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胸が小さいのは好みではない、と言って私を振った下戸の勇者は、今夜も私のバーで泣きながら定食を食べています

掲載日:2026/07/10

 グレアナの目の前で、金色のつむじが小刻みに震えていた。

 伏せた顔から、ぐず、ぐず、と鼻をすする音が響く。

 ぽたぽたと際限なく落ちてくる勇者の涙は、グレアナ自慢のダンジョン産ファントム・ビヒモスの牙から削り出した一枚板のカウンターの上に、水たまりを作っていた。


 王都でも屈指の高級バー『黒のレディ』。

 店主のグレアナの前で、今夜も勇者エイデンは薄汚れた剣術の稽古着を着たまま、失恋に泣きくれていた。


 どうやら今回は修行の直後に振られたらしい。

 ボックス席などに座っていた客たちが、ちらちらと勇者の様子をうかがっていた。

 グレアナは胸の前で窮屈そうに腕を組んだ。胸があるせいで思うように腕が組めず、グレアナはこういうとき苛立ちを感じる。

 

グレアナは翡翠色の目を細めた。


「勇者様、振られるたびにうちに来るの、やめてもらえません?」


 エイデンは涙でぐしゃぐしゃの顔をあげた。


「ここにいるときは勇者じゃなくて幼馴染。優しくしてよ」

「勇者の彼女になりたがっている子はほかにもたくさんいるでしょ。次に行けば?」


 エイデンの澄んだ青い瞳が盛大に歪んだ。


「そんなこと言わないでよ。慰めてよ。いつもの定食で」

「当店には定食というメニューはございません」

「幼馴染枠で、まかない定食」

「お断りします」

「お願い」

「いやよ」

「グレアナのご飯は全部おいしい」

「おだててもだめです」

「……冷たくされたら泣くよ?」

「もう泣いてるくせに」


 グレアナは黙って冷えた水の入ったグラスを差し出した。

 エイデンは一気に飲み干し、大きく息をついた。


「ぷはぁ……うまい酒だ。もう一杯」

「ただの水です。エイデンは下戸でしょ」

「バーで出てくるものは全部酒なの。限りなく水に見える液体でも、ここでは酒なの」


 グレアナは大袈裟にため息をついて見せた。


「はいはい。今夜はそういう設定なのね。で、今回振られた理由は?」


 前回は、聖女にあやかって髪を黒く染めたらしい子に、『わたしのことが好きなの? 胸が好きなの?』と聞かれて迷わず『胸』と答えてビンタを食らった。

 その前は若草色の綺麗な瞳の子に、『あたしと寝るより剣と寝たいってどういうことよ』とキレられて振られた。


 エイデンはまたボロボロと泣き始めた。

 鼻先を真っ赤にして顔を歪めた泣き顔でも、顔がいいのはずるくないか、とグレアナは思うが顔には出さない。


「……定食」


 つぶやいて、盛大に鼻水をすすった。いつもより静かな店内に響き渡った。

 グレアナは顔をしかめ、しぶしぶといった様子で保冷庫の扉を開けた。

 中から甘辛いたれに漬け込んだ魔獣の肉を取り出し、脇に置いてあったカット野菜とともに、調理用の黒手袋をはめてフライパンで焼き始めた。


 店内の客たちの間に、「おお」と微かな動揺が走った。メニューブックにないものを、店主直々に作っているということがどれほど希少か、客は気づいてもエイデンは気づかない。


 魔道具の小型吸臭装置が小さく唸って稼働した。


 カウンターの隅では、注文を記録するための折りたたみ式魔道具注文板が、黒い金具を光らせている。

 エイデンは鼻をひくつかせながら鼻をすするという器用なことをして、また涙をこぼしながら話し始めた。


「剣は肌身離さず、と師匠が言ってたのをそのまま伝えたらなぜか誤解されたんだよな。勇者は品行方正でなければならないってこと、知らないで僕の彼女になるとかおかしくない? そもそも剣への理解がない子とはつき合えない。それに自分か胸かって聞く? どっちもその子じゃん。怒るポイントある?」


 グレアナは無表情のまま、皿にフライパンの中身を盛りつけ、その横にマッシュした熱々のジャガイモを添えた。上に小さなバターをのせ、パセリを散らすのも忘れない。


「わ、ダンジョン前の定食屋さんで出てきた大好きなやつ」


 ずび、と鼻をすすり、口元がちょっとだけ上がった。

 大盛の皿をエイデンの前にどん、と置き、その横にスープの入ったカップを置いた。


「エイデン・ヨーレ。いいかげん、胸にこだわるのはやめなさい。いつか全女性を敵にまわすことになるわよ?」


 ふん、と鼻息荒く言い放ったグレアナを見て、ちょっとだけ気持ちが上向いたエイデンは、またしゅんと筋肉のついた肩を落としてうなだれた。


 根は素直なのだ。人当たりもいい。誰にでも親切。「剣はおのれの弱さを断ち切るためにある」という師匠のもとで、毎日ちゃんと修行を積んでいる。グレアナは、そこはちゃんと評価していた。


 ただ、その高評価を一瞬で台無しにするのが、恋人にしたい女の子の条件だった。


 エイデンはそれでも皿から目を離さず、くすんくすんと泣き続けた。


 勇者に選ばれたくせに、泣き虫なところは子どものころから変わらない。そう、子どものころからエイデンは綺麗な顔をした、泣き虫だった。

 グレアナは十歳の時、三つ年上の彼に、


「わたしと結婚して!」


 と、自分で作った渾身のチョコチップクッキーの袋を差し出した。

 エイデンは困ったように笑って、グレアナの胸を見ながら、


「僕、胸の大きい子が好きなんだ」


 と言った。

 グレアナはそのまま去って行く背中を呆然と見送った。手から滑り落ちたチョコチップクッキーの袋がぐしゃりと音を立てて落ちた。

 エイデンは宣言通り、近所で有名な巨乳の四つ年上の人を追いかけ始めた。


 あの日以来、グレアナは暗い色の服、とりわけ黒い服を身に着けるようになった。


 周囲の者には「薄茶の髪には明るい色の方が似合う」とさんざん言われた。その髪色も、ほどなくして本人にも理由はわからないまま、濃い茶色に変わっていった。しまいには濃い茶色から黒に近くなっていき、いまではほぼ黒髪と言っていいほどになっている。悲しい過去があるけれど、今は、人から黒のレディと呼ばれるのも嫌いではない。


 それに、あのころ平らだった胸は、今では腕を組むにも邪魔なくらいになった。けれど、あの日落ちたクッキーの音だけは、いまだに胸の奥に残っている。

 

 目の前には、黒のレディの原因になった男が、涙のほかに涎を垂らさんばかりに、上目づかいで訴えるようにグレアナを見ていた。


「……フォーク、出してなかったわね」


 エイデンは数度頷き、グレアナが差し出したフォークを手に取ると、勢いよく食べ始めた。

 うらやましそうな視線を送る周囲の客が、ごくり、と唾を飲んだ。

 

 エイデンは泣きながら、

「うまい」

 とか、

「やっぱりこれじゃないとな」


 と言葉を挟みながらも、山盛りの料理を平らげていった。

 そこに、一人の男が近づいた。


「レディ、また失恋報告をお聞きで?」


 三十路くらいの、小ざっぱりした装いの男だった。前髪で目が隠れていて、何を考えているのかわかりにくい。だが、柔らかな物腰で相手を安心させる器量があった。


 グレアナは彼の正体を知った時、さすが、器からして人間とは違う存在だと思った。

 だが、店内では外の身分を聞くのは野暮、という暗黙のルールをグレアナ自身が作っているため、それ以来、ほかの客と同じ対応をしていた。男もその方が心地よいと笑っていた。


 男はさりげなくエイデンの横に腰を下ろした。


「レディ、バーボンをロックで」

「かしこまりました」


 流れるような手つきで、グレアナは注文のグラスを用意した。

 男はグラスを受け取ると、エイデンに向かって、


「失恋に乾杯」


 と、一気に飲み干した。


「ここの酒はうまい。氷もいい」

「ありがとうございます」


 グレアナはにこりと営業スマイルを浮かべた。

 エイデンはもぐもぐと口を動かしながら、二人を交互に見ていた。


「グレアナ、この人はなに?」


グレアナは眉をひそめた。


「食べるかしゃべるかどちらかにして」


 エイデンはごくん、と口に入れていたものを飲み込んだ。


「この男、なに?」

「当店の常連様です」


 男はグレアナへ片目をつむってみせ、グレアナは黒手袋の指先を口元に添え、首をかしげてみせた。

 エイデンは鼻をすすりながらも、ムッとした顔になった。


「グレアナはいつから男を手玉に取るような子になったんだ」

「どこをどうとったらそうなるのよ」

「男に媚を売った」

「お愛想という言葉を知ってる?」

「グレアナはそんなことをしてはいけない」


 グレアナはエイデンをキッとにらんだ。


「女をとっかえひっかえしている人に文句を言われる筋合いはないわ!」

「僕は誠実なおつきあいしかしていない!」

「わたしだって信用第一の商売をしているわよ!」


 二人の間に火花が散った。


「まあまあ」


 男がとりなすように手を振った。


「それで勇者殿、今回の失恋の理由は? またお相手に振られたと?」


 エイデンはとたんに半泣きになり、俯いた。


「……彼女、胸が不自然にデカかったんだ」

「勇者殿は大きい胸が大好きだってことは、みんな知っているからね」


 男が横で含み笑いをし、続けた。


「胸だけが条件ではないっていうのも、みんな知っているよ?」


 男はちらりとグレアナに目を向けた。まわりの客も一斉に、彼女に目を向けた。店内に生ぬるい空気が漂った。

 グレアナは、ぐっと喉の奥で変な音を立てた。

 男はくくっ、と笑い、


「レディ、おかわり」


 とグラスを持ち上げた。

 グレアナはグラスを受け取り、同じものを用意した。


「それで?」


 男に促され、エイデンは続けた。


「胸に詰め物をしていると形が変だからやめたら? って言っただけなのに、逆ギレされて、ビンタを食らった」


 グレアナはあっけにとられた。


「なんで詰め物ってわかったの?」


 男も、店内の客も、聞き耳を立てて待っていた。


「……」


 エイデンはさらに俯いた。


「……だって」


 小さな声だった。


「え? なに?」


 グレアナがカウンター越しに、身を乗り出した。

 自然と、グレアナの豊満な胸が、カウンターの上にのせられる形になった。

 エイデンの頭が、微かに上を向いた。ちらり、と上目遣いにグレアナへ目を向けた。


「胸」


「どういうこと?」


 エイデンはまっすぐ、カウンターにのせられたグレアナの胸を見た。


「僕、毎日本物の巨乳を見ているし」


「……」


「……」


 グレアナが絞り出すように言った。


「……なんて?」

「だからいつも本物のきょ」


 バッコーンッ!


「いったあぁぁぁぁ」


 エイデンが頭を押さえながら叫んだ。

 グレアナは肩で息をしながら、『黒のレディ』特注の「折りたたみ式魔道具注文板」を握りしめていた。

 男が横で、


「ぶふッ」


 と口元を押さえながらむせていた。


「エイデンってほんっとうに最低!」


 グレアナは体を引き起こすと、ばしん! と自慢のカウンターを黒手袋の手で叩いた。


「もう帰って頂戴。それから今後は出禁よ。店の前の用心棒たちにも周知徹底するからそのつもりで」


 エイデンは頭を押さえながら、涙目をグレアナに向けた。


「困るよ。ここに逃げ込めなかったら、自称聖女の王女が追っかけてくる」


 グレアナはつんと横を向いた。


「王女様と結婚すれば一生安泰でしょ。それに自称だろうとなんだろうと、聖女がいなきゃ、魔王を倒しに出発できないじゃない」

「それなんだけど」


 片手で頭をさすりながら、エイデンは食べかけの定食にフォークを刺した。


「魔王討伐、まだ出発できないんだよ。聖女が決まらないから予算がおりない」

「討伐って名前だけで、実際は平和条約の調印式でしょ?」


 エイデンは神妙な顔になった。


「形式って大事なんだってさ。勇者と魔法使いと賢者はそろった。あとは本物の聖女だけ」

「この際王女様で妥協すれば? 綺麗な銀髪を聖女の印である黒髪に染めるくらい本気なんだし」

「僕が嫌なんだよ!」


 エイデンは身震いした。


「あの王女、勇者様勇者様って、僕の名前すらまともに呼ばないんだぞ。香水は百歩先からでもわかるし、声は耳に刺さるし、こっちの話なんか聞きもしない。あんなのに迫られてもうれしくない」

「あ、そう。わたしには関係ない話だし。どうでもいいわ」


 グレアナはそっぽを向いたまま、グラスを磨き始めた。


「グレアナぁ」


 グレアナは知らん顔をして、ほかの客の乾き物のおつまみを用意し始めた。カウンターの中を往復し、話しかけてくる客と談笑を始めた。

 

 エイデンはカウンターの真ん中で、グレアナが綺麗な笑みを浮かべて客と話しているのを見て、また涙ぐんだ。

 ぐずぐずと鼻をすすり、残っていた料理を口に運んだ。


「味がしない」


 それでもエイデンは料理を口に詰め込んだ。


「それで? きみの聖女は見つけられない?」


 隣の男が頬杖をついてエイデンに話しかけた。

 エイデンはまたぶわりと目尻に涙を溜め、ボロボロと泣き始めた。


「わかっているんだよ。僕が本気になる子が聖女になるって教えられたから。でも、そんな子、見つからない」

「どうして?」

「だってみんな、僕が勇者だから近づいてくるだけだ。本当の僕なんて、誰も見ていない。あの王女だって」


 エイデンは口いっぱいに頬張って、機械仕掛けのような咀嚼を始めた。

 大きく喉仏を動かし嚥下すると、重い溜息をついた。


「古代の勇者みたいに本当に魔王を倒したらいいかも。……もう、楽になりたい」


 男がゆっくりと姿勢を正した。


「へえ。そんな度胸があるとはね」


 先ほどまでとは違う声だった。

 エイデンはゆっくりと男へ目を向けた。

 

 長い前髪の奥の瞳が金色に光っていた。その目の中央は人のそれではなく、ヤギのような四角だ。

 男の周りから、黒い瘴気がゆらりと立ち上った。


「おまえ、魔王か!」


 エイデンはスツールから立ち上がり、腰の剣へ手を伸ばした。その手は空を切った。腰にあるはずの剣は、店の奥に入る前にクロークへ強制的に預けられていた。


『ご了承いただけないのでしたら、たとえ勇者様でも入店させるなと、黒のレディからの厳命でして』


 入店時、クローク係はにこやかにそう言った。

 グレアナが言うのなら仕方ないと、半ば安心して預けたのだ。

 エイデンは唇をかんだ。


「たしかに私は魔王だが、ここでは一介の客だよ。グレアナも了解している」


 エイデンははっと目を開いた。


「グレアナはお前の正体を知っているのか。だったらなんで僕に」

「彼女はこの店の主だよ? 客の正体をなぜ外へ言いふらすと思うんだ?」


 エイデンは黙り込んだ。


「きみもいいかげん、素直にならなくちゃ。ほら、大人になるための儀式だ。人間は成人式には祝い酒を飲むものなんだろう?」


 魔王はエイデンへそっとほとんど水のように薄い琥珀色の液体が入ったグラスを差し出した。


「酒は無理やり飲むものでも、飲ませるものでもないんだけど。って、いつの間に」

「さっきまでいたテーブルにキープボトルを置いてある。そこから持ってきただけだよ」

「僕、下戸なんだ」

「グレアナに認められたいだろ?」


 なんのためにと問いたいが、それはなんだか負けた気がする。そう思ったエイデンは、低く唸ると、グラスを掴んだ。

 そのまま口にあて、一息で飲み干した。


「うぅ。まず……」


 手の甲で口元を拭うエイデンに、魔王は呆れた顔をした。

「これをまずいって……」


 エイデンは「ヒクッ」としゃっくりをした。顔が真っ赤になり、目がとろんとなった。


「おやおや」

 

 魔王がびっくりしていると、エイデンは糸の切れた人形のようにカウンターに伏せてしまった。


「ああもう、一滴でも飲ませちゃダメって言ってたのに!」

「そんなことを言っていた日もあったような気がするが、遠い記憶だ」

「誤魔化さないで」


 慌ててグレアナが戻ってきたときにはもう、エイデンはすうすうと寝息を立てはじめていた。


「ここまで弱いとは」

「ここまで弱いのよ。だからこの店を始めたのに」


 グレアナが小声でこぼした。


「彼が食堂で働いているきみのところへほぼ毎日通い詰めていたから、彼には縁のない類の店を?」


 グレアナがびっくりした様子に、魔王は笑った。


「わかるんだよ。人間は無防備だ。過去の記憶を垂れ流して生きているから、見ようと思えばいくらでも見える」

「だったらわかるでしょ。下戸のエイデンが近寄って来られないようにお酒を扱う店を開いたのにしつこく通ってくる。それをやめさせられない自分にも腹が立つし」


 魔王は頷いた。


「きみも素直になれば?」


 エイデンがへへ、と笑った。


「グレアナぁ……かわいい。おいしい」


 グレアナの頬が赤くなった。


 エイデンはむにゃむにゃと口を動かし、カウンターへ涎をこぼした。


「あれが自覚するのは相当先だよ? きみが素直になるほうが、二人とも早く幸せになれると思うよ?」


 グレアナは頬に両手を当て、魔王をにらんだ。


「告白するなら今度はエイデンの番よ!」


 そのとき。


「……グレアナ」


 エイデンの柔らかな声がした。


 ぎょっとしてエイデンを見たが、当の本人は口元をわずかに緩めて、幸せな寝顔を浮かべていた。

 グレアナは先ほどよりも真っ赤になって、唇を震わせた。


「もう、知らない!」


 べー。


 グレアナは舌を出した。


 魔王はグラスを揺らしながら、小さく笑った。


「人間って、本当に面倒くさいな」





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