第2話 執事の正体
「……セオドア、この馬車はどこへ向かっているの?」
「私の実家です。少し遠いですが」
王都を出てから数時間。窓の外はすっかり真夜中の闇に包まれていた。
私は揺れの少ない座席の上で、向かいに座るセオドアに問いかけた。
彼は眼鏡の位置を人差し指で直し、涼しい顔で答える。
「実家、って。貴方の出身地を聞いたことはなかったけれど……」
「辺境ですよ。田舎ですが、暮らしやすいところです」
セオドアは、我が家――ランベルク伯爵家に来てまだ三年ほどの執事だ。
優秀で、私の仕事の癖を完璧に理解してくれていたけれど、そういえば彼の私生活については何も知らなかった。
それにしても。
私はそっと、座席のクッションを撫でた。
最高級のベルベット生地だ。
それにこの馬車、王都の石畳を抜けて未舗装の街道を走っているはずなのに、ほとんど揺れない。
まるで氷の上を滑っているみたい。
辻馬車やレンタル馬車で、こんな上等なものがあるなんて聞いたことがないわ。
「ねえセオドア。これからのことなんだけど」
「はい、お嬢様」
「もうお嬢様はやめて。私はただのリディアよ」
私は汚れたドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
「私、隣国へ行ったら商会で働こうと思うの。計算と帳簿付けには自信があるし、文字も書けるわ。貴方の紹介してくれる場所がどんなところか分からないけれど、まずは事務員として雇ってもらえないかしら」
伯爵令嬢としてのプライドなんて、あのパーティー会場に捨ててきた。
生きていくためなら、どんな仕事だってする覚悟だ。
けれど、セオドアはきょとんとした顔をして、それからくすりと笑った。
「事務員、ですか。それは……もったいない」
「もったいない? 私にはそれしか能がないのよ」
「いいえ。貴女の能力は、一商会で埋もれさせていいものではありません」
彼は組んだ足を優雅に入れ替え、真っ直ぐに私を見た。
「私が紹介しようとしているのは、もっと大きな組織です。そこなら、貴女の知識と技術を正当に評価し、相応の対価を支払うでしょう。……少し、責任は重いかもしれませんが」
「責任? もしかして、どこかの貴族の家令とか?」
「ふふ、着いてからのお楽しみです」
はぐらかされてしまった。
でも、彼の自信ありげな態度を見ていると、不思議と不安が消えていく。
彼がそう言うなら、きっと悪い話ではないのだろう。
私は少しだけ安心して、背もたれに体を預けた。
その時だった。
馬車が急に速度を落とし、やがて停止した。
「……なんだ?」
セオドアの声が、先ほどまでとは打って変わって低く響く。
窓のカーテンを少し開けると、松明の明かりが見えた。
石造りの関所。国境検問所だ。
でも、様子がおかしい。
普段なら通行税を払うだけで通れるはずなのに、槍を持った騎士たちが道を塞ぐように立っている。
「止まれ! その馬車、検めるぞ!」
怒鳴り声と共に、扉が乱暴に開かれた。
雨に濡れた鎧姿の騎士が、馬車の中を覗き込んでくる。
私と目が合った瞬間、騎士の顔が歪な笑みを浮かべた。
「いたぞ! 手配書にあった『汚れたドレスの令嬢』だ! 確保しろ!」
心臓が早鐘を打つ。
手配書? もう回っているの?
私が追放を言い渡されてから、まだ半日も経っていないのに。
「待ってください。私は正式に追放を言い渡されました。この国を出る権利があるはずです」
「はんっ、何を言っている。王宮から緊急連絡が来たんだ。『追放は取り消しだ、直ちに連れ戻せ』とな!」
追放取り消し?
カイル様が考えを変えたの?
いや、違う。
きっと、私が管理していた帳簿がないと困ることに、今さら気づいたのだ。
あるいは、父が「横領がバレる」と焦って連れ戻そうとしているのか。
どちらにしても、戻れば地獄だ。
一生、あの屋敷に閉じ込められて、馬車馬のように働かされる。
「嫌よ……離して!」
腕を掴まれて引きずり出されそうになり、私は抵抗した。
しかし、男の力に敵うはずもない。
「大人しくしろ! おい、そっちの男も捕らえろ。誘拐犯として処刑してやる」
「……やれやれ」
ため息が聞こえた。
次の瞬間。
馬車の中に突風が吹き荒れた。
いや、風じゃない。
見えない衝撃波が、私の腕を掴んでいた騎士を弾き飛ばしたのだ。
「ぐわぁっ!?」
騎士が泥水の中に転がる。
何が起きたのか分からず呆然とする私を背に、セオドアが静かに馬車から降り立った。
「貴様、何をした! 魔法使いか!?」
他の騎士たちが剣を抜き、殺気立って彼を取り囲む。
多勢に無勢。
いかにセオドアが優秀でも、武装した騎士相手では勝ち目がない。
「セオドア、逃げて! 私はいいから!」
「お嬢様、座っていてください。ドレスが汚れます」
彼は振り返りもせず、眼鏡を外して胸ポケットにしまった。
そして、群がる騎士たちを冷ややかな目で見下ろす。
「我が国の王族ごときが、私の主人に触れようなどと……万死に値する」
呟きと共に、彼が右手を軽く振った。
ドォォォン!
爆音。
彼の手から放たれたのは、青白い雷撃だった。
騎士たちの剣が弾け飛び、地面が捲れ上がる。
直接当たってはいないようだが、衝撃だけで騎士たちが吹き飛び、白目を剥いて気絶していた。
「な、魔法……!? 無詠唱で、これほどの威力を……」
唯一意識を保っていた隊長らしき男が、腰を抜かして後ずさる。
魔法。
それは選ばれたごく一部の人間しか使えない力だ。
ましてや、こんな戦闘用の強力な魔法なんて、王宮筆頭魔術師くらいしか使えないはず。
それを、ただの執事が?
「ひ、ひぃぃ! 化け物だ! お前は何者だ!」
「何者、ですか」
セオドアは懐から何かを取り出し、隊長の目の前に突きつけた。
豪奢な黄金のプレート。
そこに刻まれていたのは、双頭の鷲――大国・ガルニア帝国の紋章だった。
「て、帝国の……外交特権証!? まさか、貴殿は帝国の貴族……?」
「退け。この馬車には、帝国の賓客が乗っている。これ以上邪魔をするなら、ガルニア帝国への宣戦布告と見なすが?」
「め、滅相もございません!」
隊長は顔色を失い、這うようにして道を開けた。
セオドアは冷たい視線で彼らを一瞥すると、何事もなかったかのように馬車へ戻ってきた。
「お待たせしました、リディア。行きましょう」
馬車が再び動き出す。
私は言葉を失っていた。
今のは何?
魔法? 帝国の紋章?
私の知っているセオドアは、一体どこへ行ってしまったの?
国境の門をくぐり抜け、完全に隣国の領土に入ったところで、彼はコンコンと御者台を叩いて馬車を止めた。
そして、私の前の床に片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「……リディア。今まで黙っていて申し訳ありませんでした」
顔を上げた彼の瞳は、私が知っている誠実な執事のそれだったけれど、纏っている空気がまるで違った。
圧倒的な気品と、隠しきれない支配者のオーラ。
「申し遅れました。私はガルニア帝国第一皇子、セオドア・ヴァン・ガルニアです」
「……え?」
思考が停止する。
ガルニア帝国。
世界随一の軍事力と魔導技術を誇る、あの大国の皇子様?
それが、どうしてうちの執事を?
「貴女を迎えに来ました、私の運命の人。どうか、私と共に帝国へ来ていただけませんか?」
彼はまるで宝石を扱うように私の手を取り、甲に口付けを落とした。
月明かりに照らされたその横顔は、恐ろしいほどに美しかった。




