第10話 最高の契約
三年前のあの日も、今日と同じように雨が降っていた。
父に理不尽に叱られ、継母に無視され、屋敷の裏庭で一人膝を抱えていた私。
泥だらけのドレス。冷え切った体。
誰も私なんて見ていない。いなくなっても誰も困らない。
そう思って泣いていた私の頭上に、ふいに傘が差し出された。
『おやおや、こんなところでお嬢様が何をしているのです?』
見上げると、そこには採用されたばかりの新人執事、セオドアが立っていた。
彼は困ったように眉を下げ、ハンカチで私の泥だらけの顔を拭いてくれた。
その手の温かさを、私は今でも覚えている。
◇
「……何を考えているのですか、リディア」
愛しい人の声で、私は意識を現在へと引き戻された。
目の前に広がるのは、雨に濡れた裏庭ではなく、星屑を散りばめたような帝都の夜景。
私たちは舞踏会の喧騒を抜け出し、王宮の最上階にあるバルコニーにいた。
「昔のことを思い出していたのです。貴方が初めて私に声をかけてくれた日のことを」
「ああ……あの時ですね。貴女は泥だらけの子猫のようで、放っておけなかった」
セオドアが苦笑しながら、手すりにもたれかかる。
夜風が彼の黒髪を揺らし、整った横顔を月光が照らしていた。
執事服ではなく、煌びやかな礼服を纏った彼は、遠い存在のようで、でも手を伸ばせば届く距離にいる。
「リディア。私たちがここで交わした『契約』を覚えていますか?」
「ええ。貴方は私を『任務の隠れ蓑』兼『有能な事務員』として雇い、私は貴方に『安全な居場所』を提供してもらう。……ウィンウィンの関係、ですよね」
私は努めて明るく答えたけれど、胸の奥が少しだけきしんだ。
そう、始まりは利害の一致だった。
王国での騒動も片付き、私は帝国の補佐官として十分に役に立っているはずだ。
契約は満了したのだろうか。
もしかして、これで終わり?
不安がよぎり、私が視線を伏せると、セオドアが静かに口を開いた。
「その契約ですが……本日をもって破棄したいのです」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
破棄。
それは、もう私が不要だという意味?
物流改革も軌道に乗り、特産品も売れている。
これ以上、私がそばにいる理由は――。
「……そうですか。分かりました。殿下がそう望まれるなら、私は――」
私が身を引こうと一歩下がった、その時。
セオドアが私の手を取り、その場に片膝をついた。
「違います、リディア。早とちりしないでください」
彼が見上げた瞳には、真剣な光が宿っていた。
執事としての演技でも、王太子としての威厳でもない。
ただ一人の男性としての、熱い想い。
「私は、ビジネスライクな契約関係を終わらせたいのです。これからは、損得勘定抜きで、心からの誓いを立てたい」
彼は懐から、小さなベルベットの箱を取り出した。
パカり、と蓋が開かれる。
そこには、私の瞳と同じ色をした、深い紫紺の宝石が輝く指輪が収められていた。
「リディア。貴女は私の人生に現れた、予期せぬ奇跡だ。貴女の知性が、強さが、そして不器用な優しさが、どうしようもなく愛おしい」
セオドアの言葉が、夜風に乗って私の心に染み込んでいく。
「国のためでも、仕事のためでもない。ただ、貴女と共に生きたいのです。……私と、結婚してくれませんか?」
涙が溢れた。
止まらなかった。
ずっと、言葉にしてほしかった。
「役に立つから」ではなく、「私だから」必要だと。
私は何度も頷き、震える声で答えた。
「……はい。喜んで、お受けします。セオドア様」
彼はほっとしたように破顔すると、指輪を私の左手の薬指に滑らせた。
サイズはぴったりだった。
立ち上がった彼が、私を優しく抱き寄せる。
「愛しています、リディア」
「私も……愛しています」
私たちの唇が重なった瞬間。
ヒュルルル……ドォォォン!
大きな音が響き、夜空に大輪の花火が咲いた。
赤、青、金。色とりどりの光が、私たちを祝福するように降り注ぐ。
「……すごいタイミングですね」
「父上たちの仕業でしょう。覗き見しているのかもしれません」
セオドアが呆れたように笑い、私もつられて笑った。
バルコニーの下からは、国民たちの歓声が聞こえてくる。
かつて「無能」と蔑まれ、全てを失ったと思った私。
でも今は、こんなにも美しい景色の中にいる。
自分の足で立ち、自分の頭で考え、そして最愛の人と手を取り合っている。
「行きましょう、リディア。私たちの未来へ」
「はい、あなた」
私は彼の手を強く握り返した。
もう二度と、離すことはない。
これは契約ではない。
永遠へと続く、愛の誓いなのだから。
(完)
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