第5話 新しい職場
(数字が合うって、なんて気持ちいいのかしら!)
私は執務室の机で、思わずガッツポーズをしたくなった。
目の前にあるのは、タイプライターのような鍵盤がついた金属製の箱。
帝国が誇る最新鋭の事務機器、「魔導計算機」だ。
最初は魔力を流しながらキーを叩く感覚に戸惑ったけれど、慣れてしまえばこれほど便利なものはない。
王国の実家で、羽ペンを走らせて指を痛めていた日々が嘘のようだ。
「お疲れ様、リディア。今日も順調そうだね」
背後から、柔らかい声と共に温かい紅茶の香りが漂ってきた。
振り返ると、セオドアがティーカップを二つ載せたトレイを持って立っていた。
「セオドア! 公務中では? こんなところに来ていて平気なのですか?」
「休憩ですよ。優秀な補佐官が働き詰めだと聞いて、差し入れを持ってきたのです」
彼は私の隣の椅子を引き寄せ、優雅な動作で腰を下ろした。
眼鏡を外し、少し疲れたように目頭を押さえる仕草に、思わずドキリとする。
執事の服ではなく、金糸の刺繍が入った王太子の軍服姿。
数週間経っても、まだ少し見慣れない。
この人が本当に、あのセオドアなのよね。
「ありがとう。ちょうど一区切りついたところだったの」
「それは良かった。……君が考案した『複式簿記と魔導計算の連動システム』、財務大臣が絶賛していたよ。来月から全省庁で採用されるそうだ」
「本当? 嬉しいわ。あれを使えば、不正な支出はすぐに見つかるもの」
「ああ。おかげで、長年私腹を肥やしていた古狸たちが何人も摘発されたよ。君は私のあげまんの女神だね」
セオドアが身を乗り出し、私の頬をつつく。
距離が近い。
最近の彼は、二人きりになると遠慮なく甘い言葉を投げてくるようになった。
執事時代の「主従の距離」がなくなった反動だろうか。
「……からかわないで。私はただ、給料分の仕事をしているだけよ」
「給料分以上の働きだよ。そろそろ昇給させないと、他国に引き抜かれてしまうかな?」
「まさか。こんなに待遇の良い職場、他にはないわ」
私は紅茶を一口含んだ。
ベルガモットの香りが鼻腔をくすぐる。
幸せだと思った。
自分の能力が必要とされ、成果が正当に評価される。
そして何より、隣には信頼できる人がいる。
王国にいた頃の、常に何かに怯え、誰かの顔色を窺っていた自分が、遠い過去のように感じられた。
「さて、名残惜しいけれど戻らなくては。午後は他国の使節団との会談なんだ」
「頑張ってね、セオドア」
「ああ。終わったら、君の部屋に行くよ。新しいドレスが仕上がったらしいから」
彼は私の額に軽くキスをすると、颯爽と部屋を出て行った。
残された温もりを感じながら、私は再び仕事に向き合った。
◇
夕方になり、私は資料室へ向かうために廊下を歩いていた。
過去の貿易データを参照して、来期の予算案に反映させるためだ。
王宮の廊下は広く、衛兵も巡回している。
だが、東塔にある古い資料室へ続く回廊は、人通りが少なく静かだった。
コツ、コツ、と自分のヒールの音だけが響く。
角を曲がろうとした、その時だった。
「……久しぶりですね、リディア様」
影からぬっと、人が現れた。
私は息を呑み、反射的に後ずさる。
そこに立っていたのは、商人のような服を着ているが、見覚えのある顔立ちの男。
かつてランベルク伯爵家に出入りしていた、御用商人の手代だ。
「どうして、貴方がここに……?」
「いやはや、探しましたよ。まさか敵国の王城に潜り込んでいるとは。随分と出世なさいましたね」
男は卑屈な笑みを浮かべながら、じりじりと距離を詰めてくる。
その目は笑っていない。
「何の用?」
「お迎えに上がりました。伯爵様も、カイル殿下も、貴女の帰りを首を長くして待っておられますよ」
「帰り? 私は追放されたのよ。帰る場所なんてないわ」
「へへっ、ご冗談を。貴女がいなくなってから、屋敷も王宮もてんてこ舞いだそうで。帳簿の数字が合わない、予算が足りない、どこに何があるか分からない……皆、貴女の『事務能力』を恋しがっているんですよ」
男の言葉に、私は冷めた感情を抱いた。
やっぱり。
私個人を心配しているのではなく、私の「機能」が必要なだけなのだ。
「それで? 私に戻れと言うの?」
「ええ。カイル殿下は寛大なお方だ。『今すぐ戻って土下座して詫びれば、追放を取り消して再び側室として置いてやる』と仰せです。悪い話じゃないでしょう? 敵国で肩身の狭い思いをするより、住み慣れた故郷の方が――」
「お断りします」
私は男の言葉を遮った。
声は震えなかった。
「私はもう、ランベルク家の道具ではありません。それに、ここでの生活は肩身が狭いどころか、とても快適です」
「……なんだと?」
「私の価値を認め、対等に扱ってくれる人たちがいます。土下座をしてまで戻りたいと思うような未練は、あの国には一ミリもありません」
きっぱりと言い放つと、男の表情が一変した。
卑屈な笑みが消え、粗暴な本性が露わになる。
「生意気な……! 優しく言ってやりゃつけ上がりやがって! いいから来い! 無理やりにでも連れて帰るぞ!」
男が粗野な手つきで私の腕を掴もうとした。
逃げなければ。
でも、ヒールでは走れない。
男の手が目の前に迫る。
怖い、と思った瞬間。
ヒュッ。
風を切る音がして、男の体が不自然に硬直した。
「が、ぁ……?」
男の背後に、黒い装束を纏った人影が現れていた。
いつの間に?
音もなく現れたその人物は、男の首元に手刀を打ち込んでいたのだ。
男は白目を剥き、崩れ落ちるように倒れた。
「お怪我はありませんか、リディア様」
黒装束の人物が仮面越しに声をかけてくる。
帝国の諜報部隊、「影」だ。
セオドアが私につけてくれていた護衛。
本当に、ずっと守ってくれていたんだ。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「遅くなり申し訳ありません。泳がせて背後関係を探っておりました。侵入ルートは特定済みです」
影が男を無造作に担ぎ上げる。
そこへ、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。
「リディア!」
セオドアだ。
いつもの冷静な彼らしくもなく、息を切らして駆け寄ってくる。
私の無事な姿を確認すると、彼は勢いよく私を抱きしめた。
「っ、セオドア……苦しいわ」
「無事でよかった……! 報告を聞いて、心臓が止まるかと思った」
彼の腕の力が強い。
心臓の音が、私の耳元で激しく鳴っている。
彼は私の頭を自身の胸に押し付け、震える声で囁いた。
「すまない。怖い思いをさせたね。虫が入り込まないよう、結界を強化しておくべきだった」
「ううん、平気よ。貴方の『影』さんが助けてくれたもの」
「……二度と、あんな国に君を渡しはしない。君は私のものだ。誰にも触れさせない」
その声には、深い執着と、激しい怒りが滲んでいた。
倒れている男を見下ろす彼の瞳は、氷のように冷たい。
けれど、私を抱きしめる腕はとても温かくて。
「ええ、私はどこにも行かないわ。貴方のそばにいる」
私が背中に手を回して背中を撫でると、彼はようやく少しだけ力を緩めた。
「……この男の処遇は私に任せてくれ。王国には、相応の『お礼』をしなければならないな」
セオドアが不穏なことを呟いた気がしたけれど、私は聞かなかったことにした。
今はただ、この安心感に包まれていたい。
王国がどうなろうと、もう私には関係のないことなのだから。




