15回目 眼鏡の男
ガチャチャチャ、ガチャチャチャ。ゴトッ。 パカッ。
電車に乗って五分。すでに幾度となく前に立つ女性と目が合っています。
僕なんかとは到底縁がなさそうな美しい方ですが、自分に用があるとしたら、この席を譲って欲しいというくらいでしょうか。
席を譲る際に、立ち上がってから「どうぞ」と言うと、相手に拒否された場合、席に戻りづらくなるものです。
そうではなく、立ち上がろうという姿勢のまま「お席いかがですか?」と言えば、拒否されてもすぐに戻れるので、精神的ダメージも少なくて済みます。
僕もそのように声を掛けてみました。
すると前の女性は驚いた顔で「私が見えるんですか!?」と問い返して来たのです。
向かいの席の人は、明らかに、誰と話しているんだろうという顔で僕を見つめています。僕は一旦席に腰を下ろすと、女性に対してゆっくり頷きました。
そしてすぐにスマホを取り出し、メールの本文に〔見えます〕と書いて相手に向けて見せたのです。
女性はうれしそうな顔で、自分を認識してくれる人に初めて出会えたと僕に伝えてくれました。
ただ、あらためて周囲を見回しても、誰もその女性には気付いていないようです。
それから女性は、僕だけに向けてゆっくりと話し出しました。
彼女は既に自分が死んでいることに気が付いていたようです。
その上で、最後に一目会いたい人がおり、毎日その男性を探しているのだということでした。
〔その方の名前とか住所とか、何か手掛かりは?〕
彼女は首を横に振りました。
僕としても、このような美しい人であればなおのこと、その願いを叶えて差し上げたいところですが、その特徴だけで探し出せるとは到底思えません。
鮮やかで深い緑色のスーツを着て、紺色の縁の眼鏡を掛けていたそうです。整った面長の顔に、髪は左側だけを頬のあたりまで下ろしていて……。
確かに、そんなに目立つ男性なら、電車に乗ってくればすぐに気がつくかもしれません。
ただ、僕はその時、ある可能性に気が付き、あらためて彼女にメール文を見せました。
〔次の駅で降りることは可能ですか? 多分そこにあなたが会いたかった人がいたはずです〕
彼女は「大丈夫です」と頷くと、僕と一緒に電車を降りたのでした。
ホームに立った私は、スマホを耳に当て、あたかも電話している体を装いながら、小声で彼女に語り掛けました。
「こちらへ来て下さい」
彼女をある場所へ誘います。
「あそこの広告を見てもらえますか。今は違っていますが、先月まではこんな広告が掛けられていたはずです」
僕は彼女に、スマホで検索した画面を見せました。
それはTVドラマに映画に引っ張りだこの、今を時めく人気俳優を起用した眼鏡の広告だったのでした。
電車内でいくら待っていても見つからないはずです。
しかもタイミングが悪く、彼女が探し始めた時には広告が差し替えられてしまっていたなんて。
彼女は、真相を知ることができた安堵感と、望んでいた相手には会えなかった悲しさで、涙が止まらなくなっています。
けれども、僕が差し出したハンカチを、霊である彼女は手に取ることすらできなかったのでした。
彼女の心が落ち着くまでの間、僕たちは話もせずホームの椅子に並んで座っていました。
ただ、目的を果たした以上、いつまでもこうして僕を拘束してはいられないということも、彼女はわかっていたはずです。
言葉を口にするたびに、末尾には僕への感謝が繰り返されました。
時間とともに取り戻せてきた笑顔の表情には、淋しさが同居しているのを隠せてはいませんでしたが、最後に深いお辞儀をすると、彼女はゆっくりとその姿を消していったのでした。
あまりに静かな別れに、僕はしばらく呆然としていましたが、混雑するホームの喧騒によって、すぐに現実へと引き戻されました。
はっきりとした記憶はありますが、夢だったと言えば、そのようでもありますし、まちがいなく現実だったという実感もありません。
ただ、心の中には、嫌な思いなどまったく無かったのでした。
一体何だったのか……。
実際に体験したにも関わらず、この時はまだ現実と夢との区別ができていない状態でした。けれどもその後、明確に現実であったことを知ることになるのです。
というのも、朝な夕なの通勤時に、彼女はあの時と同じように、僕の前に姿を現してくれるのですから。
今では、僕らは電車内で毎日、メール画面を通して会話をするようになっています。
ちなみに今日は日曜日。例のホームで、いつもとは異なる時間に彼女と待ち合わせをしているのでした。
思いっきりオシャレをしてこなきゃと、彼女は言っていましたが、本当に幽霊でも衣装は変えられるのでしょうか?その辺、今日は詳しく聞いてみたいと思います。
おわり
※もう、連れて帰ってあげなよ。