69回目 妖精研究家
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカッ。
男は白髪の上に深い緑色の中折れ帽を乗せると、卓上のケースから黄緑の色眼鏡を取出して掛けました。
「出かけようか」
『はい』
白い口髭を一度撫でると、その手で画材箱のひもを肩に掛け、キャンバスの入った袋を抱えました。
帽子は、目に直接光が当たらないようにするため、つばが大きめな物を。
色眼鏡は、偏光によって妖精たちがより見やすくなる色合いを選んでいます。
「今日も奥様とお出掛けですか?」
「えぇ、少し遠出してきます」
駐車場に行くまでの間にご近所さんが挨拶してくれましたが、その方には、本当は"奥様"の姿など見えていません。
そもそも妖精を見られる人など、幽霊が見られる人よりも少ないのですから。
以前は、妖精研究家としての彼を馬鹿にするような挨拶と感じていましたが、実績を積み社会的評価を得るようになると、同じ内容であっても意味合いが変わってくるものです。
有名になるとは、つまりそういう事のようでした。
「今日は、この前行った橋の麓の河川敷に行ってみよう」
ドアも開かずに車内に入った彼女は、すでに助手席に座っていました。
『花が一面に咲いていて、今が一番綺麗らしいそうですよ。さっき川の方から来た仲間が教えてくれました』
「それは楽しみだね」
誰もが、妖精なんているはずがないと考えているのに、共通認識として同じようなイメージが確立されているのはどうしてでしょう?
妖精を見られる人は極めて少ないため、その存在を信じる人も少ないはずなのですが。
ましてや彼のように妖精と結婚するなど、本当に稀有な事例と言えましょう。
芸術家と芸術を愛する妖精リャナン・シー。彼女は人とほぼ同じ大きさです。
外見は人とは少々異なるところがないわけではありませんが、彼女にはそれを隠してしまうほどの美しさが備わっていました。
妖精の中には人間や動植物とも異なる形状のものも多く存在しています。そうした姿かたちの違いは、種族によるものが大きいのでしょう。
自分たちの暮らす世界に、自分たちとは異なる摂理の下に暮らしている者たちがいる。彼女と結婚したことで、彼はそのことを、他の人たちにも知らせたいと考えたのでした。
彼女は妖精の言葉と、この国の言葉、両方を操ることができました。その語彙力のおかげで、彼女は通訳となれたのです。
その後、妖精を研究するにあたって、その多様な姿もできるだけ正確に紹介したいと、彼は絵を習い始めたのでした。
写実的で神秘的な挿し絵は好評で、彼が出版した本はベストセラーとなり、研究家のみならず画家としての地位も得ることができたのでした。
『あら、結婚式』
「この良い日和が、二人にとって素晴らしい門出とならんことを」
『私は神様にも教会にも縁はないけれど、あなたと結婚できたことを良かったと思っているわ』
「神様に誓いは立てなかったけど、僕は君に誓いをたてたからね。絶対に守らないと」
『不思議ね。動物も妖精も神様にお祈りなんかしないのに、なぜ人間だけが神様にお祈りをするのかしら』
「いろいろ考えられるけど、不安がそうさせるのかもしれないね」
『不安とか心配。なるほどね。私たちにはあまりない感覚かしら』
「例えば、結婚式でいうなら、神様に誓いを立てることは、お互いの気持ちが変わらぬよう縛りを付与する効果はあると思う」
『そこには互いの心が変わってしまうかもしれない不安があるのね』
「かもしれない、ということだけどね」
『ふうん』
「それにしても、君は今でもあの時のままだ。変わらないでいてくれることが、僕は嬉しいし、羨ましい。あと、少しだけ切ない」
『私は、あなたが年とともに、少しずつ顔や考え方、やりたいことが変わっていくのが羨ましいわ』
「羨ましい? 年を取るのが?」
『えぇ』
「そう考えると、互いに無い物ねだりをしているのかもしれないね。さぁ、着いたよ」
車で河川敷まで下りると、そこは見渡す限り季節の花に覆われていました。
「君の仲間が教えてくれた通りだ。本当に美しい」
『今日はここで描くのかしら?』
「そのつもりだ。君はあの教会を見つめる感じでいてくれるかな。ポーズは任せるよ」
イーゼルを立ててスケッチブックを置き、画材を揃えていると、二人を見つけた小さな妖精たちが集まってきました。
「その子たちも、君と一緒に描かせてもらってもいいかな。聞いてみてくれないか?」
『大丈夫、構わないって言ってるわよ』
「ありがとうって伝えておくれ。でも心配しないで。君は一番綺麗に描くから」
『大丈夫って言ったのは、この子たちにはあなたの言っていることがわかってるっていう意味よ』
「これは失言だった。今日の主役は、やっぱり君たちにするべきだね。とびきりの良い顔をお願いするよ」
花の香。そよぐ風。柔らかい午前の陽が射す、穏やかなとある日の物語。
おわり
※『まほよめ』が好きです。




