いつも助けてくれる謎の美少女
夕べは気が興奮していてよく眠れなかった。
今夜のことを気にしていたからだろうか。自分ではそんなつもりはなかったが、案外、繊細なのかもしれないと思う。大学の講義を受けて、その後泊りのデート、なんだか長い一日になりそうだった。
講義を受けるにはいささか場違いなカバンを手に、家を出た。それまでは普通の朝だった。
家から出て、すぐに角を曲がった。少し眠くて大きなあくびをした。
「瑠璃さんっ、あぶないっ」
鋭い甲高い声が響いた。瑠璃はその声に、我に返った。
すぐそばに自転車が来ていた。角を曲がったばかりの瑠璃と自転車が鉢合わせしていた。乗っている若い学生も目を丸くして驚愕していた。
キキ~というブレーキが、衣を引き裂くかのような悲鳴を上げた。
瑠璃は動けなかった。彼はすばやく自転車を弾き飛ばすかのように、飛び降りた。おかげで自転車は方向を変え、瑠璃のすぐ横で、派手な音を立てて転がった。
「ごめん、大丈夫?」
学生はすぐさま、瑠璃に声をかけた。全く怪我はなかった。
「はい、大丈夫です。ごめんなさい。ぼうっとしていたから」
「いや、ボクが悪かった。おかしいな、いつも逆側なんか走らないんだ。それなのにどうしたんだろう。今日に限ってこっちを・・・・ごめんね。ぶつからなくて本当によかった」
学生は平謝りだった。瑠璃もあくびをしていた時だったから、自分こそと却って悪く思う。
「いえ、本当に大丈夫。何もなかったんですから」
向こう側から、危ないと声をかけてくれた高校生が駆け寄ってきた。
そちらに目を向ける。その姿は、幻想のようだ。
その少女は、朱色の鮮やかな長い髪を揺らしながら、こっちへ来た。
いや、そうではない。この少女の髪は赤くはない。直毛の黒だ。しかし、瑠璃がこの少女を見ると、必ずその最初の一瞬だけ、朱色に見えるのだった。
「瑠璃さんっ、大丈夫? けがはない?」
そう、彼女が私を良く知っているように、私も彼女を知っていた。
細身の、目の大きな美少女、森本真朱だった。高校一年生、紺のブレザーに海老茶色のリボンがよく似合っている。
「ん、大丈夫。ありがと。まそおちゃんが声をかけてくれなかったら、私、きっと自転車に牽かれてた」
「本当に瑠璃さんって、ぼうっとしすぎてる。もう少し周りに気を使わなきゃだめ」
高校生に注意されている。
「わかってる。私のぼんやり。これでも気を付けてるつもりなんだけどな」
そんな会話を交わしながら、瑠璃たちはトボトボと駅に向かって歩きはじめた。
瑠璃と真朱は、毎朝のようにこうして一緒に駅まで歩いている、らしかった。
らしかったというのは、真朱がそう言っているからだ。真朱とはつい最近、出会ったとばかりだと思っていたが、彼女にそう言われると、そうだったかもしれないと思えてしまう。
現に真朱は、瑠璃のことを何でも知っていた。
高校の時は弓道部に所属、そこのキャプテンに言い寄られ、向こうの都合でフラれたことまで知っていた。
どうしてそんなことまで知ってるの? と聞くと、
「やだあ、瑠璃さんがそう言ってたよ」とか「そう教えてくれた」と破顔するのだ。
真朱のかわいい顔でそう言われると、瑠璃も何も覚えていないことに罪の意識を感じ、あ、そうだったと言葉を濁していた。しかし、そこには何とも言えない違和感があった。そういうことがあった、そういう気がするが、それは本当の記憶なのかと思う時もあった。
真朱の名前は変わっていて、赤の種類、黄色味を帯びた赤、つまり朱色。それでまそおと読むらしい。そう、それはたぶん、瑠璃が目の錯覚かと思うほど一瞬、見えるあの朱色の髪の色。
瑠璃の名前も色の種類だった。瑠璃紺というとわかるかもしれない。だから、真朱のような特殊な色の名前は聞けばすぐに思い出すはずだった。それがそれほど記憶に深く刻み込まれていない気がした。
そんなことを言うと、真朱はにこにこしながら、
「じゃ、瑠璃さんは最近まで私の事を知らなかったっていうの? 私がこんなに瑠璃さんのことを知っているのに? それって変じゃない」
というのだ。
それはそうなのだが、いろいろ覚えていることが無理やりに見せられた目の前だけの記憶のようだ。
でも、よく考えてみると真朱のことはずっと昔から知っていた気がする。その存在というよりももっと奥深いものを感じ取り、ひどく懐かしいものを感じていた。
「うん、真朱ちゃんは他人のような気がしない」
そういうと真朱は、安心した笑顔を向けた。




