娘の手を離さない、それだけで世界が変わる話
本作には、子どもを「国家の都合」や「規定」で扱おうとする描写、家族を引き離そうとする場面が含まれます。
ただし物語の主軸は、母が娘の手を離さないと決め、恐怖より先に“安心”を守っていくお話です。
救いのある結末になります。
夜は音が少ない。だから、小さな息づかいがよく聞こえる。
「……おかあさん」
寝台の端で、リリの声が震えた。布団の中で丸くなったまま、目だけが大きく開いている。子どもの目は暗闇でも光を集める。涙も、同じように。
「どうしたの」
私は灯りを落としたまま近づいた。起き上がった拍子に床板が小さく鳴り、リリはそれにも肩を跳ねさせた。
「ゆめ……」
唇が動くのに、言葉が出てこない。怖い夢の説明は、たいてい途中で息が詰まる。
私は布団の縁を持ち上げて、娘の手を探した。小さな手。冷たい指。眠っている時なら温かいはずの手が、今は氷みたいだ。
ぎゅっと握った瞬間、リリの肩から力が抜けた。浅かった呼吸が、すこしだけ深くなる。
「……だいじょうぶ?」
「うん。だいじょうぶ」
返事はした。でも、目の奥に怖さのかけらが残っている。
「どんな夢だった?」
リリは私の指を数え始めた。不安なときの癖だ。一本、二本、三本。五本まで数えると、安心が少し増える。
「しろい、ながいところ……」
「廊下?」
「うん。しろい。きれい。つめたい」
その言葉が、背中を冷やした。
「ひとがいっぱいで……わたしのこと、みてるの。にこにこしてるのに、こわいの」
私はうまく笑えなかった。代わりに、握った手に力を込める。
「それで?」
「おかあさんのて、はなしてって。みんながいうの」
リリの声が、さらに細くなる。
「はなしたら、いい子だって。がまんできたら、すごいって」
その瞬間、頭の奥で何かが静かに割れた。
白い灯り。消毒の匂い。紙の音。誰かのため息。
私は前世でも、同じ言葉に出会っている。
『我慢できるの、えらいね』
それは褒め言葉の顔をして、子どもから声を奪っていく。
記憶が戻った。
ここが異世界で、私が転生者で、未来の断片を知ってしまったことも。
白い回廊。閉じる扉。遠ざかる泣き声。
手が離れた瞬間、世界が「正しい形」を押しつけてくる未来。
私は息を吸い、吐いた。怖いのは私のほうだ。けれどここで崩れたら、リリはもっと怖くなる。
「リリ」
「なに」
「手、離さない」
短く言う。誓いみたいに。
「え?」
「どんな人が来ても、どんな場所に行っても。手は離さない。それだけでいい」
リリは私の掌を見つめ、ゆっくり頷いた。
「……うん」
小さな頷き。けれど、世界の芯が少し戻った気がした。
私は娘の額に口づけて、布団を整える。
「眠ろう。怖い夢は、手で止める」
「てで、とめる」
「そう。手は強いの」
リリが、ほんの少し笑った。笑うと頬が丸くなる。そこが、私の世界の正解だった。
⸻
翌朝。扉を叩く音で目が覚めた。礼儀正しい音ほど、嫌な予感がする。
「マリア夫人。王国教会より参りました」
名乗りは丁寧。声も丁寧。圧だけが丁寧じゃない。
私はリリの手を握ったまま居間へ出た。
来訪者は二人。黒い外套に銀の紋。監督官セドリックと、護衛の神殿騎士ユール。
セドリックは、上手すぎる笑みを浮かべた。上手な笑みには、仕事の匂いがする。
「お嬢様に“器”の兆候が出ました。おめでとうございます」
「おめでとう、の意味が分かりません」
私は微笑みを返さない。笑うと席を譲る。今日は譲らない。
「王国のためです。聖女の器は保護されるべき存在。規定により神殿へ」
柔らかい言葉の中に、骨がある。
リリの手が、きゅっと握り返してきた。怖い。それでも離さない。だから息ができる。
「保護、という言葉は便利ですね」
私は淡々と言った。
「奪う人も、良い人になれる」
セドリックの笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。
「夫人、誤解です。お嬢様の安全のため」
「安全とは、誰の安全ですか」
言葉を選ぶ時間。私はその時間を逃さない。
「この子は、ここで安全です。少なくとも、私が手を握っている限り」
ユールがわずかに眉を動かした。騎士の感情は、隠しきれない瞬間がある。
セドリックは笑みを戻す。
「規定に逆らうのは難しいでしょう。抵抗は不要です。お嬢様は光栄な――」
「手は離しません」
私は言い切った。
「ここから先は、その条件で話してください」
一拍の沈黙。条件、という言葉は彼の得意分野だ。だからこそ嫌がる。
「儀式に支障が出ます」
「なら、儀式のほうが間違っているのでは」
セドリックは笑みを崩さず、目だけを細めた。
「夫人。聖女の器は国家資源です」
国家資源。子どもを物にする言葉。私は前世でもそれで泣かされた。
私はリリの頭を撫でる。
「この子は私の娘です。資源ではありません」
セドリックは、さらに丁寧な声で言った。
「神殿へ同行を。話し合いの場を設けましょう」
話し合い。連れていくための包装紙。
私は答えず、背後へ声を投げる。
「ノエル」
「はいはい、起きてます」
隣室から侍女ノエルが顔を出した。寝癖を隠す気がない。こういうところが好きだ。
「来客です。お茶を」
セドリックが微妙な顔をする。
「夫人、時間が――」
ノエルが即座に言った。
「お茶は人を遅くします」
「目的が分かりやすすぎない?」
私が小声で突っ込むと、ノエルは真顔で頷く。
「分かりやすいのが一番です。人は分からないものに強く出ます。分かると弱くなります」
嫌に的確だ。
セドリックは“保護”の顔のまま椅子に座った。遅くなった。
⸻
結局、私たちは神殿へ向かった。拒み続ければ力ずくになる。その瞬間に、娘の心が折れる。折らせたくない。
だから私は握る。
握ったまま、連れていかれる。
その矛盾が、私の作戦だった。
馬車の中、リリは私の袖を握りしめたまま窓の外を見ていた。
「おかあさん、わたし……がまんする?」
「しない」
私は即答した。
「我慢は、あなたの仕事じゃない」
「でも、みんな……」
「“みんな”の中に、あなたの気持ちは入ってない」
リリは黙る。黙るときの娘は、ちゃんと考えている。
神殿は白かった。夢と同じ白さ。きれいで、冷たい白。
門をくぐると空気が変わる。音が吸われ、息が遅くなる。
「こちらへ。聖域の入口です」
セドリックに導かれ、扉の前に立った。
床には淡い紋が刻まれている。触れていないのに、肌に触れられる感じがする。
「夫人。聖域では、母子の接触は望ましくありません」
セドリックが言う。
「器の純度が――」
「嫌です」
私は短く返した。
「手は離しません」
ユールが、ほんの少し身を乗り出した。守る人は、こういうとき前に出る。
私はリリの手を握ったまま、一歩踏み出した。
瞬間。
床の紋が、ぱち、と光った。
規則的ではない。迷っているみたいに、明るくなったり暗くなったりする。
神官たちがざわめいた。
「……反応が乱れている」
「同意の紋が安定しない」
セドリックの眉がわずかに動く。想定外。
私はその想定外を胸の中で育てた。
「おかあさん、ひかってる」
リリが小さく言う。
「見てて。今、世界が考え直してる」
後ろでノエルが小声で言う。
「夫人、いまの台詞、ちょっと格好つけましたね」
「今は格好つける時間」
「承知しました。続けてください」
余計な応援である。
⸻
聖域の奥は、さらに白かった。白い回廊。白い柱。白い天井。
中央に円形の紋がある。そこに立つと言葉が薄い膜を持つ。
セドリックが淡々と説明した。
「ここで儀式を行います。器は孤独であるほど純度が上がる。情が混ざると濁る。ゆえに、母親は外へ」
冷たい正しさ。正しさはいつも、誰かの心臓の上に座る。
リリの手がまた冷たくなる。
娘は言いかけた。
「……わたし、がまん……」
「しない」
私は遮った。優しい声ではない。でも必要な切り方だ。
「我慢は美徳じゃない。子どもの仕事でもない」
リリは目を見開いたあと、泣きそうになって、それでも頷いた。
ユールが私を見た。騎士の目は真っ直ぐで、嘘が下手だ。
「夫人、命令です。離れてください」
口調は硬い。けれど声の奥が揺れている。
私はユールを見返す。
「ユール殿。あなたは守る人でしょう」
「……はい」
「なら、守って。命令じゃなく、人として」
ユールの喉が動いた。
返事が出ないのは、悪い人だからじゃない。選ぶ場所に立たされたからだ。
セドリックが一歩前に出る。
「夫人。抵抗は不要です。手を離せば、儀式は安全に終わる」
「安全に終わるのは、誰のため?」
私は問い返す。殴らない。殴ると相手が正義になる。
「この子が安心して息をできるのは、私の手がある時です」
淡々と、逃げ道を塞ぐ言葉で言う。
「それを奪って得る聖性なら、いらない」
神官の一人が顔をしかめた。
「冒涜です」
「いいえ。確認です」
私は言った。
「聖なるものが、子どもの怖さを踏みつけて成立するなら。それは、聖じゃない」
セドリックの笑みが薄くなる。
この人は感情で動かない。規定で動く。なら、規定そのものを揺らす。
私はリリを抱き寄せ、二人で紋の中心に立った。手は繋いだまま。
「やめなさい!」
神官の声が響く。
けれど床の紋がそれより強く光った。
光は、温度を持っていた。火ではなく、毛布の温度。守りの温度。
紋が言葉を要求している。ここは同意に反応する場所だ。
セドリックが唇を動かした。
「儀式を続行します。お嬢様、同意を」
リリの肩が震える。
私は娘の手を包み込むように握った。
「リリ。言いたくないなら、言わなくていい」
娘が私を見上げる。
「でも……みんな……」
「みんな、より、あなた」
私は短く言った。
「あなたは、どうしたい?」
リリの指が、また私の指を数える。一本、二本、三本。
五本目で、娘の目が少し強くなった。
「……おかあさんのてがあると、こわくない」
その言葉が落ちた瞬間、紋がふわっと光の色を変えた。
白ではなく淡い金。柔らかい、守りの色。
神官たちが息を呑む。
「……同意が成立していない」
「拒否の反応だ」
セドリックの顔に、初めて明確な動揺が走る。
「そんなはずは。器は同意すべきです。国のために」
私は静かに返す。
「“国のため”で、子どもの口を塞がないで」
セドリックが語気を強めた。
「規定です。器は――」
その瞬間、床の紋が鋭く光った。
セドリックの声が、途中で詰まる。見えない手で喉を押さえられたみたいに言葉が出ない。
ざわめきが広がる。
規定で押す人は、規定に嫌われると弱い。
私は続けた。
「この場所は同意に反応する。なら“同意なき儀式”は成立しない。そうでしょう?」
神官たちが顔を見合わせる。誰もすぐには否定できない。紋がもう答えているからだ。
ユールが、一歩前に出た。
「監督官。儀式は中止です」
セドリックが睨む。
「ユール、命令に逆らうのか」
ユールの手が腰の剣に触れた。抜かない。ただ触れる。
それだけで姿勢が変わる。
「守るために、ここにいます」
ユールは言った。命令ではなく、信念の声。
「この子は拒否している。拒否を踏みつけるのは、守りではない」
空気が変わった。
世界がほんの少し、考え直し始める音がした。
セドリックは笑みを作ろうとして失敗し、最後の抵抗をするように言った。
「国家の損失になります」
私は首を振る。
「損失ではありません」
リリの手を持ち上げる。小さい。けれど今は温かい。
「この子が安心して息をできる状態が、清い。そう、聖域が言っている」
紋が淡い金色で応えた。言葉より強い返事。
年配の神官が、ゆっくり口を開いた。
「……解釈を改める必要がある」
誰かが「そんな」と言いかけたが、続かなかった。続ければ紋が光る。ここは言い逃れを嫌う。
セドリックは歯を噛み、視線を落とした。
派手な罰はない。けれどこの沈黙が一番痛い。
私は勝ち誇らない。
ただ娘の手を撫で、指を一本ずつ確かめる。
「リリ」
「うん」
「すごいよ」
「……すごい?」
「自分の言葉を言えた」
リリは少し考えてから、小さく笑った。
「おかあさんのてがあったから」
「うん。手は強い」
背後でノエルが真顔で言う。
「夫人。世界を変えるのに必要なの、革命じゃなくて握力だったんですね」
「握力だけだと腱鞘炎になるから、気をつけて」
「承知しました。握り方を改善します」
余計な改善である。
ユールが、私たちに向かって深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした。恐怖を見ていなかった」
私は頷く。
「見てくれて、ありがとう」
それだけで十分だった。謝罪が長引くと儀式になる。今は儀式じゃなく、日常へ戻したい。
⸻
神殿を出ると、空が妙に青く見えた。
光は同じはずなのに、胸の重りが減ると色が変わる。
リリは私の手を握ったまま門を振り返った。
「もう、ゆめ、こわくないかな」
「分からない。でも」
私は言う。
「怖くなったら、手を握る。手は今日も明日も、ここにある」
リリは頷き、また私の指を数える。
五本目で、安心したように息を吐いた。
ノエルが歩きながら言った。
「夫人、あの監督官、顔がすごかったですね」
「顔で語る人だった」
「次に来たときは、お茶を倍にします?」
「それ、嫌がらせにならない?」
「なります。保護という名の嫌がらせに、こちらも礼儀正しくお返しを」
ノエルは平然と言う。
私は笑ってしまった。笑えるのは、もう大丈夫の証拠だ。
門の内側にユールが残り、こちらを見送っている。
守るのは命令ではなく、目の前の息だと気づいた騎士は強い。
私とリリは、手をつないで歩いた。
それだけ。たったそれだけ。
でも、白い回廊の夢は、もう少し遠くなった気がした。
「おかあさん」
「なあに」
「せかい、かわった?」
私は少し考えて、答えた。
「うん。少しだけ」
「どうして?」
私はリリの手を、ぎゅっと握り返す。
「離さないって決めたから」
リリは笑った。
その笑いが、今日いちばんの光だった。
娘の手を離さない。
それだけで、世界は変わる。
少なくとも、私たちの世界は。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
このお話で書きたかったのは、「強い魔法」や「大きな革命」よりも、
“手を離さない”という小さな決意のほうが、時に世界を揺らすということです。
子どもが怖いときに欲しいのは、正論でも説明でもなく、安心できる温度。
リリが指を数える癖や、母の掌のぬくもりが、少しでも読者さまの胸に残っていたら嬉しいです。
もしよろしければ、感想や評価で反応をいただけると励みになります。
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。




