第9話 完全なる決別
「……どうして。どうしてあたしの魅了が効かないの? 今までみんな、あたしのことを好きになってくれたのに」
「魅了? いいえ、それはただの浅ましい欲望よ」
石造りの冷たい壁に囲まれた尋問室。
豪奢な椅子に座る私の前で、ミナは床に座り込み、虚ろな目でブツブツと呟いていた。
その隣では、カイル殿下が後ろ手に拘束され、信じられないものを見るような目で私を見上げている。
「リディア……どうしてそんな場所に座っているんだ。そこは、俺が座るべき場所だろう?」
「まだ現状が理解できていないのですか、カイル殿下」
私は淡々と告げた。
セオドアは私の隣に立ち、無言で威圧感を放っている。
机の上には、魔導記録官が作成したばかりの罪状リストが置かれていた。
「他国の王宮内での暴言、王族への不敬、そして何より重いのが『精神干渉魔法による洗脳未遂』です。帝国の法に照らせば、極刑もあり得ますよ」
「け、刑だと? 馬鹿な! 俺は王国の王子だぞ! 外交特権がある!」
「外交特権は、外交官として正当な手続きを踏んだ者にのみ適用されます。貴方たちは招待状を悪用し、警備を振り切って乱入した『暴徒』として処理されています」
セオドアが冷たく言い放つと、カイル殿下の顔から血の気が引いていった。
ミナがビクリと肩を震わせる。
彼女は自分の武器である「愛らしさ」が、この場では何の意味も持たないことをようやく悟り始めていた。
「あのね、お姉様……違うの。あたし、ただお姉様に会いたくて……」
「嘘をつくのはおやめなさい、ミナ。貴女の魔力波形は全て記録されています」
私は机の上の水晶玉を指差した。
そこには、会場で彼女が放ったピンク色の魔力が、毒々しい波形として記録されていた。
「貴女が使っていたのは、相手の理性を麻痺させ、好意を強制する『魅了』という精神魔法です。王国では法整備が遅れていて野放しだったようですが、帝国では厳しく規制されている違法魔法です」
「い、違法……?」
「ええ。帝国の貴族たちは幼い頃から精神防御の訓練を受けています。貴女のような未熟で不純な魔力など、悪臭としてしか感知されません」
ミナは「悪臭」という言葉にショックを受けたのか、口をパクパクとさせて黙り込んだ。
カイル殿下が、縋るような目で私を見た。
その目には、かつて私が愛した少年の面影が微かに残っていた。
「リディア……頼む。俺が悪かった。少し感情的になりすぎていたんだ。だが、根本は誤解なんだよ」
「誤解、ですか?」
「そうだ! 俺たちは幼馴染じゃないか。俺はお前を愛していた。だからこそ、嫉妬して、つい強く当たってしまっただけで……」
彼は膝行して私の足元に近づこうとする。
衛兵が剣の柄に手をかけるが、私はそれを手で制した。
「リディア、思い出してくれ。昔、お前が熱を出した時、俺はずっと見舞いに行っただろう? 初めてのダンスもお前と踊った。あの時の気持ちは嘘じゃなかったはずだ!」
必死な形相で過去の思い出を並べ立てる彼。
確かに、そうだった。
幼い頃の彼は優しかった。
私が実家の仕事に追われて疲れていると、こっそりお菓子を持ってきてくれたこともあった。
だから私は、彼のために尽くそうと決めたのだ。
彼が立派な王になれるよう、私が影となり、泥を被り、支え続けようと。
でも。
「……ええ。お慕いしていましたよ、カイル様」
私の言葉に、カイル殿下の顔がパッと明るくなる。
「そうだろう! なら、今すぐこの拘束を解いてくれ! 二人で国に帰ろう。そうすれば全て元通りに――」
「いいえ。元には戻りません」
私は彼の希望を、冷徹な事実で断ち切った。
「私が愛していたのは、私を見てくれていた頃の貴方です。ミナの言葉だけを信じ、私の献身を『当然』と踏みにじり、話を聞こうともしなくなった貴方ではありません」
彼の笑顔が凍りつく。
「貴方は言いましたね。『可愛げのない女だ』と。ええ、そうでしょう。私は貴方が望むような、ただ笑って守られているだけの人形にはなれませんでしたから」
「そ、それは……」
「でも、今の私は違います。私の知性を、努力を、そして『可愛げのなさ』さえも愛してくれる人がいます」
私は隣に立つセオドアを見上げた。
彼は何も言わず、ただ力強く頷いてくれる。
その瞳にあるのは、私への絶対的な信頼と敬愛。
カイル殿下が私に向けていた、所有物を見るような目とは決定的に違う。
「カイル殿下。貴方が見ようとしなかった『私』は、もうここにはいません。今ここにいるのは、ガルニア帝国王太子妃となるリディアです」
「リディア……お前、本気で……」
「セオドア殿下。彼らの処遇について、私に一任していただけますか?」
私が問うと、セオドアは即座に答えた。
「もちろんだ。君の望むままに」
私は深く息を吸い込み、かつての婚約者と義妹に告げた。
「私情による温情はかけません。両国の法と条約に基づき、厳正なる処罰を望みます」
「――っ!?」
「不法入国、公務執行妨害、器物損壊、そして精神干渉未遂。これら全ての損害賠償を、ランベルク王国政府に請求します。支払いが完了するまで、お二人は帝国の監視下で相応の労働に従事していただきます」
「ろ、労働!? 俺に働けと言うのか!」
「当然です。貴方たちが食いつぶしてきた税金や、私が立て替えていた経費も、全て計算に入れて請求させていただきますから」
カイル殿下は絶望に顔を歪め、力なく床に崩れ落ちた。
ミナは訳が分からない様子で、「お洋服が汚れるぅ」と泣き喚いている。
私は席を立った。
もう、彼らにかける言葉は何もない。
胸の中にあった重い鉛のような塊が、完全に消え去っていた。
悲しみも、怒りすらも、もう湧いてこない。
ただ、事務的に処理すべき「過去の案件」が終わっただけだ。
「行きましょう、セオドア」
「ああ。夜風に当たりに行こうか」
セオドアが優しく私の肩を抱く。
背後でカイル殿下が何かを叫んでいたけれど、重厚な扉が閉まる音と共に、その声は完全に聞こえなくなった。
廊下に出ると、窓から冷ややかな夜気が流れ込んできた。
見上げれば、満月が輝いている。
「……終わったのですね」
「ああ。これで王国は、経済的にも社会的にも完全に詰みだ。私の試算では、賠償金の支払いで王家は破産、国は解体され、帝国の管理下に置かれることになるだろう」
セオドアは淡々と、しかし残酷な未来を告げた。
祖国がなくなる。
少しだけ感傷的になるかと思ったけれど、不思議と心は穏やかだった。
「そうですか。……その時は、有能な文官たちだけでも雇用してあげられますか? 真面目な人たちもいたのです」
「君の頼みなら、善処しよう」
彼は私の手を握り、指を絡めた。
「さあ、戻ろう。まだ舞踏会は続いている。今度こそ、誰にも邪魔されずにダンスを踊ろう」
「はい。……喜んで」
私は彼の手を握り返し、前を向いて歩き出した。
後ろを振り返ることは、もう二度となかった。




