表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の再就職先は、溺愛執事様の膝の上でした。  作者: 月雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第5話 新しい職場



(数字が合うって、なんて気持ちいいのかしら!)


 私は執務室の机で、思わずガッツポーズをしたくなった。

 目の前にあるのは、タイプライターのような鍵盤がついた金属製の箱。

 帝国が誇る最新鋭の事務機器、「魔導計算機」だ。

 最初は魔力を流しながらキーを叩く感覚に戸惑ったけれど、慣れてしまえばこれほど便利なものはない。

 王国の実家で、羽ペンを走らせて指を痛めていた日々が嘘のようだ。


「お疲れ様、リディア。今日も順調そうだね」


 背後から、柔らかい声と共に温かい紅茶の香りが漂ってきた。

 振り返ると、セオドアがティーカップを二つ載せたトレイを持って立っていた。


「セオドア! 公務中では? こんなところに来ていて平気なのですか?」

「休憩ですよ。優秀な補佐官が働き詰めだと聞いて、差し入れを持ってきたのです」


 彼は私の隣の椅子を引き寄せ、優雅な動作で腰を下ろした。

 眼鏡を外し、少し疲れたように目頭を押さえる仕草に、思わずドキリとする。

 執事の服ではなく、金糸の刺繍が入った王太子の軍服姿。

 数週間経っても、まだ少し見慣れない。

 この人が本当に、あのセオドアなのよね。


「ありがとう。ちょうど一区切りついたところだったの」

「それは良かった。……君が考案した『複式簿記と魔導計算の連動システム』、財務大臣が絶賛していたよ。来月から全省庁で採用されるそうだ」

「本当? 嬉しいわ。あれを使えば、不正な支出はすぐに見つかるもの」

「ああ。おかげで、長年私腹を肥やしていた古狸たちが何人も摘発されたよ。君は私のあげまんの女神だね」


 セオドアが身を乗り出し、私の頬をつつく。

 距離が近い。

 最近の彼は、二人きりになると遠慮なく甘い言葉を投げてくるようになった。

 執事時代の「主従の距離」がなくなった反動だろうか。


「……からかわないで。私はただ、給料分の仕事をしているだけよ」

「給料分以上の働きだよ。そろそろ昇給させないと、他国に引き抜かれてしまうかな?」

「まさか。こんなに待遇の良い職場、他にはないわ」


 私は紅茶を一口含んだ。

 ベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。

 幸せだと思った。

 自分の能力が必要とされ、成果が正当に評価される。

 そして何より、隣には信頼できる人がいる。

 王国にいた頃の、常に何かに怯え、誰かの顔色を窺っていた自分が、遠い過去のように感じられた。


「さて、名残惜しいけれど戻らなくては。午後は他国の使節団との会談なんだ」

「頑張ってね、セオドア」

「ああ。終わったら、君の部屋に行くよ。新しいドレスが仕上がったらしいから」


 彼は私の額に軽くキスをすると、颯爽と部屋を出て行った。

 残された温もりを感じながら、私は再び仕事に向き合った。


 ◇


 夕方になり、私は資料室へ向かうために廊下を歩いていた。

 過去の貿易データを参照して、来期の予算案に反映させるためだ。

 王宮の廊下は広く、衛兵も巡回している。

 だが、東塔にある古い資料室へ続く回廊は、人通りが少なく静かだった。


 コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。

 角を曲がろうとした、その時だった。


「……久しぶりですね、リディア様」


 影からぬっと、人が現れた。

 私は息を呑み、反射的に後ずさる。

 そこに立っていたのは、商人のような服を着ているが、見覚えのある顔立ちの男。

 かつてランベルク伯爵家に出入りしていた、御用商人の手代だ。


「どうして、貴方がここに……?」

「いやはや、探しましたよ。まさか敵国の王城に潜り込んでいるとは。随分と出世なさいましたね」


 男は卑屈な笑みを浮かべながら、じりじりと距離を詰めてくる。

 その目は笑っていない。


「何の用?」

「お迎えに上がりました。伯爵様も、カイル殿下も、貴女の帰りを首を長くして待っておられますよ」

「帰り? 私は追放されたのよ。帰る場所なんてないわ」

「へへっ、ご冗談を。貴女がいなくなってから、屋敷も王宮もてんてこ舞いだそうで。帳簿の数字が合わない、予算が足りない、どこに何があるか分からない……皆、貴女の『事務能力』を恋しがっているんですよ」


 男の言葉に、私は冷めた感情を抱いた。

 やっぱり。

 私個人を心配しているのではなく、私の「機能」が必要なだけなのだ。


「それで? 私に戻れと言うの?」

「ええ。カイル殿下は寛大なお方だ。『今すぐ戻って土下座して詫びれば、追放を取り消して再び側室として置いてやる』と仰せです。悪い話じゃないでしょう? 敵国で肩身の狭い思いをするより、住み慣れた故郷の方が――」


「お断りします」


 私は男の言葉を遮った。

 声は震えなかった。


「私はもう、ランベルク家の道具ではありません。それに、ここでの生活は肩身が狭いどころか、とても快適です」

「……なんだと?」

「私の価値を認め、対等に扱ってくれる人たちがいます。土下座をしてまで戻りたいと思うような未練は、あの国には一ミリもありません」


 きっぱりと言い放つと、男の表情が一変した。

 卑屈な笑みが消え、粗暴な本性が露わになる。


「生意気な……! 優しく言ってやりゃつけ上がりやがって! いいから来い! 無理やりにでも連れて帰るぞ!」


 男が粗野な手つきで私の腕を掴もうとした。

 逃げなければ。

 でも、ヒールでは走れない。

 男の手が目の前に迫る。

 怖い、と思った瞬間。


 ヒュッ。


 風を切る音がして、男の体が不自然に硬直した。


「が、ぁ……?」


 男の背後に、黒い装束を纏った人影が現れていた。

 いつの間に?

 音もなく現れたその人物は、男の首元に手刀を打ち込んでいたのだ。

 男は白目を剥き、崩れ落ちるように倒れた。


「お怪我はありませんか、リディア様」


 黒装束の人物が仮面越しに声をかけてくる。

 帝国の諜報部隊、「影」だ。

 セオドアが私につけてくれていた護衛。

 本当に、ずっと守ってくれていたんだ。


「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

「遅くなり申し訳ありません。泳がせて背後関係を探っておりました。侵入ルートは特定済みです」


 影が男を無造作に担ぎ上げる。

 そこへ、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。


「リディア!」


 セオドアだ。

 いつもの冷静な彼らしくもなく、息を切らして駆け寄ってくる。

 私の無事な姿を確認すると、彼は勢いよく私を抱きしめた。


「っ、セオドア……苦しいわ」

「無事でよかった……! 報告を聞いて、心臓が止まるかと思った」


 彼の腕の力が強い。

 心臓の音が、私の耳元で激しく鳴っている。

 彼は私の頭を自身の胸に押し付け、震える声で囁いた。


「すまない。怖い思いをさせたね。虫が入り込まないよう、結界を強化しておくべきだった」

「ううん、平気よ。貴方の『影』さんが助けてくれたもの」

「……二度と、あんな国に君を渡しはしない。君は私のものだ。誰にも触れさせない」


 その声には、深い執着と、激しい怒りが滲んでいた。

 倒れている男を見下ろす彼の瞳は、氷のように冷たい。

 けれど、私を抱きしめる腕はとても温かくて。


「ええ、私はどこにも行かないわ。貴方のそばにいる」


 私が背中に手を回して背中を撫でると、彼はようやく少しだけ力を緩めた。


「……この男の処遇は私に任せてくれ。王国には、相応の『お礼』をしなければならないな」


 セオドアが不穏なことを呟いた気がしたけれど、私は聞かなかったことにした。

 今はただ、この安心感に包まれていたい。

 王国がどうなろうと、もう私には関係のないことなのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ