことを利かない。勝手に銀朱を見て微笑み、再びバルコニーの外にも笑顔を向けている。体が他人の物のようだった。
銀朱が真朱に近づいてきた。いや、寄り添うといったほうがいい。今までこれほど近づいてきたことはなかった。いつもの真朱なら反射的に退いてしまう、そんなに密着した距離だった。
銀朱の手が、真朱の腰に回る。そのまま引き寄せられていた。嫌悪感が走る。しかし、真朱の体はそのまま銀朱の胸にもたれかかるようにしている。そしてうれしそうに銀朱を見た。
一体なにが起ったのかわからなかった。
銀朱が、声を張り上げて、民衆に伝える。とたんに人々は口を閉じ、この声明に耳を傾ける。
「ここに在らせられる真朱さまが今やこの国の代表者でございます」
真朱は動かせぬ体で、意識をすべて銀朱に向けていた。何かとてつもないことを言うつもりだとわかった。真朱が普通なら受け入れないようなことを皆の前で発表しようとしている。だから、こうして真朱の体をコントロールしている。
何を言うのか。昨夜は自分がこの国の最高責任者とまで言い切ったこの男が、真朱を持ち上げて何かをしようとしていた。
「真朱さまは、王不在の今、この国を一人で守り抜くことに不安を覚えていると申されました。その不安ももっともでしょう」
民衆の方からショックを隠し切れない声が漏れてきた。銀朱はそれを吹き飛ばすような凛とした声を張り上げた。
「昨夜、真朱さまはこの銀朱に、王の代りになってほしいと申し渡されました」
皆がわあ~と歓声を上げた。
そうか、もう無理やり国民の前で認めさせられていた。
「王がまだ病に伏せっておられます。昨夜、王妃さまはこの銀朱を、人生のパートナーとして一緒に歩むことをお望みだと申されました。それを今日、皆様に伝えたく、急きょこの場を設けたのです」
真朱は頭の中が真っ白になっていた。この銀朱を、真朱が人生のパートナーとして選んだと。伏せっている王、そっちのけでだ。何たる汚点、真朱はそれが偽りであっても恥と考えている。しかし、真朱の体は銀朱を頼もしそうに見つめていた。
これでは国民全員が、真朱は銀朱に夢中だと思われてしまう。
そこではっとした。真朱は今朝、既婚女性の装いで立っている。勘の鋭いものはこの変化に銀朱と真朱との間のことを想像しているかもしれなかった。
仕組まれた。すべてこうなるように設定されていたのだ。
《そうかもしれぬぞ》
銀朱は、真朱の考えていたことを読み取っていた。
銀朱が伝えてくる。真朱の頭の中に、薄暗い中、人のシルエットが浮かんできた。銀朱の目が見ていた。ベッドの横たわり、そのベッドに入ろうとしている裸体の女性の影。
これは真朱? いや、まさか。夕べは眠れずにいた。一晩中、寝たり起きたりを繰り返していたはずだ。
しかし、今、体と頭の連結が切り離されている。もしかすると真朱の意識がないまま、体だけが銀朱のところへ行っていたかもしれない。
そんな恐ろしいことを思った。
頭の芯までが凍り付きそうだった。
銀朱は、民衆の前で真朱を抱き寄せ、キスをした。再び、皆が歓声を上げていた。この瞬間、真朱は心を閉じた。
いつの間にか、真朱はベッドに寝ていた。今が一体朝なのか夜なのかもわからなかった。厚いカーテンが引かれている。目覚め、部屋を見回す。すぐ足もとに誰かが座っていた。
「お目覚めでしょうか」
そう声をかけられた。カスミだった。
「今は・・・・何時じゃ」
「はい、もう朝が明けるかと存じます」
明け方、それでは真朱はずっと眠っていたことになる。自分で心を閉じた後の記憶がなかった。
「あれ以来、わらわは・・・・ずっと眠っていたのか」
「はい」
カスミの意識を探る。
その言葉に嘘はなかった。真朱は心を閉じたまま、それでも体は動き、自分の足でこの部屋へ戻ってきた。そのままベッドに入った。それをずっとカスミは見つめていた。
あの銀朱とのことを思うと怒りと恥ずかしさにたまらなくなる。涙がこぼれてきた。自分の意志ではどうすることもできなかったが、銀朱にくちびるを奪われていた。真朱はこのまま消え去りたいと本気で思っていた。それからずっと思い出しては怒りを感じ、涙を流す真朱。しかし、それも過ぎてしまったことと諦めるしかない。
「そなたはずっとついていてくれたのか」
「はっ、いつ真朱さまがお目覚めになられるのかわかりませんでしたので、他の者には任せられませぬ」
温かい言葉だった。以前のオリーブも言いそうだったが、オリーブは忠義心以上に真朱への執着が激しかった。自分の育てた王妃がどう見られているか、その王妃についている自分への評価はどうか、常に頭に置いていた。カスミはただ、本心で真朱のことが心配だったのだ。カスミも銀朱の発表で、真朱が心を痛めていたことを知っている。そのショックから目覚めた時、もしも一人きりだったらという心配をしてくれていた。
真朱は再び、涙がこみ上げてきた。カスミの気持ちがうれしかった。




