目覚めて
深い海の底で、ずっと眠っていたような気がする。しかし、それは決して心地よいものではなく、とても深い眠りで孤独で凍てつくような寒さに震え、怯えていたような気がする。そこから無理やり引きずり出され、再び陽の目を見た時、しばらくは自分が何者だったのかさえ思い出せないでいた。
まず、目に飛び込んできたのは見知らぬ男の顔。少しがっかりした。何も覚えていなかったのに、自分が求めている人とは違うと感じたからだった。
真朱を助けてくれたのは銀朱という男だった。年齢は三十代前半、ずっと黒い森に住み、わずかな人数で診療所を開き、病人を助けてきたらしい。このほど、蒼い国に蔓延した流行病を治していこうと国中を周っていた時、隔離されていた真朱を発見し、完治させたということだ。
それから銀朱の治療は一躍有名になった。人々は皆、こぞって銀朱に診てもらいたがった。今は銀朱は真朱を治したばかりではなく、大勢の瀕死の患者まで奇跡的に助けていく救いの守り役とまで謳われていた。今は彼のことを知らない者はいないほど有名になっていた。
人々はこの銀朱なら、王を治せると噂していたが、王宮はこの銀朱を危険人物だと発表した。銀朱はいずれの黒い森の診療所にも登録されていないからだ。
普通、人を癒し、治療する能力を持つ者は王宮に登録申請をする。そして、守り役としての認定をされてから診療所で働くのだ。その働きにより、王宮からそれに見合った報酬をうける。
銀朱は、それらを怠っている。それは蒼い国では違法である、患者から治療代を受け取っていたと考えられたのだ。
この王宮の対応に民衆は反発した。銀朱は大勢の病人を治している。王宮に登録されている守り役たちよりもずっと強力な癒しで人々を助けていた。民衆は銀朱の方へ付いたのだ。そんないざこざもあり、人々の心は伏せっている王や首都ビクトにある王宮への関心も薄れていた。人々にとっては、目の前の患者を助けてくれることが重要なのだ。
銀朱は言った。真朱はもう治らないと判断され、黒い森の診療所を転々とまわされたらしい。それもただ、隔離されるだけの部屋に寝かされている状態だったそうだ。手の施しようがないくらいひどかったが、銀朱はそんな真朱を不憫に思い、寝食を忘れて癒してくれたとのことだった。
真朱はそんな銀朱に感謝すべきなのだ。そして、王妃という立場にもかかわらず、見捨てた王宮を恨むべきなのかもしれない。
今、銀朱たちは、真朱の生まれ故郷に第二の王宮を建設していた。既に完成していた離宮に本宮殿を足すのだという。今ある王宮よりも大きくし、首都をキャンベルリバーに変えるとまで言っていた。銀朱たちのやっていることは、王宮に対する反乱だった。
銀朱を取り巻く人々は、各町の有力者が多く、金銭面でも支援していた。第二の王宮建設も各地の町長たちが動き、町民から徴収したり、寄付を募った。民衆は、銀朱に協力すれば、自分たちの命も救ってくれるという救世主のような扱いだった。今は誰も昔の王宮などには目もくれないという噂も広まった。
真朱はそんな噂や状況を、ぼうっとした頭で聞いていた。まだ完全に目覚めておらず、ずっと頭の中に霧がかかったような感じだった。肝心なことが思い出せない、それでいて違和感は感じる、そんな中途半端な目覚めだった。
一年間、真朱は王妃としてビクトにある王宮にいたという。はっきりと思い出せない王の事を思うと、悲しくなった。
真朱はずっと離宮に閉じこもっていた。ここが真朱の居場所、後宮となる。
目覚めてからたった一度だけ、ここから出たことがある。銀朱が真朱の病を完治させたという祝いの集会だった。この時はただ、笑っていればいいと言われ、外へ出た。集まった民衆からはその殆どが真朱の回復を祝ってくれていたが、人々の中から《王が完治されればよかった》という心、《本当に王妃なのか》という疑いの念も伝わってきた。そういう負の念は重い。真朱の心にも重くのしかかった。
いずれにせよ、人と係わるということは真朱にとって疲れることだった。まだ、体が自分の思い通りに動かなかった。まるで他人の体を借りて動かしているかのようだった。病に伏せっていたからという銀朱の言葉、しかし、そのひどい疲労感から長時間起きていられなかった。赤ん坊のように起きては眠り、また起きて疲労感に眠るを繰り返していた。
真朱が目覚めてから、オリーブもそばについてくれていた。オリーブは、真朱の記憶よりもかなり若返っていた。みずみずしい肌につややかな髪、なによりも自信に満ちた顔が別人のようだった。
その日、真朱は軽い昼食後、少しウトウトしていた。今日は朝餉の後、ずっと起きて書物を読んでいた。だからなのか、体が鉛のように重い。時々自分の体が他人のもののようにいうことを利かなくなる。まるで頭と体の配線がうまくいかず、体がストレスを感じているようだ。
「真朱さま、ご気分はいかがでしょうか」
「あ・・・・」
オリーブだった。
「恐れながら申し上げます。今、真朱さまのお母上さまがお見えになっております。起きられますか?」
母が来ていた。真朱が回復してから一度も顔を見ていなかった。きっと心配しているだろう。今まで何度も真朱を訪れて来てくれていたが、いつも真朱は疲れ果て、寝ていた。
「もし、ご気分がよろしければ、今日はお会いになられた方がよろしいかと思います」
オリーブの言い方に少しカチンとくる。昔は、真朱にこうしろという言い方はしなかった。そう思っていると、オリーブが凛とした声で言った。
「真朱さま、今日はわずかなお時間でも構いませんので、お母上様にお会いなさいませ。銀朱さまもそう申されております」
「銀朱?」
なぜ、オリーブの口から銀朱の名前が出てくるのか理解できなかった。思わずカッとしていた。体中に怒りのパワーが走り抜ける。
「銀朱がそう言ったと・・・・」
「はい、お母上様は大変心配しております。今日こそ一目、真朱さまにお会いすれば、安心なされると存じます」
そうか、オリーブの心がわかった。真朱が回復し、民衆の前に無事な姿を現せた。しかし、母には一度もその姿を見せてはいない。母が、あの真朱は本物だったのかという疑いを持ち始めていた。母はおかしいと気づいている。なんとなく、以前の真朱ではないということを。今日こそは元気な顔を見せないと変な噂が立ちかねないという銀朱の懸念も、オリーブから伝わってきた。
今までずっと自分の頭の中がすっきりしなかったから気づかなかったが、オリーブの頭の中は殆どなにもなかった。あるのは銀朱からの命令と真朱がどうしているか観察する、それだけだ。昔のような真朱だけを溺愛し、真朱の王妃姿を夢見ていたような忠実な心はもう持ち合わせていない。皮肉なことにそれが、カチンときた瞬間、真朱の頭の中の靄を吹き飛ばしてくれた。真朱の能力が蘇っていた。
「あい、わかった。お母上様に会おう」
真朱は昼から横になるつもりだった。だから今は下着代わりの白いコタルディしか身にまとっていない。上に何かを着るつもりだった。
「真朱さま、もうお母上様は扉の外でお待ちになられております。そのままソファにお座りいただいて、お話しください」
オリーブは真朱の言うことなど聞いてはいなかった。後ろ姿を見せ、すでに扉に向かっていた。
「なっ、なんと、お母上様に会うのに、このようなはしたない姿のままでよいものかっ。もう少々お待ちいただいて・・・・」
「いえ」
能面のような表情のオリーブが扉を開けた。オリーブを叱りつける間などなかった。
もうそこに懐かしい顔が立っていた。母は真朱を見て、深々と頭を下げる。
しかし、母との対面に感動するよりも真朱はオリーブの仕打ちに頭がいっぱいだった。オリーブが、真朱の言うことを聞かずに扉を開けた。それが銀朱の命令だったから。真朱にはオリーブの頭の中のかすかな銀朱の気配を嗅ぎ取っていた。
母が強張った顔の真朱を見ていた。いけない、母上の御前である。しっかりしなければならない。
顔を引き締め、にっこりと笑いかけた。
「あ、お母上様。よくここまで、お越しくださいました」
母を招き入れる。
「このような格好で恥ずかしゅうございます。なにぶん、まだ全快とは言えぬ有様にございます。時々疲れ果て、横になることも多く・・・・」
真朱は必死に弁解していた。しかし、母は何も言わずに潤んだ目で真朱を抱き寄せた。深い一呼吸をしていた。久しぶりの母の匂いがした。誰かに抱きしめてもらうということが、こんなに安心することだとは思ってもみなかった。それだけ真朱は孤独だったのかもしれない。
しかし、すぐに母の心が伝わってくる。
真朱が、まるで別人のような体つきになったと感じていた。病気で痩せたのではなく、骨格から違う、そんな違和感を感じている。
はっとして、真朱は母の腕の中から離れていた。
「お母上様、お変わりはございませんか」
母は、気を取り直して真朱を見る。
「母の心配など無用にございます。本当によかった。一時、行方が知れないという噂が立ちました。家族一同がどんなに心配していたか・・・・」
真朱は少し安心していた。もう母にはさっきの真朱を疑うような心はもう消えている。
「皆が、この真朱のために」
声を詰まらせる。家族とは本当にありがたいものだと感じていた。
母が、今の現状を話してくれた。父は相変わらずリンゴ園に勤しんでいる。兄のカーマインはこのほど王宮の衛士として雇われたということ。
キャンベルリバーは今、この国で一番注目されている大きな街になったということもだ。国中から人々が集まり、人口が増えていた。年寄りたちは畑や家を売り、そのお金で街中の老人用の集合住宅へ入る人が多いそうだ。
真朱は、生まれ育った家を思い出していた。あの周辺が変わらないうちに一度帰りたかった。
オリーブが、もう面会時間は終わりだと知らせるかのように近づいてくる。母もそれに気づき、顔を上げた。
「あ、もうお暇せねばなりません。真朱さまもお疲れでございましょう。突然、押しかけて申し訳ございませんでした」
母が立ち上がった。真朱も立つ。母は、本当に愛おしいものをみるようにして真朱を見ていた。胸がぐっと詰まった。
「では、失礼いたします。元気そうな真朱さまに会えて、母は安心いたしました」
そう言って、母は真朱の手を取った。ぎゅっと握りしめる。
その時、再び母の疑念が伝わる。
これが真朱の手? 細身でたおやかな娘だったが、手はもう少しふっくらとし、こんなに骨ばってはいなかった。いつ握っても暖かい手だったはずという心が入ってきた。
すぐさま、真朱は母の手から自分の手を引き抜いていた。勘に触った。まるで母が、これは本物の真朱ではないと思ったような気がしたからだ。そんな母を追い払うように淡々と言った。
「お気をつけてお帰りください」
「ありがとう存じます。真朱さまもお体をお大事になさいませ」
母は、真朱の表情を気にしながらも、深々と頭を下げて扉の向こうへ去っていった。
オリーブが扉を閉めた。笑みを浮かべている。予定通りに行われたことで満足しているのがわかった。そして、その笑顔は入力されたかのような感情のないロボットのようだった。
「真朱さま、おやすみなされませ。二時間ほどしたら参ります」
真朱は聞こえなかったふりをして、ベッドに横たわった。




