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聖女は不器用な先生とお祭りを過ごしたい

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/07/01

 目が覚めると、窓の向こうで鐘が鳴っていた。


 低く澄んだ音が二つ。高く軽い音が五つ。アトリエ・アルテの朝の鐘は、いつもこの順番で鳴る。

 開け放した窓から風が入ってきて、カーテンが膨らむ。

 六月の風。乾いた草と、かすかに蜜蝋の匂い。


 今日は夏至祭の日だ。


 わたし――リュミエール・クレティアンは、寝台の上で大きく伸びをしてから、簡素な修道服に着替えた。

 教会にいた頃の美しくて重いコルセット付きのドレスはない。

 聖女として大切に守られる日々も温かかったけれど、わたしは先生のように自分の足で走って誰かの未来を良くする人になりたかった。


 押しかけ同然で弟子入りした日、先生はわたしにこの服を寄越して「動けない服は服じゃない。自分で動いて吉を掴め」と笑った。


 廊下に出ると、すでに朝の空気が光を含んで膨らんでいた。

 石造りの回廊に差す陽が床に四角く落ちて、歩くたびにその四角を踏む。

 修練場のほうから弟子たちの声が聞こえる。木剣を打ち合う音。術式の詠唱。そして――。


「リュミ」


 声は上から降ってきた。

 見上げると、回廊の二階にある手すりに、銀白の髪の女性がもたれかかっている。

 アトリエ・アルテ十二代目導主、グリゼルダ・ヴェルルーン。わたしの先生だ。


 長い銀白の髪が手すりから垂れて風に揺れて、切長の金の瞳がこちらを見下ろしていた。

 黒地に金糸の刺繍が走る長衣を彼女はいつものように着崩していて、鎖骨のあたりが朝日を受けて白く光っていた。

 肩には術式で練り上げた使い魔の小鳥「スーリ」が、丸くなって止まっている。


「おはようございます、先生」

「ん、おはよう」


 先生は手すりに頬杖をついたまま、わたしの顔をしばらく眺めた。

 長身を手すりに預けた姿勢は怠惰に見えるが、あの金色の目は常に何かを測っている。

 占術師でもある先生は、人の顔色を見るのがおそろしく巧い。


「よく寝たか?」

「はい。鐘で起きました」

「そうか。ならいい目覚めだ」


 先生はそう言って、ようやく手すりから身を離した。長衣の裾がふわりと翻る。

 階下に降りてくる足音は、あれほどの実力者とは思えないほど軽い。


「今日は夏至祭だ。街に降りるぞ――と、その前に朝飯だ。腹が減っては占いもできん」


 先生はそう言いながら、すでに歩き始めている。わたしは小走りについていく。これがいつもの朝だ。

 その距離は近すぎず、遠すぎず、先生の背中がちょうど視界いっぱいに収まる距離。


 食堂で朝食をとった。

 黒パンと山羊のチーズ、蜂蜜、薄切りの干し肉。

 先生は蜂蜜をパンに塗りすぎる癖があるので、わたしがそっと蜂蜜壺を遠ざけると、何も言わずにチーズへ手を伸ばした。

 毎朝のことだ。


「今日の占いは?」


 わたしが聞くと、先生は咀嚼そしゃくしながら軽く右手を振った。

 指先から淡い光が散って、空中に小さな紋様が浮かぶ。


「吉だ」

「また吉ですか?」

「文句があるのか?」

「ありません。先生の占いはいつも吉ですから」

「そういうことだ」


 先生は満足そうにパンをちぎった。


 アトリエ・アルテから街までは山道を三十分ほど降る。

 先生はこの道を歩くとき、決まってスーリを空に放つ。


 使い魔の小鳥は旋回しながら上空に昇り、周囲に異常がないか見張る。

 濁域の瘴気が山麓に下りてくることは稀だが、先生は「念のためだ」と言う。


 街に着くと、祭りの支度が始まっていた。


 石畳の大通りに色とりどりの幟が渡され、露店が両脇にずらりと並んでいる。

 焼き菓子の甘い匂い、香辛料の鋭い匂い、花の匂い。

 子供たちが走り回り、楽師が広場で調弦をしている。


 夏至祭は一年で最も昼が長い日を祝う行事で、日没まで歌い、踊り、食い、そして日没後に火を灯す。

 これは昔から続く伝統で、今年は先生が火を灯す番だ。


「リュミ。屋台を見てこい。好きなものを買っていいぞ」

「先生は?」

「私は広場の設営を確認してくる。火の台座がちゃんとできているか見ておかないとな」


 先生はそう言ってわたしに革の小袋を渡し、ひらひらと手を振って人混みの中に消えていった。

 銀白の髪と、黒と金の長衣。あの背中は群衆の中でもすぐに見つかる。人の流れが先生を避けるように割れるのだ。

 畏敬なのか、単に圧が強いのか、おそらく両方だろう。


 わたしは屋台を見て回った。

 焼きたての蜜りんご飴。粗塩をまぶした揚げパン。干し葡萄入りのチーズケーキ。色硝子の小物。革の編み紐。子供向けの木彫りの玩具。


 蜜りんご飴を二つ買った。ひとつはわたし用。ひとつは先生用。

 先生は甘いものに目がないくせに、自分からは買ってこいとは言わない。


 ただ、わたしが差し出すと「ああ」とだけ言って受け取る。

 その「ああ」にはいつも、ほんの少しだけ声が柔らかくなる成分が含まれている。

 わたしはそれを聞き逃さない。弟子の特権だ。


 広場に戻ると、先生が台座の横に立っていた。

 石造りの台座の上に、油を染み込ませた大きな松明が据えられている。

 日没後にこれに火を灯すのだ。


「設営は大丈夫でしたか?」

「ああ。問題ない。去年より台座が頑丈になっている。鍛冶ギルドの連中がいい仕事をした」


 先生はそう言いながら、わたしの手元にある蜜りんご飴へ目を落とした。


「……」

「どうぞ、先生」

「別に欲しそうな顔はしていないが」

「していました」

「――ま、もらえるなら、もらうが」

「素直でよろしいかと」

「うるさいぞ」


 先生はわたしの目を見つめてから蜜りんご飴を受けとり、蜜りんご飴をひと口かじった。かりっ、と小気味よい音がした。

 金色の瞳が一瞬だけ細くなる。満足の合図だ。

 わたしは自分の分をかじりながら、その横顔を盗み見た。


 祭りは順調に進んだ。


 昼過ぎには広場で演劇が始まった。旅の一座が英雄譚を演じる恒例の出し物だ。

 先生とわたしは広場の端の石段に並んで座って観た。

 途中で先生は「この英雄、判断が遅い」と小声で批評し、わたしは「お芝居ですから」とたしなめた。


 午後には子供たちが先生のところにやってきて「占って、占って」とせがんだ。

 先生は面倒くさそうにしながらも一人ひとりに術式を見せてやり、全員に「吉」を出してやった。

 子供たちが去ったあと、わたしが「全員吉ですか」と聞くと、先生は「当然だ。子供の未来が凶であってたまるか」と言った。


 夕方になった。

 空が茜に染まり始め、広場に人が集まってくる。


 楽師たちが祝祭の曲を奏で始めた。

 笛と太鼓と擦弦楽器。軽快な旋律に乗って人々が踊り始める。


「そろそろだな」


 日没の刻。火を灯す時間だ。

 先生は立ち上がり、台座に歩み寄り、右手をかざした。


 術式の紋様が空中に浮かぶ。

 紋様から一筋の白い炎が伸び、松明に触れる。


 ぼう、と音を立てて火が灯った。


 白い炎が橙に変わり、金に変わり、やがて空に向かって高く燃え上がる。

 群衆から歓声が上がった。吉の火だ。


 この火が燃えている間は、濁域の瘴気が山を越えてこないと言い伝えられている。

 実際、アトリエ・アルテの術式が火に編み込まれているので、迷信ではない。


 先生が群衆のほうを向いた。

 普段は無表情に近い顔が、火に照らされて柔らかく見える。


「今年も吉だ」


 先生の声は大きくない。でも広場の隅まで届いた。

 それが術式による増幅なのか、先生の地声がそもそも通るのか、わたしにはわからない。

 ただ、その一言で群衆がもう一度湧いた。


 祭りは日没後も続く。踊りと酒と歌。

 わたしは先生の隣に戻って、広場の端から火を眺めていた。


「先生、いいお祭りでしたね」

「ああ。まあまあだな」


 先生は火を見ていた。

 炎の色が金の瞳に映って、揺れていた。


 その時、広場の東の端で、大きな音がした。


 わたしと先生が同時に振り向いた。

 露店のひとつ、焼き菓子の屋台が傾いている。どうやら支柱が折れたらしい。

 屋台の前には子供がいた。崩れてくる屋台の天幕に、まさに押し潰されようとしている。


 先生が動くより早く、わたしが走った。

 走りながら術式を編む。聖女としての治癒術ではない。怪我をしてから神に祈って治すのでは遅いのだ。

 先生に習った風の術式を選び、天幕そのものを吹き飛ばして、怪我という未来を物理的に防ぐつもりだった。


 間に合わなかった。


 天幕が子供の上に落ちる。わたしが術式を発動したのは、その一瞬後だった。

 風が天幕を巻き上げ、子供は泣いていたが、怪我はなかった。

 天幕の布が落ちただけで、支柱は横にずれて地面に刺さっていた。不幸中の幸いだった。


 でも、わたしの胸の中に、冷たいものが残った。


 一瞬、遅かった。先生がわたしの隣に立った。

 子供を抱き上げて親に渡し、屋台の店主に修繕を手伝うよう弟子たちに指示を出し、周囲を落ち着かせた。

 先生はこういう時、驚くほど手際がいい。


「リュミ、よくやった」

「……間に合いませんでした」

「子供は無事だ。間に合った」

「でも、あと一瞬遅かったら」


 先生はわたしの頭に手を置いた。

 ぽん、と一度だけ軽く叩く。


「結果が吉なら、過程を悔やむな――とは言わんが。悔やむのは明日にしろ。今日は祭りだ」


 わたしは頷いた。

 でも、胸の冷たいものは消えなかった。


 夜が更けて、祭りが終わって、アトリエ・アルテに帰って、寝台に横になった。

 窓の外では火がまだ燃えている。橙色の光が天井に揺れる影を落としていた。


 あと一瞬早く動けていたら。

 その後悔を抱いたまま、わたしは目を閉じた。


 ****


 目が覚めると、窓の向こうで鐘が鳴っていた。

 低く澄んだ音が二つ。高く軽い音が五つ。


 ――あれ。わたしはしばらく寝台の上で天井を見つめた。

 同じ鐘。同じ順番。同じ風の匂い。乾いた草と蜜蝋。カーテンが同じ角度で膨らんでいる。


 着替えて廊下に出た。石造りの回廊に差す陽の角度が同じだった。

 床に落ちる四角い光も同じ。修練場から聞こえる木剣の音も、術式の詠唱も。


「リュミ」


 上から降ってくる声。見上げると、先生が手すりにもたれかかっている。

 銀白の髪。黒と金の長衣。スーリが肩に止まっている。

 寸分違わず、昨日の朝と同じ光景。


「おはようございます、先生」

「ん。おはよう」


 先生は手すりに頬杖をついて、わたしの顔をしばらく眺めた。


「よく寝たか?」

「……はい」


 何かがおかしい。


「今日は何の日ですか?」

「夏至祭だ。どうした、寝ぼけたか?」


 夏至祭。昨日と同じ日だ。

 わたしは息を吸い込んで、吐いた。寝ぼけているのかもしれない。

 夏至祭の前夜に変な夢を見て、それが妙にリアルだっただけ。きっとそうだ。


 食堂に行った。

 黒パンと山羊のチーズ、蜂蜜、干し肉。先生が蜂蜜をパンに塗りすぎるので壺を遠ざけた。

 先生は何も言わずチーズへ手を伸ばした。


「今日の占いは?」

「吉だ」

「……ですよね」


 街に降りた。

 色とりどりの幟。露店の並び。焼き菓子の匂い。子供たちの声。楽師の調弦。

 全て同じだった。


 蜜りんご飴を二つ買い、先生に渡した。

 先生はわたしの目を見てから受け取った。


「別に欲しそうな顔はしていない」

「していました」


 同じ会話。同じ反応。

 わたしの心臓が、嫌な打ち方をした。


 昼過ぎの演劇。先生の「この英雄、判断が遅い」。

 子供たちへの占い。全員に吉。


 夕方。茜の空。楽師の祝祭曲。

 日没。吉の火。


 そして、屋台が傾いた。子供が泣いている。

 わたしは走った。今度は間に合わせる。


 ――間に合わなかった。


 まったく同じだった。

 術式の発動が一瞬遅れ、天幕が子供の上に落ちてから風で巻き上げた。

 子供は無事。でも一瞬、遅かった。


 先生がわたしの頭を軽く叩いた。


「結果が吉なら、過程を悔やむな――とは言わんが。悔やむのは明日にしろ。今日は祭りだ」


 明日。

 再び明日は来るのだろうか。


 夜が更けて、アトリエ・アルテに帰って、寝台に横になった。

 あの一瞬を縮めたい。その一念だけが、暗闇の中で脈打っていた。


 ****


 目が覚めると、窓の向こうで鐘が鳴っていた。


「……知ってた」


 わたしは天井に向かって呟いた。

 三度目の夏至祭。三度目の朝。三度目の鐘。

 今度は確信がある。これは夢じゃない。わたしは同じ日を繰り返している。


 着替えて廊下に出た。回廊。光の四角。木剣の音。


「リュミ」

「おはようございます、先生」


 見上げると、先生がいる。

 いつもの場所、いつもの姿勢。銀白の髪。金の瞳。着崩した長衣。使い魔のスーリ。

 でも、先生は少しだけ首を傾げた。


「お前さん、今日は妙に目が据わっているな」


 わたしは一瞬、息を詰めた。

 ループの外にいるはずの先生が、わたしの異変に気づいている。一周目では言われなかった言葉だ。

 二周目は「寝ぼけたか?」だった。三周目は「目が据わっている」と。


 先生はループを知らない。

 でも、わたしの顔を見ている。


「……少し、気合が入っているだけです」

「ほう。祭りに気合を入れるのは悪くない」


 先生は手すりから離れた。いつもの軽い足音。

 この日を三回目にして、わたしは一つ理解した。


 わたしがどんな顔をしていても、先生はそれを読む。

 ループの記憶がなくても、先生の目はわたしを見ている。

 毎回、初めて見るわたしを正確に。


 食堂。

 黒パン。蜂蜜壺を遠ざける。チーズ。占いは吉。


「先生。一つ聞いていいですか?」

「なんだ?」

「もし同じ日が繰り返されるとしたら、先生ならどうしますか?」


 先生はパンをちぎる手を止めて、わたしを見た。


「どういう話の流れだ?」

「仮の話です。もし今日という日が、何度も何度も最初から繰り返されるとしたら」


 先生はしばらく考え込んだ。

 チーズを一切れ口に放り込み、咀嚼そしゃくしながら、天井を見た。


「そうだな――まず、昼寝の時間を増やす」

「……先生」

「冗談だ。半分はな」


 先生はわたしに目を戻した。

 金の瞳がまっすぐこちらを射る。


「繰り返すなら、毎回違う自分でいることだな。同じ日を過ごしても、自分が変われば別の一日になる」

「でも周りは同じです。何をしても、夕方になったら同じことが起きます」

「そうか。なら、夕方に何かが起きるんだな?」


 わたしは口をつぐんだ。言いすぎた。

 先生は鋭い。仮定の話のつもりが、もう半分看破されている。


「……仮の話です」

「ああ。仮の話だな」


 先生はそれ以上追及しなかった。

 ただ、食堂を出る間際にわたしの肩をぽんと叩いて、「今日は吉だ。忘れるなよ」とだけ言った。


 三周目の夕方。わたしは朝から計画を立てていた。

 屋台が倒れるのは、東の端の焼き菓子屋台。時刻は火が灯された直後。原因は支柱の老朽化。

 子供が屋台の前にいるのは、焼き菓子を買おうとしているから。


 なら、子供が屋台に近づく前に、支柱を補強すればいい。


 昼過ぎ、わたしは演劇を観る先生の隣を離れて、焼き菓子の屋台に向かった。

 店主に「支柱がぐらついているようですが」と声をかけたが、店主は「まあ古いからね。でもまだ持つよ」と笑った。


 わたしは術式で支柱を補強した。

 風の術式の応用。木材の繊維を圧縮して硬度を上げる。

 先生に習った技術だが、正直そこまで自信はない。


 夕方。日没。吉の火。


 わたしは息を止めて屋台を見ていた。

 支柱は持ちこたえている。子供が焼き菓子を買って、笑いながら走っていく。天幕は微動だにしない。


 やった。やった?やった、のか?


 わたしは深く息を吐いた。胸の冷たいものが溶けていくのを感じた。

 今度は間に合った。いや、そもそも事故が起きなかった。


 先生が隣に来た。


「どうした。えらく安心した顔をしているな」

「いえ、その――今日はいい祭りだったなと思いまして」

「ああ。まあまあだな」


 同じ返事。

 でも今日は、先生の「まあまあ」が少しだけ温かく聞こえた。


 夜が更けた。アトリエ・アルテに帰った。寝台に横になった。

 今度こそ、明日が来る。そう思いながら目を閉じた。


 ****


 目が覚めると、窓の向こうで鐘が鳴っていた。

 低く澄んだ音が二つ。高く軽い音が五つ。


「……嘘でしょう」


 四度目の朝だった。

 事故を防いだはずなのに。子供は無事だったのに。何がいけなかったのか。

 わたしはしばらく寝台の上で、天井の染みを数えた。


 着替えて廊下に出た。回廊。光。木剣の音。


「リュミ」

「おはようございます、先生」


 見上げた先に、先生がいた。

 手すりに頬杖。銀白の髪。金の瞳。スーリ。


 先生がまた、首を傾げた。


「お前さん、今日はやけに疲れた顔をしているな」


 三周目は「目が据わっている」。四周目は「疲れた顔」。

 わたしの内面が変わるたびに、先生はそれを正確に拾い上げる。

 ループの記憶がないのに。毎朝初めて会うわたしを見て、毎回違う言葉をくれる。


「少し考え事をしていて」

「ふむ。まあ、祭りの日に考え事というのも悪くない。普段と違う空気で考えると、違う答えが出ることもある」


 先生はそう言って降りてきた。


 食堂。

 黒パン。蜂蜜。チーズ。


 わたしは食べながら考えた。事故を防いでもループは終わらなかった。

 ということは、事故そのものが原因ではない。

 わたしの後悔が原因かと思ったが、後悔を解消しても繰り返された。


 なら、何が原因なのか。わたしにはわからなかった。

 わからないので、今日は少し、力を抜くことにした。


 街に降りた。いつもの風景。でも今日は、意識して細部を見た。

 幟の色の順番。露店の並び。左端が革細工で、その隣が香辛料で、その隣が干し果物。

 焼き菓子の屋台は東の端から四番目。子供向けの玩具屋は西の端。


 蜜りんご飴を二つ買って、先生に渡した。


「別に欲しそうな顔はしていないぞ」

「知ってます。でも受け取るんでしょう?」


 先生の動きが一瞬止まった。

 台詞が変わったから。わたしの返事がいつもと違ったから。


 先生はループの外にいるので「いつもと違う」とは思わないはずだが、それでも何かを感じ取ったのだろう。

 金の瞳がわずかに細くなった。


「……生意気を覚えたな」

「先生の弟子ですから」


 先生は鼻で笑って、蜜りんご飴を受け取った。


 四周目の夕方。事故は今回も防ぐことにした。昼過ぎに支柱を補強。

 夕方、屋台は倒れない。子供は無事。

 でも、もう一つ試してみた。


 日没後、先生が火を灯した直後。

 群衆が歓声を上げているとき、わたしは先生の隣に駆け寄って言った。


「先生、今年の火、とても綺麗です」

「ああ。上出来だ」

「先生の横顔も綺麗です」


 先生の蜜りんご飴をかじる手が止まった。


「……唐突だな」

「思ったことを言ってみただけです」

「そうか」


 先生はわたしをちらりと見て、それからまた火に視線を戻した。

 耳の先がわずかに赤い。嘘だろう。あのグリゼルダ・ヴェルルーンの耳が赤い。

 火の照り返しだと言われればそれまでだが、わたしは弟子だ。見逃さない。


「……火の色が映っているだけだ」


 先生が何も聞かれていないのに言った。


「何がですか?」

「何でもない。黙って火を見ろ」


 わたしは笑った。

 声に出して笑ったのは、このループが始まって初めてかもしれなかった。


 ****


 朝だった。

 鐘が鳴った。同じ鐘。同じ風。


「……もう数えるのはやめよう」


 わたしは寝台から起き上がって、一つ決めた。

 事故は防げる。でもループは終わらない。原因はわからない。

 ならば、今日を楽しむことにする。どうせ繰り返すのだから。


「リュミ」

「先生、おはようございます」


 先生が手すりから見下ろしている。

 今日はどんな言葉をくれるだろう。


「お前さん、今日は……なんだ、妙にすっきりした顔をしているな」

「ええ。吹っ切れたので」

「何をだ?」

「いろいろです。先生、今日は朝からお願いがあります」

「なんだ?」

「髪を結ってください」


 先生の眉がわずかに上がった。


「髪?」

「祭りですから。少しくらいおめかししたいです。教会にいた頃は、髪の一本でも乱れたらお付きの神官に直されていたので」

「……教会の過保護な連中が目に浮かぶな。あの箱入りだった聖女様が、よくもまあ私のアトリエなんぞに押し掛けてきたものだ」


 先生はしばらくわたしを見つめてから、「降りてこい」と手招きした。

 食堂の前の長椅子に座って、先生はわたしの髪を梳いた。


「みんな優しかったですけど、わたしは先生に結ってもらうほうが好きです」

「……調子のいい弟子だ」


 呆れたように言いながらも先生の指は長くて、冷たくて、でも動きは驚くほど丁寧で優しい。

 銀白の髪の持ち主だから髪の扱いには慣れているのだろう。

 細い三つ編みをつくって、後ろでまとめて、どこから出したのか分からない小さな墨色のリボンで結んだ。


「スーリの羽根と同じ色ですね」

「余っていただけだ。深い意味はない」

「はい。深い意味はないんですね」

「……そういう復唱の仕方をするな」


 先生の声がわずかに上ずった。

 わたしは振り返って、先生の顔を真下から見上げた。

 近い。先生の金の瞳にわたしの顔が映っている。


「ありがとうございます、先生」

「ああ。似合っているぞ」


 先生はぶっきらぼうに言って、立ち上がった。


 五周目は、とても楽しかった。

 街に降りてから、わたしは先生の隣を離れなかった。


 いつもなら「屋台を見てこい」と言われて散開するのだが、今日は「わたしも先生と一緒に台座を見に行きます」と押し通した。

 先生は少し意外そうな顔をしたが、「好きにしろ」と言った。


 台座を確認する先生の横で、わたしは石段に座って先生の仕事ぶりを見ていた。

 術式で台座の強度を測り、松明の油の量を確認し、風向きから煙の流れを計算する。


 先生はこういう地味な実務をきちんとやる人だ。

 派手な術法の裏にある、こういう几帳面さが、わたしは好きだった。


「先生。先生は、どうしてそんなに地味な確認作業を丁寧にやるんですか。術式で一発じゃだめなんですか?」


 先生は松明の角度を微調整しながら答えた。


「術式は術式だ。自分の目で確認して、手で触って、風を肌で感じる。それが占術師の基本だぞ。術式の結果だけを信じるのは、占いの結果だけを信じるのと同じだ」

「盲信するな、ですか」

「そうだ。占いは導きだ。結論じゃない」


 先生がわたしを見た。

 何か思うところがあったのか、わずかに口元が緩んだ。


「お前さん、今日はよく笑うな」

「そうですか?」

「ああ。悪くない」


 先生はそう言って、また松明に向き直った。


 昼過ぎ。

 支柱の補強は済ませた。もう手慣れたものだ。

 演劇を見ながら、わたしはふと思い立って先生の袖を引いた。


「先生、踊りませんか?」

「……は?」

「広場で踊っている人たち、楽しそうです。わたしも踊りたいです」

「祭りの踊りなら一人でも踊れるだろう?」

「一人じゃ寂しいです」


 先生はわたしの顔をじっと見た。


「……お前さん、今日はどうした。いつもと雰囲気が違うぞ」

「いつもとは違います。今日は特別な日なので」

「夏至祭は毎年あるが……」

「今年の夏至祭は、今日だけです」


 これは嘘ではなかった。

 たとえ繰り返しても、この周回の今日は一度きりだ。


 先生はしばらく黙ってから、鼻から息を抜いた。

 笑ったのだ。先生の笑いはいつも控えめで、口元がほんの少し上がるだけだ。

 でも、わたしにはそれで十分だった。


「――仕方ないな」


 先生が手を差し伸べた。

 長い指。白い手。わたしはその手を取った。


 祭りの踊りは難しくない。輪になって、音楽に合わせて足を踏む。

 右、左、右、ぐるり。隣の人と手を繋ぎ、離し、また繋ぐ。


 先生は背が高いので、わたしが見上げると首が痛くなる。

 でも先生は時々こちらを見下ろして、金の瞳を細くした。


「お前さん、踊りは下手だな」

「先生に比べれば誰でも下手です」

「それはそうだ」

「謙遜しないんですね」

「事実だからな」


 わたしは笑った。先生も笑った。

 今度は口元だけでなく、目も。

 それだけで、この五周目には意味があった。


 ****


 鐘。朝。六回目。


「リュミ」

「おはようございます、先生」


 先生はわたしを見下ろして、首を傾げた。


「お前さん、今日は――なんというか、悪だくみをしている顔だな」

「そんな顔してますか?」

「している」


 バレている。まだ何もしていないのに。

 さすがわたしの先生だ。


 今回の計画はこうだ。

 どうせ繰り返すのだから、普段は絶対にやらないことをやる。


 まず朝食の席で、先生の蜂蜜壺を遠ざける代わりに、逆に近づけてみた。

 先生はいつもの動作で手を伸ばし、蜂蜜をたっぷりパンに塗り、ひと口食べてから気づいた。


「……今日はやけに甘いな」

「先生が好きなだけ塗ったからです」

「お前さん、いつもなら壺を取り上げるだろう?」

「今日は甘やかします」


 先生はパンを咀嚼そしゃくしながら、わたしの目をまっすぐ見た。


「お前さん、本当にどうした?気味が悪いぞ」

「失礼ですね。弟子が師匠を甘やかして何が悪いんですか」

「悪くはない。が、不気味だ」


 先生はそう言いながらも、蜂蜜たっぷりのパンを完食した。

 壺にもう一度手に取りかけて、自制して置いた。


 街に降りて、屋台の前を歩いているとき、わたしは不意に先生の腕に自分の腕を絡めた。

 先生が足を止めた。


「……何をしている」

「腕を組んでいます」

「見ればわかる。理由を聞いているのだが」

「祭りですから。先生と腕を組んで歩きたいです」


 先生の首が、今度こそはっきりと赤くなった。火の照り返しではない。

 真昼だ。太陽の光の下で、グリゼルダ・ヴェルルーンの白い首に薄紅が差している。

 わたしは歴史的瞬間を目撃していた。


「……好きにしろ」


 先生は視線を前方に固定したまま歩き始めた。腕を振りほどきはしなかった。

 先生の腕は細いのに硬い。術法で練り上げた筋肉の腕。

 わたしの腕と密着している部分が、じんわりと温かかった。


「先生、顔が赤いです」

「暑いだけだ。夏至だからな」

「六月にしてはそこまで暑くないですが?」

「暑い。今年は暑い。異常気象だ」


 先生が早口になっている。初めて聞いた。

 アトリエ・アルテ十二代目導主が、弟子に腕を組まれたくらいで早口になっている。

 わたしは幸福だった。繰り返す日々の中で、こんなものが見られるなんて。


 午後の演劇の最中。

 わたしは先生の隣に座りながら、不意に先生の頬をつついた。

 人差し指で、ぷにっと。


 先生が凍った。

 文字通り凍った。瞬きすら止まった。

 スーリが肩の上で「ピッ」と鳴いた。


「……今、何をした」

「頬をつつきました」

「なぜ?」

「柔らかいかなと思って」

「……どうだった」

「柔らかかったです」


 先生は無表情になってから、ゆっくりと前を向いた。

 演劇の英雄が剣を振り上げて叫んでいたが、先生の耳には入っていないだろう。


「リュミ、お前さんは何かに憑かれているのか?祓ってやろうか?」

「憑かれていません。正気です」

「正気でこれをやっているのか?」

「はい」


 先生は深く息を吐いた。


「……そうか。まあいい。好きにしろ」


 先生はそう言いながら、わたしがつついたのと同じ場所を、不自然に左手で自分の頬を触った。

 無意識だろう。無意識であってほしい。もし意識してやっているなら可愛すぎてわたしが倒れる。


 夕方。

 支柱の補強は朝のうちに済ませてある。屋台は倒れない。

 火が灯った。群衆が歓声を上げた。先生が「今年も、吉だ」と告げた。


 わたしは先生の隣に立って、火を見ていた。

 そして思い切って、先生の袖をきゅっと掴んだ。

 小さく、指先だけで。


 先生はちらりとこちらを見た。


「……取らんぞ。蜜りんご飴ならまだ残っている」

「違います」

「じゃあなんだ」

「今日が楽しかったので」


 先生は黙った。しばらく黙ったまま火を見ていた。

 それから袖を掴むわたしの指に、自分の手をそっと重ねた。


「……ああ。今日は、いい祭りだったな」


 いつもの「まあまあ」ではなかった。「いい祭り」だった。

 わたしの目が熱くなった。泣きたいのではない。

 ただ、同じ日を繰り返して、同じ人と過ごして、でも毎回少しずつ違う顔を見せてもらって、それが嬉しくて胸がいっぱいになっただけだ。


 ****


「リュミ」

「おはようございます、先生!」

「お前さん、今日はやけに元気だな。朝から走ったのか?」

「いいえ。先生に会えたのが嬉しいだけです」


 先生は完全に面食らった顔をした。見たことのない表情だった。

 金の瞳が丸くなっている。グリゼルダ・ヴェルルーンを絶句させた。

 わたしの勝ちだ。何に勝ったのかはわからないが。


 今日はさらに攻めることにした。


「先生、『あーん』させてください」

「……は?」

「蜂蜜パンです。わたしが塗りました。適量です」


 先生はわたしの手元を見た。

 確かに適量の蜂蜜が塗られたパンが、わたしの指先に乗っている。


「自分で食べられるが」

「知っています。でも今日は食べさせたいんです」

「なぜだ?」

「弟子が師匠にごはんを食べさせるのは、敬愛の表れです」

「どこの風習だ?」

「わたしがつくりました」


 先生は額に手を当てた。明らかに呆れている。

 でも怒ってはいない。先生は弟子に対して本気で怒ることが極めて少ない。

 それをわたしは知っている。


「……一度だけだぞ」


 先生がほんの少しだけ小さく口を開けた。

 わたしはパンを差し出した。先生がぱくりと食べた。


「……悪くない」

「でしょう?」

「二度目はないぞ」

「はい。一度で十分です」


 もう十分すぎた。

 わたしの心臓は祭りの太鼓より速く打っていた。


 街に降りてから、さらに暴走した。どうせ明日になればリセットされる。

 先生はこの日のわたしを覚えていない。ならば、今日だけは。


「先生、肩車してください」

「何歳だ、お前は?」

「先生の身長に、わたしの身長を足したら、すごく遠くまで見えると思うんです」

「物理的にはそうだろうが、道義的に問題がある。アトリエ・アルテの導主が弟子を肩車して街を歩くのは」

「誰も気にしませんよ」

「私が気にするのだが」


 さすがに却下された。

 だが代わりに、先生はそれならと使い魔のスーリを空に飛ばし、スーリの目を通した映像を術式でわたしの視界に重ねてくれた。

 空から見た祭りの街並み。色とりどりの幟が花畑のように広がっている。


「わぁ……」

「これで満足か?」

「満足です。でも肩車も諦めていません」

「諦めろ」


 午後。

 広場の噴水の縁に並んで座って、焼き菓子を食べていたとき。

 わたしは先生の肩に頭を預けた。


「……リュミ、それは――」

「疲れたのでお借りしてます」

「椅子ならあるが」

「先生の肩のほうがいいです」


 先生は何も言わなかった。

 しばらくして、わたしの頭の上に先生の顎が軽く乗った。

 ほんのわずかな重み。先生もわたしを枕にしている。


 群衆の喧騒が遠くなった。噴水の水音だけが近くに残った。

 先生の肩から伝わる体温は確かで、穏やかだった。


「先生。先生の匂い、インクと蜂蜜が混ざってますね」

「……そんな匂いがするのか?」

「します。好きな匂いです」

「それは蜂蜜の食べすぎだな。控える」

「控えないでください」


 先生の肩が小さく揺れた。笑ったのだ。

 声は出さずに、肩で笑う人だ。


 夕方。

 支柱補強済み。屋台は倒れない。吉の火。群衆の歓声。


 今日のわたしは、火が灯った瞬間に先生に抱きついた。

 正面から両腕で。先生の腰のあたりに腕を回して、ぎゅっと。


 先生の身体は細くて硬くて、でも抱きしめると温かかった。

 黒と金の長衣は上等な布地で、頬に当たる感触が滑らかだった。


 先生は数秒間、完全に機能停止した。


「――リュミ。お前さん、何かあったのか?」


 その声は、いつもと違った。低い声がさらに低くなって、少し掠れていた。

 ふざけた問いではなかった。先生は本気でわたしを心配していた。


 わたしは先生の長衣に顔を埋めたまま、首を横に振った。


「何もないです。ただ、先生が好きだなと思って」


 先生は黙った。

 それからゆっくりとわたしの背中に腕を回した。

 ぽん、と一度叩いて。もう一度叩いて。そのまま手を置いた。


「……ああ」


 先生の声が、頭の上から降ってきた。


「私もだ。お前さんは、いい弟子だよ」


 火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がった。

 群衆の歓声と楽師の音楽に包まれて、わたしたちは広場の真ん中で立っていた。


 師匠と弟子。それ以上でもそれ以下でもない。

 でも、それで十分だった。


 ****


 朝。鐘。八回目。

 わたしは目を覚まして、不思議なくらい穏やかだった。


 昨日――七周目の夜、寝台に横になりながら考えた。

 事故を防いでもループは終わらない。楽しんでもループは終わらない。先生に甘えてもループは終わらない。


 ならば、このループは何を待っているのか。

 着替えて廊下に出た。


「リュミ」

「おはようございます、先生」


 先生がわたしを見下ろした。

 今日は何と言うだろう。


「お前さん、今日は――静かだな。水面みたいだ」

「水面ですか」

「ああ。凪いでいる」


 先生はそう言って降りてきた。

 食堂に向かう先生の背中を見ながら、わたしはいつもの距離で歩いた。


 食堂。

 黒パン。蜂蜜壺を遠ざける。いつも通りに先生はチーズへ手を伸ばす。


「先生。わたし、同じ今日をずっと繰り返しているんです」


 先生のパンをちぎる手が止まった。


「……なんだ?」

「今日は夏至祭です。でもわたしにとっては八回目の夏至祭です。毎晩眠ると朝に戻ります。先生の記憶もリセットされます。わたしだけが覚えています」


 先生はパンを皿に置いた。金の瞳がまっすぐわたしを見た。


「……いつからだ」

「最初の日の夜からです。夕方に屋台の事故があって、わたしの対応が一瞬遅れました。子供は無事でしたが、わたしは悔やみました。それ以来、繰り返しています」

「事故は防いだのにか?」

「三周目に支柱を補強しました。四周目以降は毎回補強しています。でもループは終わりません」


 先生は黙っていた。長い沈黙だった。

 スーリが肩の上で首を傾げた。


「それで、お前さんは八回分の夏至祭を一人で抱えてきたのか」

「はい」

「……辛かったか?」


 その問い方に、わたしは少し驚いた。

「本当なのか」でも「証拠はあるか」でもなく、「辛かったか」。

 先生はわたしの話を最初から信じている。疑いもしない。


「……最初は辛かったです。でも毎回、先生が朝の挨拶をしてくれたので、ちょっとだけ楽しかったです」


 先生の眉がわずかに動いた。


「先生はループの外にいるのに、毎朝わたしの顔を見て、毎回違うことを言ってくれました。『目が据わっている』とか、『疲れた顔をしている』とか、『元気だな』とか。先生はわたしの変化を毎回見つけてくれました」


 先生は目を閉じ、しばらくして開いた。


「占いは導きだ。結論じゃない。ループの原因が事故でないなら、事故を防ぐことが答えじゃない。お前さんがこの繰り返しの中で何を掴むかが答えだ」

「……何を掴めばいいんでしょう」


 先生はテーブルの上の蜂蜜壺に手を伸ばした。わたしが遠ざけたそれをゆっくりと元の位置に戻した。

 蜂蜜をスプーンに取り、自分のパンに適量だけ塗った。いつもの塗りすぎではなく、ちょうどいい量を。


「お前さんは、最初の日に何を悔やんだ?」

「一瞬遅かったことです」

「事故を防げなかったことか」

「はい。あと一瞬早ければ、天幕が落ちる前に吹き飛ばせたのにと」

「つまり、『防ぐ』ことにこだわっていた」

「……はい」


 先生はパンをひと口かじった。

 咀嚼そしゃくして、飲み込んで。それから言った。


「リュミ。お前さんは三周目に事故を防いだ。それは見事だ。でもループは終わらなかった。なぜだと思う?」

「わかりません」

「お前さんは、事故が起きること自体を無くそうとした。屋台が倒れない世界をつくろうとした。でもな――」


 先生はスーリの頭を指先で撫でた。


「――屋台はいつか倒れる。支柱は老朽化する。風は吹く。子供は屋台の前に立つ。お前さんがいなくなった九回目の夏至祭で、また同じことが起きる。お前さんの術式は、お前さんがいる間しか持たない」


 わたしは息を詰めた。

 そうだ。わたしは毎回、自分で支柱を補強していた。でもそれは一時凌ぎだ。

 ループが終わって翌日が来たら、来年の夏至祭には、また同じ支柱がある。


「先生は、わたしにどうしろと言うんですか?」


 先生はパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。


「防ぐのではなく、備えろ。事故が起きたときに、一番速く助けられる場所に、お前さんがいればいい」

「……それは、三周目よりも前に、先生が言っていたことと同じです」

「私が?」

「一周目の夜に、先生はわたしに言いました。『結果が吉なら、過程を悔やむな――とは言わんが。悔やむのは明日にしろ』と」


 先生は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「いいことを言うな、私は」

「はい。先生はいいことを言います」


 街に降りた。八回目の夏至祭。

 今日は支柱を補強しなかった。

 代わりに、屋台の店主に話しかけた。


「あの、支柱が少しぐらついているようです。祭りの間に倒れたら危ないので、鍛冶ギルドの方に補修をお願いしてはどうですか?」

「え?そうかな。ちょっと見てみるか――おお、本当だ。こりゃいかん」


 店主は隣の露店の主人を呼び、二人で支柱を調べた。

 結局、鍛冶ギルドの職人が通りかかったのを捕まえて、その場で応急処置をしてもらうことになった。

 わたしの術式ではなく、職人の金槌と釘で。


「嬢ちゃん、よく気づいたな。こいつは来年まで持たんかったかもしれん」

「来年の前に、今日が持たないところでした」

「違いないな。夏至祭に屋台が倒れたらシャレにならん。帰ったら全ての屋台の支柱を点検する作業書を出すよ」


 わたしは礼を言って、屋台を離れた。

 これでいい。わたしがいなくなっても、支柱は補修される。


 来年の夏至祭には、店主自身が支柱を気にするようになる。鍛冶ギルドが全屋台を点検するようになる。

 わたしの術式ではなく、街の人たちの手で。


 先生が広場の台座の横にいた。

 わたしが近づくと、金の瞳がこちらを見た。


「用事は済んだか」

「はい」

「そうか」


 先生はそれ以上聞かなかった。

 わたしの顔を見て、何かを納得したのだろう。


 昼。

 演劇。先生の「この英雄、判断が遅い」。わたしの「お芝居ですから」。

 子供たちへの占い。全員に吉。


 午後は先生と並んで歩いた。噴水の縁に座って、焼き菓子を食べた。

 先生が焼き菓子の粉を口元につけていたので、指先で拭った。

 先生がまた固まった。


「……取らんでも自分で拭ける」

「知っています」

「なら――」

「取りたかったんです」


 先生はため息をついた。でもその息は温かかった。


 夕方。日没。吉の火。

 先生が火を灯した。白い炎が橙に変わり、金に変わった。群衆が歓声を上げた。


 がしゃん。

 音が聞こえた。でも今日の音は、いつもより小さかった。


 わたしは振り向いた。屋台の支柱が折れていた。

 鍛冶職人の応急処置でも持ちこたえられなかったのだ。

 天幕が傾く。でも完全には倒れない。補修のおかげで、傾くだけで止まった。


 屋台の前に子供がいた。

 焼き菓子を手に持って、傾いた天幕を見上げて、目を丸くしている。


 わたしは走った。

 七回分の繰り返しで、わたしの身体は知っている。

 広場の東の端まで何歩か。子供の位置はどこか。風の術式をどの角度で放てば最も速いか。


 今日は予防のためではない。事故が起きた後の最速の対応のために走った。


 天幕に向かって風の術式を放った。傾いた天幕をまっすぐに押し戻す。

 同時にもう一発。支柱を風で支える。


 天幕が止まった。

 子供は無傷。焼き菓子すら落としていない。


「大丈夫?」

「うん。お姉ちゃんすごい。風がぶわって!」

「怖くなかった?」

「ちょっと怖かった。でも焼き菓子は守った!」


 わたしは子供の前にしゃがみ、笑った。

 鍛冶職人が駆けつけてきて、今度こそ支柱を根本から取り替えた。

 店主が平謝りし、子供の親がやってきて礼を言った。


 先生がわたしの隣に立っていた。


「よくやった」

「間に合いました」

「ああ。間に合ったな」


 先生はわたしの頭に手を置いた。


「今日は、悔やむことはあるか?」


 わたしは首を横に振った。


「ありません」

「そうか」


 先生の手が頭から離れた。


「なら、吉だな」


 火が燃えていた。群衆が歌い、楽師が奏で、子供たちが走り回っていた。

 傾いた屋台は既に直っていて、店主が焼き菓子を配っていた。


 わたしは先生の隣に立って、火を見ていた。


「先生。もし明日が来たら、わたしは先生にお礼を言わないといけません」

「何のだ?」

「八回分の夏至祭を一緒に過ごしてくれたことについて」

「……私は覚えていないが」

「覚えていなくても、先生は毎回わたしを見てくれました。毎回、わたしが何を考えているか気づいてくれました」


 先生は黙った。


「先生はループの外にいるのに、わたしの一番近くにいてくれました。それがどれだけ救いだったか、先生にはわからないかもしれません。でもわたしは知っています」


 先生は火を見ていた。炎の色が金の瞳に映っている。


「リュミ。覚えていなくても、お前さんの隣にいたのが私なら、それは私だ。覚えているかどうかは些末なことだ」

「先生……」

「それに、お前さんが楽しかったなら、それだけでいい。八回だろうが百回だろうが」


 先生がこちらを向いた。金の瞳に火が揺れている。

 わたしの顔が映っている。


「私は、お前さんがいい顔をしているのを見るのが好きだ。今のお前さんは、とてもいい顔をしている」


 わたしの目から涙が落ちた。

 泣きたかったわけではない。ただ、溢れてきたのだ。


 先生が袖でわたしの頬を拭った。

 長い指が頬に触れた。その指先は冷たくて、でも優しかった。


「泣くな。吉の日に泣く弟子がいるか」

「泣いてません。これは嬉しいだけです」

「嬉しいなら笑え」

「笑ってます」

「泣きながら笑うな。器用なやつだ」


 先生はそう言って、ふっと笑った。

 口元だけでなく、目も。

 わたしは泣きながら笑った。


 夜が更けた。祭りが終わった。

 アトリエ・アルテに帰る山道を先生と二人で歩いた。

 月明かりの山道。虫の声。スーリが上空を旋回して道を照らしている。


「先生。わたし、先生みたいになりたいです」

「どういう意味だ?」

「凶を吉に変える人に。血を流した人を祈りで治す『聖女』のお役目も、尊いことだと思っています。でもわたしは、怪我をする前に周りの人の未来を良くできる人になりたいんです」

「……それが、周りの反対を押し切ってまで、お前さんが私の弟子になった理由か」

「はい。あの時、教会に視察に来た先生だけが、怪我人をただ待つのではなく術式で怪我そのものを防いでみせました。その姿があまりにかっこよくて、どうしても先生から学びたかったんです」


 先生は歩きながら、少しだけ歩幅を緩めた。

 わたしの歩幅に合わせてくれたのだ。


「お前さんは、既になれている」

「……え?」

「今日、お前さんは屋台の店主に支柱のことを教えた。鍛冶ギルドが全屋台の点検を始める。来年の夏至祭は、今年より安全になる。聖女の治癒術の出番がないくらいにな」

「それは……」

「それが『吉に変える』ということだ。悲劇が起きたあとの事後処理じゃない。自分がいなくなっても続く吉を事前につくること。私が教えたかったことの全部だ」


 わたしは立ち止まった。先生も立ち止まった。

 月明かりの中で、先生がわたしを見下ろしていた。

 銀白の髪が月に透けて、光を含んでいた。金の瞳が穏やかだった。


「先生、おやすみなさい」

「……ああ。おやすみ」


 アトリエ・アルテに着いて、自分の部屋に入って、寝台に横になった。

 窓の外では吉の火がまだ燃えていた。


 今日はいい祭りだった。

 繰り返しの中で一番いい日だった。


 明日が来ても、来なくても、どちらでもいい。

 そう思って目を閉じた。


 ****


 目が覚めると、窓の向こうで鐘が鳴っていた。

 低く澄んだ音が二つ。高く軽い音が――六つ。

 五つではなく、六つ。


 わたしは寝台の上で跳ね起きた。

 窓を開けた。風が入ってきた。乾いた草の匂いはあるが、蜜蝋の匂いがない。

 蜜蝋の匂いは夏至祭の準備のものだ。祭りの翌日には、もうない。


 着替えて廊下に出た。石造りの回廊に差す陽の角度が違う。

 昨日より少し南に傾いている。夏至を過ぎたのだ。昼が短くなり始めている。


 修練場から聞こえる音が違う。木剣ではなく、竹箒の音。

 弟子たちが掃除をしている。祭りの翌日は掃除日だ。


 わたしは走った。回廊を駆け抜けて、二階の手すりの前を通った。

 先生はいつもの場所にいなかった。


 食堂に駆け込んだ。

 先生はいつもの席に座って、黒パンに惜しげもなくべったりと蜂蜜を塗りすぎていた。

 わたしがいないから、止める人がいなかったのだ。


「先生」


 蜂蜜の垂れたパンを持ったまま、先生が顔を上げた。


「おはよう。祭りの翌日にしては早いな」


 わたしの目からまた涙が出た。二日連続で泣いている。弟子としていかがなものか。


「おい、どうした。何があった」


 先生がパンを置いて立ち上がった。


「昨日が楽しすぎて泣いているのか?」

「違います。今日が来たのが嬉しいんです」

「……当たり前だろう。今日は来る。明日も来る」

「はい、そうですね」


 わたしは涙を拭いて、先生の向かいの席に座った。

 いつもの席。パンをちぎって、チーズを乗せた。先生の蜂蜜壺を手を伸ばして遠ざけた。

 先生はきょとんとして、それから何も言わずにチーズへ手を伸ばした。


「先生。わたし、先生にお礼が言いたくて」

「何のだ?」

「……昨日の祭り、楽しかったです。ありがとうございました」


 先生は怪訝な顔をした。先生にとっては一回きりの夏至祭だ。特別なことがあったわけではない。

 弟子と街に降りて、蜜りんご飴を食べて、火を灯して帰ってきた。


「ああ。まあまあだったな」


 まあまあ。

 いつもの返事。でもわたしは知っている。


 あの六回目の夜、先生は「いい祭りだったな」と言ってくれた。この先生はそれを覚えていない。

 でも、あの言葉はわたしの中にある。わたしだけが持っている宝物だ。


「先生」

「なんだ。今日はやけに『先生』と呼ぶな」

「呼びたいんです。先生」

「……好きにしろ」


 先生はぶっきらぼうにパンをちぎった。

 蜂蜜なしのパンを咀嚼そしゃくしながら、ちらりとわたしを見た。


「お前さん、今日はなんだか――」


 先生が少し首を傾げた。金の瞳が細くなった。


「何か、いいことがあったような顔をしているな」

「はい。とても、いいことがありました」

「ほう。何があった」

「秘密です」


 先生の眉が片方上がった。珍しく不満そうな顔をしている。

 弟子に秘密を持たれるのは癪らしい。


「……まあいい。秘密くらいあったほうが人間は面白い」

「先生、今日の占いは?」


 先生は右手を軽く振った。指先から光が散って、紋様が浮かぶ。


「吉だ」

「やっぱり」

「当然だろう。お前さんがそんないい顔をしている日が凶であるものか」


 わたしは笑って、パンをひと口かじった。

 窓の外で、弟子たちが祭りの後片付けをしている声が聞こえた。

 幟を畳む音。露店を解体する音。日常が戻ってきている。


 先生が蜂蜜壺に手を伸ばした。わたしがまた遠ざけた。

 先生は何も言わずにチーズへ手を伸ばした。


「先生」

「まだあるのか」

「今日は掃除のあと、何をしますか?」

「祭りで使い込んだ占い道具の手入れだな。お前さんにも手伝ってもらう」

「はい。喜んで」

「それと、昼に街に降りて台座の撤収を手伝う。吉の火の残り滓を処理しないといけない」

「はい」

「あとは――」


 先生は少し考えてから、言った。


「蜜りんご飴の屋台がまだ残っているなら、買いに行くか」


 わたしは目を丸くした。先生から甘いものを「買いに行こう」と言うのは珍しい。

 いつもはわたしが勝手に買って、先生が「別に欲しそうな顔はしていない」と言いながら受け取るのが定型なのに。


「先生が自分から欲しいと言うのは初めてです」

「欲しいとは言っていない。屋台がまだあるなら、という条件付きだ」

「素直でよろしいかと」

「……うるさい」


 先生は耳の先を赤くして、そっぽを向いた。

 わたしは声を出して笑った。


 明日が来た。

 今日は夏至祭の翌日で、わたしの先生は蜂蜜の塗りすぎを我慢していて、スーリは窓の桟で丸くなっていて、弟子たちは箒を振り回している。


 何もかも、いつも通りだ。

 いつも通りが、こんなに眩しい。


 食堂の窓から、夏の光が差し込んでいた。テーブルの上に四角い光が落ちている。

 蜂蜜壺が光を受けて琥珀色に輝いていた。先生の銀白の髪に光が当たって、白く透けている。

 金の瞳が蜂蜜と同じ色に光っていた。


 わたしはこの光景を八回分の夏至祭と一緒に、ずっと覚えているだろう。


「先生」

「……何度目だ。今朝だけで随分と呼んでるぞ」

「もう一回だけ」

「なんだ?」

「ありがとうございます」


 先生はわたしの顔をしばらく見つめた。それから、ゆっくりと口元を緩めた。

 笑うのが下手な人の不器用な笑顔。わたしの一番好きな顔。


「――どういたしまして。さ、食べ終わったら片付けるぞ。占い道具は繊細だからな。壊すなよ?」

「壊しません」

「去年壊したじゃないか」

「あれは事故です」

「事故は防ぐものだ」

「防げないときは、最速で対処します」


 先生の目が一瞬だけ大きくなった。何か思い当たることでもあったのか、首を小さく傾げた。

 でも、何も聞かなかった。


「……いい心がけだ。よし、行くぞ」


 先生が立ち上がった。

 黒と金の長衣の裾が翻った。長い銀白の髪が揺れた。スーリが肩に飛び乗った。


 先生が歩き出す。わたしは立ち上がってついていく。

 いつもの朝だ。でも、八回分の夏至祭を経た、新しい朝だ。


 回廊に出た。光の四角を踏んで歩く。

 先生の背中。わたしの影。


 今日は吉だ。明日も吉だ。

 先生がそう言うのだから、間違いない。


 たとえ凶が出ても、先生は吉と言うだろう。

 そしてわたしは、凶を吉に変える方法を知っている。


 八回の夏至祭をかけて、先生に教わったのだ。

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