第1話 断罪と退職願
パリン、という硬質な音が響き、私の足元で赤いワインの飛沫が散った。
「リディア、貴様との婚約は破棄する!」
学園の卒業パーティーで賑わっていた大広間が、瞬時に静まり返る。
私の白いドレスの裾には、飛び散った赤ワインがどす黒い染みを作っていた。
視線を上げれば、顔を真っ赤にしたカイル第二王子が私を睨みつけている。その腕には、私の義妹であるミナがしがみつき、怯えたように震えていた。
「カイル様、怖い……。お姉様、どうしてそんな怖い顔をするの?」
「大丈夫だ、俺の愛しいミナ。この悪女には二度とお前を傷つけさせない」
カイル様はミナの肩を抱き寄せ、私に向かって指を突きつけた。
「ミナの教科書を破り、階段から突き落とそうとし、さらには身につけていた宝石まで盗んだそうだな。貴様のような性根の腐った女が、次期王妃になどなれるものか!」
周囲の貴族たちから、私を非難する囁き声が聞こえてくる。
冷ややかな視線。蔑みの色。
誰も、真実を知ろうとはしない。
私はゆっくりと息を吐き出し、胸の内で冷静に計算を始めた。
(教科書を破ったのはミナ自身。階段の件は彼女が一人で転んだだけ。宝石に関しては……そもそも実家の財政状況を知っていれば、私が盗む必要などないと分かるはずなのに)
私は伯爵家の長女として、実家の帳簿管理を任されていた。
だから知っている。
父と継母が王家からの支援金を横領し、それをミナの衣装代やカイル様への贈答品に使い込んでいることを。
我が家の金庫は既に空っぽだ。
このままカイル様と結婚しても、待っているのは火の車となった家計の尻拭いと、借金の返済に追われる未来だけ。
これまでは「王家との契約」だからと義務感で耐えてきたけれど。
向こうから破棄してくれるというのなら、これ以上の好条件はない。
「……何か申し開きはあるか?」
カイル様が勝ち誇ったように尋ねてくる。
私は背筋を伸ばし、静かに首を横に振った。
「いいえ、ございません。カイル殿下のご判断に従います」
「なっ……!?」
私が泣いて縋り付くとでも思っていたのだろう。カイル様が不意を突かれたように目を見開く。
しかしすぐに気を取り直し、さらに声を荒らげた。
「ふん、罪を認めたということだな! ならば王族への不敬および傷害未遂の罪により、貴様を国外追放とする! 二度と我が国の土を踏めると思うな!」
「はい。謹んでお受けいたします」
私はカーテシーをして、深く頭を下げた。
国外追放。
それはつまり、貴族籍の剥奪と、国民としての義務からの解放を意味する。
今日この瞬間をもって、私は自由な平民になれるのだ。
泥沼の実家からも、この愚かな王子からも離れられる。
「ちっ、可愛げのない女だ。衛兵! この女を会場から叩き出せ! 今すぐだ!」
カイル様の怒号に応じ、衛兵たちが槍を構えて近づいてくる。
外からは激しい雨音が聞こえていた。
ドレス一枚で放り出されれば、凍えてしまうかもしれない。
それでも、ここに留まるよりはマシだわ。
私は踵を返そうとした。
その時だった。
「お待ちください」
凛とした、よく通る低い声が広間を制した。
衛兵たちの足が止まる。
人垣が割れ、一人の青年が静かに歩み出てくる。
黒髪をきっちりと撫で付け、銀縁の眼鏡をかけた長身の男性。
我が伯爵家に仕える執事、セオドアだった。
「セオドア……」
「おやおや、お嬢様。随分と派手に汚されてしまいましたね」
彼は私のドレスの染みを見て、困ったように眉を下げた。
カイル様が不機嫌そうに彼を睨む。
「なんだ貴様は。その女の従者か? 飼い主に似て礼儀を知らないようだな」
「失礼いたしました、殿下。私はただ、これをお返ししようと思いまして」
セオドアは懐から一枚の封筒を取り出し、カイル様の足元ではなく、近くにいた私の父――真っ青な顔をしている伯爵へと投げ渡した。
「な、なんだこれは……」
「退職願です」
セオドアは淡々と言った。
「お嬢様がいらっしゃらない屋敷に、私が仕える理由はありませんから」
「な、何を馬鹿な! お前のような優秀な執事が辞めてどうする! 許さんぞ!」
「雇用契約書をご確認ください。『主人の不当な扱いにより信頼関係が損なわれた場合、即時の契約解除を認める』と明記してあります。お嬢様を冤罪で追放するなど、不当以外の何物でもありません」
父が言葉を詰まらせる。
セオドアはそれ以上、父やカイル様を見ようともしなかった。
彼は私の前に向き直ると、恭しく右手を差し出した。
「行きましょう、お嬢様。このような泥船には、これ以上乗っている必要はありません」
「でも、セオドア。私は追放される身よ。貴方まで巻き込むわけには……」
「貴女がいない場所で働くつもりはありませんよ。それに」
眼鏡の奥の瞳が、悪戯っぽく細められる。
「私には少々、アテがありまして。貴女のその類稀な事務処理能力を、高く評価してくれる場所を知っているのです」
「……私の、能力を?」
地味で、暗くて、可愛げがないと言われ続けてきた私の、唯一の特技。
それを必要としてくれる場所があるというの?
「ええ。ですから、私に投資すると思ってついてきてくださいませんか?」
差し出された手は、大きく温かそうだった。
今までずっと、影から私を支え、無理難題を共に乗り越えてきてくれた彼。
彼となら、どこへ行っても生きていける気がした。
「……分かったわ。お願い、セオドア」
私がその手に指先を重ねると、彼は満足げに微笑んだ。
そして次の瞬間。
体がふわりと浮き上がった。
「きゃっ!?」
「足元が悪いようですから、失礼します」
いわゆる、お姫様抱っこだ。
悲鳴が上がり、カイル様が顔を真っ赤にして叫んだ。
「き、貴様ら! 神聖な場で痴話喧嘩など……衛兵、捕らえろ!」
「お下がりください」
セオドアが私を抱いたまま、鋭い一瞥をくれた。
たったそれだけ。
ただ視線を向けただけなのに、向かってこようとした衛兵たちが、見えない壁に弾かれたようにたじろぎ、震え上がって動けなくなる。
会場全体が、得体の知れない重圧に支配されていた。
カイル様さえも、口をパクパクと動かすだけで声が出ていない。
セオドアは何事もなかったかのように歩き出し、堂々と扉を開けた。
「さあ、参りましょう。新しい人生へ」
◇
外は土砂降りだったけれど、不思議と雨は私たちを避けるように落ちてきた。
用意されていた馬車――辻馬車にしては随分と車輪が立派な黒塗りの馬車に、私たちは乗り込んだ。
ふかふかの座席に私が座ると、セオドアが向かい側に腰を下ろす。
馬車が動き出し、遠ざかっていく王城の灯りが見えた。
本当に、終わったのだ。
私は小さく息をつき、隣にいる彼を見た。
「ありがとう、セオドア。でも、本当に良かったの? あんな風に啖呵を切って」
「構いませんよ。どうせ、もう二度と会うこともない連中です」
彼は窓のカーテンを閉めると、ふう、と息を吐いて肩の力を抜いた。
そして。
いつも完璧に整えていた銀縁の眼鏡を外し、前髪をかき上げる。
そこから現れたのは、いつもの穏やかな使用人の顔ではなく、精悍で、どこか危険な色気を纏った男性の表情だった。
「さて、リディア」
呼び捨てにされた私の心臓が、とくんと跳ねる。
「まずは国境を越える。少し揺れるが、俺に任せておけ」
……え?
今、セオドアの口調が、いつもと違わなかったかしら。
それに、国境を越えるって、私たちは隣国へ行くの?
私の混乱をよそに、馬車は夜の闇を切り裂くような速度で駆け抜けていく。
隣に座る執事が、得体の知れない「何か」に見えて、私は少しだけ身を縮めた。




