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娘の手を離さない、それだけで世界が変わる話

作者: 星渡リン
掲載日:2026/02/18

本作には、子どもを「国家の都合」や「規定」で扱おうとする描写、家族を引き離そうとする場面が含まれます。

ただし物語の主軸は、母が娘の手を離さないと決め、恐怖より先に“安心”を守っていくお話です。

救いのある結末になります。

 夜は音が少ない。だから、小さな息づかいがよく聞こえる。


「……おかあさん」


 寝台の端で、リリの声が震えた。布団の中で丸くなったまま、目だけが大きく開いている。子どもの目は暗闇でも光を集める。涙も、同じように。


「どうしたの」


 私は灯りを落としたまま近づいた。起き上がった拍子に床板が小さく鳴り、リリはそれにも肩を跳ねさせた。


「ゆめ……」


 唇が動くのに、言葉が出てこない。怖い夢の説明は、たいてい途中で息が詰まる。


 私は布団の縁を持ち上げて、娘の手を探した。小さな手。冷たい指。眠っている時なら温かいはずの手が、今は氷みたいだ。


 ぎゅっと握った瞬間、リリの肩から力が抜けた。浅かった呼吸が、すこしだけ深くなる。


「……だいじょうぶ?」


「うん。だいじょうぶ」


 返事はした。でも、目の奥に怖さのかけらが残っている。


「どんな夢だった?」


 リリは私の指を数え始めた。不安なときの癖だ。一本、二本、三本。五本まで数えると、安心が少し増える。


「しろい、ながいところ……」


「廊下?」


「うん。しろい。きれい。つめたい」


 その言葉が、背中を冷やした。


「ひとがいっぱいで……わたしのこと、みてるの。にこにこしてるのに、こわいの」


 私はうまく笑えなかった。代わりに、握った手に力を込める。


「それで?」


「おかあさんのて、はなしてって。みんながいうの」


 リリの声が、さらに細くなる。


「はなしたら、いい子だって。がまんできたら、すごいって」


 その瞬間、頭の奥で何かが静かに割れた。


 白い灯り。消毒の匂い。紙の音。誰かのため息。

 私は前世でも、同じ言葉に出会っている。


『我慢できるの、えらいね』


 それは褒め言葉の顔をして、子どもから声を奪っていく。


 記憶が戻った。

 ここが異世界で、私が転生者で、未来の断片を知ってしまったことも。


 白い回廊。閉じる扉。遠ざかる泣き声。

 手が離れた瞬間、世界が「正しい形」を押しつけてくる未来。


 私は息を吸い、吐いた。怖いのは私のほうだ。けれどここで崩れたら、リリはもっと怖くなる。


「リリ」


「なに」


「手、離さない」


 短く言う。誓いみたいに。


「え?」


「どんな人が来ても、どんな場所に行っても。手は離さない。それだけでいい」


 リリは私の掌を見つめ、ゆっくり頷いた。


「……うん」


 小さな頷き。けれど、世界の芯が少し戻った気がした。


 私は娘の額に口づけて、布団を整える。


「眠ろう。怖い夢は、手で止める」


「てで、とめる」


「そう。手は強いの」


 リリが、ほんの少し笑った。笑うと頬が丸くなる。そこが、私の世界の正解だった。



 翌朝。扉を叩く音で目が覚めた。礼儀正しい音ほど、嫌な予感がする。


「マリア夫人。王国教会より参りました」


 名乗りは丁寧。声も丁寧。圧だけが丁寧じゃない。


 私はリリの手を握ったまま居間へ出た。

 来訪者は二人。黒い外套に銀の紋。監督官セドリックと、護衛の神殿騎士ユール。


 セドリックは、上手すぎる笑みを浮かべた。上手な笑みには、仕事の匂いがする。


「お嬢様に“器”の兆候が出ました。おめでとうございます」


「おめでとう、の意味が分かりません」


 私は微笑みを返さない。笑うと席を譲る。今日は譲らない。


「王国のためです。聖女の器は保護されるべき存在。規定により神殿へ」


 柔らかい言葉の中に、骨がある。


 リリの手が、きゅっと握り返してきた。怖い。それでも離さない。だから息ができる。


「保護、という言葉は便利ですね」


 私は淡々と言った。


「奪う人も、良い人になれる」


 セドリックの笑みが、ほんの一瞬だけ固まる。


「夫人、誤解です。お嬢様の安全のため」


「安全とは、誰の安全ですか」


 言葉を選ぶ時間。私はその時間を逃さない。


「この子は、ここで安全です。少なくとも、私が手を握っている限り」


 ユールがわずかに眉を動かした。騎士の感情は、隠しきれない瞬間がある。


 セドリックは笑みを戻す。


「規定に逆らうのは難しいでしょう。抵抗は不要です。お嬢様は光栄な――」


「手は離しません」


 私は言い切った。


「ここから先は、その条件で話してください」


 一拍の沈黙。条件、という言葉は彼の得意分野だ。だからこそ嫌がる。


「儀式に支障が出ます」


「なら、儀式のほうが間違っているのでは」


 セドリックは笑みを崩さず、目だけを細めた。


「夫人。聖女の器は国家資源です」


 国家資源。子どもを物にする言葉。私は前世でもそれで泣かされた。


 私はリリの頭を撫でる。


「この子は私の娘です。資源ではありません」


 セドリックは、さらに丁寧な声で言った。


「神殿へ同行を。話し合いの場を設けましょう」


 話し合い。連れていくための包装紙。


 私は答えず、背後へ声を投げる。


「ノエル」


「はいはい、起きてます」


 隣室から侍女ノエルが顔を出した。寝癖を隠す気がない。こういうところが好きだ。


「来客です。お茶を」


 セドリックが微妙な顔をする。


「夫人、時間が――」


 ノエルが即座に言った。


「お茶は人を遅くします」


「目的が分かりやすすぎない?」


 私が小声で突っ込むと、ノエルは真顔で頷く。


「分かりやすいのが一番です。人は分からないものに強く出ます。分かると弱くなります」


 嫌に的確だ。

 セドリックは“保護”の顔のまま椅子に座った。遅くなった。



 結局、私たちは神殿へ向かった。拒み続ければ力ずくになる。その瞬間に、娘の心が折れる。折らせたくない。


 だから私は握る。

 握ったまま、連れていかれる。

 その矛盾が、私の作戦だった。


 馬車の中、リリは私の袖を握りしめたまま窓の外を見ていた。


「おかあさん、わたし……がまんする?」


「しない」


 私は即答した。


「我慢は、あなたの仕事じゃない」


「でも、みんな……」


「“みんな”の中に、あなたの気持ちは入ってない」


 リリは黙る。黙るときの娘は、ちゃんと考えている。


 神殿は白かった。夢と同じ白さ。きれいで、冷たい白。

 門をくぐると空気が変わる。音が吸われ、息が遅くなる。


「こちらへ。聖域の入口です」


 セドリックに導かれ、扉の前に立った。

 床には淡い紋が刻まれている。触れていないのに、肌に触れられる感じがする。


「夫人。聖域では、母子の接触は望ましくありません」


 セドリックが言う。


「器の純度が――」


「嫌です」


 私は短く返した。


「手は離しません」


 ユールが、ほんの少し身を乗り出した。守る人は、こういうとき前に出る。


 私はリリの手を握ったまま、一歩踏み出した。


 瞬間。


 床の紋が、ぱち、と光った。

 規則的ではない。迷っているみたいに、明るくなったり暗くなったりする。


 神官たちがざわめいた。


「……反応が乱れている」


「同意の紋が安定しない」


 セドリックの眉がわずかに動く。想定外。

 私はその想定外を胸の中で育てた。


「おかあさん、ひかってる」


 リリが小さく言う。


「見てて。今、世界が考え直してる」


 後ろでノエルが小声で言う。


「夫人、いまの台詞、ちょっと格好つけましたね」


「今は格好つける時間」


「承知しました。続けてください」


 余計な応援である。



 聖域の奥は、さらに白かった。白い回廊。白い柱。白い天井。

 中央に円形の紋がある。そこに立つと言葉が薄い膜を持つ。


 セドリックが淡々と説明した。


「ここで儀式を行います。器は孤独であるほど純度が上がる。情が混ざると濁る。ゆえに、母親は外へ」


 冷たい正しさ。正しさはいつも、誰かの心臓の上に座る。


 リリの手がまた冷たくなる。

 娘は言いかけた。


「……わたし、がまん……」


「しない」


 私は遮った。優しい声ではない。でも必要な切り方だ。


「我慢は美徳じゃない。子どもの仕事でもない」


 リリは目を見開いたあと、泣きそうになって、それでも頷いた。


 ユールが私を見た。騎士の目は真っ直ぐで、嘘が下手だ。


「夫人、命令です。離れてください」


 口調は硬い。けれど声の奥が揺れている。


 私はユールを見返す。


「ユール殿。あなたは守る人でしょう」


「……はい」


「なら、守って。命令じゃなく、人として」


 ユールの喉が動いた。

 返事が出ないのは、悪い人だからじゃない。選ぶ場所に立たされたからだ。


 セドリックが一歩前に出る。


「夫人。抵抗は不要です。手を離せば、儀式は安全に終わる」


「安全に終わるのは、誰のため?」


 私は問い返す。殴らない。殴ると相手が正義になる。


「この子が安心して息をできるのは、私の手がある時です」


 淡々と、逃げ道を塞ぐ言葉で言う。


「それを奪って得る聖性なら、いらない」


 神官の一人が顔をしかめた。


「冒涜です」


「いいえ。確認です」


 私は言った。


「聖なるものが、子どもの怖さを踏みつけて成立するなら。それは、聖じゃない」


 セドリックの笑みが薄くなる。

 この人は感情で動かない。規定で動く。なら、規定そのものを揺らす。


 私はリリを抱き寄せ、二人で紋の中心に立った。手は繋いだまま。


「やめなさい!」


 神官の声が響く。

 けれど床の紋がそれより強く光った。


 光は、温度を持っていた。火ではなく、毛布の温度。守りの温度。


 紋が言葉を要求している。ここは同意に反応する場所だ。


 セドリックが唇を動かした。


「儀式を続行します。お嬢様、同意を」


 リリの肩が震える。

 私は娘の手を包み込むように握った。


「リリ。言いたくないなら、言わなくていい」


 娘が私を見上げる。


「でも……みんな……」


「みんな、より、あなた」


 私は短く言った。


「あなたは、どうしたい?」


 リリの指が、また私の指を数える。一本、二本、三本。

 五本目で、娘の目が少し強くなった。


「……おかあさんのてがあると、こわくない」


 その言葉が落ちた瞬間、紋がふわっと光の色を変えた。

 白ではなく淡い金。柔らかい、守りの色。


 神官たちが息を呑む。


「……同意が成立していない」


「拒否の反応だ」


 セドリックの顔に、初めて明確な動揺が走る。


「そんなはずは。器は同意すべきです。国のために」


 私は静かに返す。


「“国のため”で、子どもの口を塞がないで」


 セドリックが語気を強めた。


「規定です。器は――」


 その瞬間、床の紋が鋭く光った。

 セドリックの声が、途中で詰まる。見えない手で喉を押さえられたみたいに言葉が出ない。


 ざわめきが広がる。

 規定で押す人は、規定に嫌われると弱い。


 私は続けた。


「この場所は同意に反応する。なら“同意なき儀式”は成立しない。そうでしょう?」


 神官たちが顔を見合わせる。誰もすぐには否定できない。紋がもう答えているからだ。


 ユールが、一歩前に出た。


「監督官。儀式は中止です」


 セドリックが睨む。


「ユール、命令に逆らうのか」


 ユールの手が腰の剣に触れた。抜かない。ただ触れる。

 それだけで姿勢が変わる。


「守るために、ここにいます」


 ユールは言った。命令ではなく、信念の声。


「この子は拒否している。拒否を踏みつけるのは、守りではない」


 空気が変わった。

 世界がほんの少し、考え直し始める音がした。


 セドリックは笑みを作ろうとして失敗し、最後の抵抗をするように言った。


「国家の損失になります」


 私は首を振る。


「損失ではありません」


 リリの手を持ち上げる。小さい。けれど今は温かい。


「この子が安心して息をできる状態が、清い。そう、聖域が言っている」


 紋が淡い金色で応えた。言葉より強い返事。


 年配の神官が、ゆっくり口を開いた。


「……解釈を改める必要がある」


 誰かが「そんな」と言いかけたが、続かなかった。続ければ紋が光る。ここは言い逃れを嫌う。


 セドリックは歯を噛み、視線を落とした。

 派手な罰はない。けれどこの沈黙が一番痛い。


 私は勝ち誇らない。

 ただ娘の手を撫で、指を一本ずつ確かめる。


「リリ」


「うん」


「すごいよ」


「……すごい?」


「自分の言葉を言えた」


 リリは少し考えてから、小さく笑った。


「おかあさんのてがあったから」


「うん。手は強い」


 背後でノエルが真顔で言う。


「夫人。世界を変えるのに必要なの、革命じゃなくて握力だったんですね」


「握力だけだと腱鞘炎になるから、気をつけて」


「承知しました。握り方を改善します」


 余計な改善である。


 ユールが、私たちに向かって深く頭を下げた。


「……申し訳ありませんでした。恐怖を見ていなかった」


 私は頷く。


「見てくれて、ありがとう」


 それだけで十分だった。謝罪が長引くと儀式になる。今は儀式じゃなく、日常へ戻したい。



 神殿を出ると、空が妙に青く見えた。

 光は同じはずなのに、胸の重りが減ると色が変わる。


 リリは私の手を握ったまま門を振り返った。


「もう、ゆめ、こわくないかな」


「分からない。でも」


 私は言う。


「怖くなったら、手を握る。手は今日も明日も、ここにある」


 リリは頷き、また私の指を数える。

 五本目で、安心したように息を吐いた。


 ノエルが歩きながら言った。


「夫人、あの監督官、顔がすごかったですね」


「顔で語る人だった」


「次に来たときは、お茶を倍にします?」


「それ、嫌がらせにならない?」


「なります。保護という名の嫌がらせに、こちらも礼儀正しくお返しを」


 ノエルは平然と言う。

 私は笑ってしまった。笑えるのは、もう大丈夫の証拠だ。


 門の内側にユールが残り、こちらを見送っている。

 守るのは命令ではなく、目の前の息だと気づいた騎士は強い。


 私とリリは、手をつないで歩いた。

 それだけ。たったそれだけ。


 でも、白い回廊の夢は、もう少し遠くなった気がした。


「おかあさん」


「なあに」


「せかい、かわった?」


 私は少し考えて、答えた。


「うん。少しだけ」


「どうして?」


 私はリリの手を、ぎゅっと握り返す。


「離さないって決めたから」


 リリは笑った。

 その笑いが、今日いちばんの光だった。


 娘の手を離さない。

 それだけで、世界は変わる。


 少なくとも、私たちの世界は。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


このお話で書きたかったのは、「強い魔法」や「大きな革命」よりも、

“手を離さない”という小さな決意のほうが、時に世界を揺らすということです。


子どもが怖いときに欲しいのは、正論でも説明でもなく、安心できる温度。

リリが指を数える癖や、母の掌のぬくもりが、少しでも読者さまの胸に残っていたら嬉しいです。


もしよろしければ、感想や評価で反応をいただけると励みになります。

ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

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