第3話 国境の攻防
三年前、我が国の希少な魔石資源が、正規のルートを経ずに国外へ流出しているという情報が入りました。
「それを調査し、ルートを特定するために、私は身分を隠してランベルク伯爵家に潜入していたのです」
馬車の中で、セオドア――いいえ、ガルニア帝国第一皇子殿下は、静かな口調でそう語った。
彼が外した眼鏡が、サイドテーブルの上で月明かりを反射している。
私は豪華な座席の端で、小さくなっていた。
「……そう、だったのですね」
「驚かせてしまって申し訳ありません。ですが、任務の性質上、誰にも明かすわけにはいきませんでした」
「い、いえ! 謝らないでください、殿下! 私のような者に説明してくださるだけで……」
私は慌てて手を振った。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
優秀な執事だと思っていた彼が、世界最強の軍事国家の次期皇帝だなんて。
伯爵家での三年間、彼は私の無理な注文にも嫌な顔ひとつせず応えてくれた。
雨の日には泥除けになり、夜遅くまで残業する私に紅茶を淹れてくれた。
あれは全て、潜入捜査のための演技だったということ?
胸の奥がちくりと痛む。
当然だ。
彼は任務で来ていただけで、私という存在は、怪しまれないための都合の良い「隠れ蓑」だったのだから。
「……でしたら、もう私は用済みですね」
私は膝の上で拳を握りしめ、顔を上げた。
「国境は越えました。調査も終わったのでしょう? これ以上、殿下の手を煩わせるわけにはいきません。私は次の町で降ろしてください」
「リディア?」
「追放された令嬢を連れているなんて知れ渡ったら、殿下の御名に傷がつきます。私は平民として、どこかで細々と暮らしますから」
それが、私にできる唯一の恩返しだ。
これ以上、彼の足手まといになりたくない。
私は扉のノブに手を伸ばそうとした。
けれど。
「用済み、とは聞き捨てなりませんね」
セオドアの大きな手が、私の手首を優しく、けれど絶対に逃がさない強さで掴んだ。
「放してください、殿下」
「嫌です」
「殿下!」
「リディア。貴女は私が、ただの調査のためだけに、三年間もあの屋敷にいたと思っているのですか?」
彼の瞳が、至近距離で私を射抜く。
その熱量に気圧されて、私は言葉を詰まらせた。
彼は空いている方の手で、懐から一冊の古びた革表紙のノートを取り出した。
「こ、それは……!」
息が止まりそうになった。
それは私が実家で、誰にも見せずに書き溜めていた『領地経営改善案』のノートだ。
父やカイル様に見せても「女が口を出すな」と捨てられるのがオチだから、いつか何かの役に立てばと、こっそり屋敷の書庫の隙間に隠していたはずの。
「なぜ、殿下がこれを……」
「貴女が屋敷を去る時、これだけは失くしてはならないと思い、回収しておきました」
セオドアは愛おしそうにノートのページを捲る。
びっしりと書き込まれた数字。
物流の効率化、特産品の開発案、農地の土壌改良計画。
私の思考の全てが、そこにある。
「私は見ていましたよ、リディア。貴女が毎晩、睡眠時間を削って領民のために知恵を絞っていたことを。横領をする家族の尻拭いをしながら、それでも少しでも多くの利益を出そうと、必死に計算していたことを」
彼の指先が、私の走り書きをなぞる。
「このノートを見た時、私は確信したのです。この国の最大の損失は、魔石の流出などではない。貴女という稀代の才女を、無能な者たちが使い潰そうとしていることだと」
「……買い被りです。私は、ただ数字を合わせるのが好きなだけで……」
「いいえ。貴女の計算には、人が生きるための温かみがある」
セオドアがノートを閉じ、私に向き直った。
掴まれていた手首が解放され、代わりに彼の手が私の頬を包み込む。
「リディア。貴女の知識と能力を、私の国で活かしてほしいのです。私が欲しいのは、任務の隠れ蓑なんかじゃない。貴女というパートナーだ」
「……私で、いいのですか? 可愛げもなくて、地味で、一度捨てられた女ですよ?」
「貴女が良いのです。むしろ、貴女でなくては困る」
彼は困ったように眉を下げて、ふわりと笑った。
それは執事として見せていた営業用の笑顔ではなく、一人の男性としての、どこか弱さを含んだ表情に見えた。
「それに、私一人では帝国の頑固な古狸たちを黙らせるのに骨が折れるのです。貴女のその鋭い計算と論理で、私を助けてくれませんか?」
ずるい。
そんな風に言われてしまったら、断れるはずがない。
誰かに必要とされたかった。
「お前なんか要らない」と切り捨てられた私を、この人は拾い上げ、価値があると言ってくれた。
視界が滲む。
私は溢れそうになる涙を堪えながら、震える声で答えた。
「……高いですよ、私の給料は」
「構いません。帝国の国庫を開けてでもお支払いしましょう」
「残業も、ほどほどにしたいです」
「善処します。ですが、夜の晩酌には付き合ってくださいね」
彼が私の額に、誓うように口付けを落とす。
その温かさに、張り詰めていた心が解けていくのを感じた。
私はもう、一人じゃない。
◇
「リディア、顔を上げてください。着きましたよ」
セオドアの声に促され、私は涙を拭って窓の外を見た。
息を呑む光景が広がっていた。
闇夜に浮かび上がる、巨大な城郭都市。
王国の薄暗い街並みとは違い、街路の至る所に魔導灯が設置され、宝石箱をひっくり返したような眩い光を放っている。
その中央にそびえ立つ、威風堂々たる黒と金の城。
ガルニア帝国城。
圧倒的な文明と力の象徴。
「きれい……」
「ようこそ、我が帝国へ。ここが今日から、貴女の新しい戦場であり、安息の地です」
馬車が城門をくぐる。
衛兵たちが最敬礼で迎える中、私は隣に座るセオドアの手を、今度は自分から強く握り返した。




