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風の中の恭子

作者: 弓月城太郎

「ただいまから御乗船の御案内を申し上げます。十八時三〇分発、浄土島行きシーラインをご利用のお客様。ただいまより乗船券の発売を開始いたします――」

 待合室に乗船券の発売開始を告げるアナウンスが流れた。恭子は島を出るときに帰りの連絡船のチケットを購入しておいたので並ぶ必要はなかった。しかし就航まではあと四〇分近く時間があった。恭子は読みかけの『月読みの報・十月号』をバッグの中にしまい、外の空気を吸うために席を立った。人が混んでくると男性の喫う煙草の煙が気になるのだ。

 恭子が席を立ったことで、待合室に居合わせた男たちの視線が一斉に恭子に集まった。目は恭子に釘付けのまま、急にそわそわして手探りに灰皿を探し、煙草の火を揉み消す者。輪になって話し込んでいたが、恭子の美貌に打たれたように立ち竦み、息を呑むようにして見つめている若い男たちのグループ。まるで街で芸能人を見かけたときのような反応である。

 いつものことだが、恭子は絡みつく男たちの視線を無視して、両開きになっている分厚い強化ガラスのスイング・ドアを押して外に出た。

 波止場に出ると、恭子は肌にやわらかい潮風を感じた。まだ微かに夏の名残りを残したふんわりと温かい潮風が、首筋にかかる恭子の長くしなやかな黒髪をさらさらと弄ぶ。潮風の中を、カモメの群れが背を翻し、折れたブーメランのように舞う。やがて一陣の風が立ち、懐かしい香りを含んだ潮風が一条の髪の毛を恭子の唇に残してゆく。夏に別れを告げる海の想いを残してゆくかのように。

「なんてキレイな夕焼けかしら」

 恭子は夢見るように、高くなった初秋の空を見上げた。眼前に広がる息を呑むほどに壮麗な夕焼けが、黄昏の空を美しい薔薇色に染め上げていた。綿菓子のように薄く条を描いて風に棚引く雲の流れは、燃えるようなワインレッドに染まり、天上で催される饗宴でヤハウェの牧人が過って薄絹の上に葡萄酒を零してしまったかのよう。ゆっくりと視線を弛たわせると、遥か北の空には、深甚たる自然の神秘を湛えた雲の島が神の住まう天上の大陸のように海である空に雄大に横たわり、流れゆく気流にゆっくりと擾乱していた。

「ああ! ヤハウェよ。わたくしは貴方の御国の到来をどれほど待ち望んでいることでしょう」

 恭子は、『月満ちる時・楽園への希望』の挿絵にあるような壮麗な夕焼けを前にして、ヤハウェの神に祈りを捧げた。

「高い天にいますわたくしたちの父、ヤハウェよ。貴方様の御国がきますように。貴方様の御名が永久に清められますように。御国の子らとして召命されたわたくしたち小さき者たちが、貴方様の『楽園の福音』をあまねく地の隅々にまで広めてゆけますように。貴方様が創造し慈しんだこの地において、貴方様の御言が守られますように。貴方様が悲しまれるような悪しき行いが、この地上からなくなりますように。どうか人々の罪と、気付かずに犯したわたくし自身の罪をお赦しください。厳しき試練の時を乗り越え、ひとりでも多くの人が貴方様の用意してくださった楽園に入れますように。病床にあっても貴方様の義と御国を祈り求めるわたくしの母をお護りください。そしてまた、わたくしが常に心を清く、強く保てますようにお護りください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン――」

 恭子は潮風に託した神への祈りを、そっと解き放つようにして静かに目を開けた。

 一日に別れを告げる絢爛たる金色の太陽が、万感の想いを込めて深く西の空に傾き、最後のフィナーレを飾ろうとしていた。きらきらと錦に織りなす日輪の、さざめきにも似た慈愛の光は恭子の黒髪を透けるような栗毛色に染め上げ、色の薄い瞳の虹彩を、かぎりなくやさしい明るい灰色に変えた。蒼く影を深めた建物の彼方に消えてゆく光をただ惜しむようにして恭子は見つめていた。

 やがて最後の光芒が彼方に消え入ると、遥か西の空、光と影の間合う辺りは、ワインレッドの残照から上空の薄く紫がかったブルーグレイの雲へと続く美しいグラデーションに変わった。視線を海の方に流す。遠く洋上を行き交う優雅な客船の遠景は、白いデコレーションケーキにキャンドルライトを灯したよう。滲むようにして瞬き、消えそうで消えない。

 恭子は黄昏の神戸ハーバーランドの海を見つめ、浄土島にいる会衆の兄弟姉妹や研修生たちのことを想った。息づくようにして上下する海原が、恭子の想いと重なり合う。

『見ていてください、お母様。わたくしはきっと、お母様の願いに応えてみせますわ』

 恭子は美しき夕景への未練を振り払って、長くしなやかな黒髪をさっと翻すと、ゆっくりと歩みだし、船着場へと向かった。

 ひっそりと静かに、蒼く影を深めた港の白い建物にはいつしか無数のイルミネーションが灯り、セルリアンブルーとオレンジ色のハーバーライトが、さざめく海の波間に反射して、いつまでもきらきらと輝いていた。

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