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今の時間は既に夜中、夜の帳が完全に下り、月はすでに朝に向かって動き出していた。そんな真面目な者のほとんどが寝静まった時間、寮の最上階の部屋はしっかりと魔力灯が灯ったままだった。
そんな部屋の中、執務机に向かっていたのは、銀色の髪の青年クレス。彼が帰ってきてから、握った筆は動きを止まることはなかった。時間にして、だいたい8時間ほどだろうか?一切休憩なしで作業を続け…そして、今、ようやく…。
「…よし。」
…最後に、先日の報告書が書き終わり、筆が置かれた。
「…ふぅ…。」
これで今日の分は終わり。つまり明日は明日で同じような量の仕事を、クレスはしなければならない。
まったく…なぜこんなにも仕事が多いのか…。
魔物が活発になったやら、周辺諸国で連携を取ろうやらとほぼ全ての王子の業務はクレスが担うことになっていた。
他に2人、王子はいるだろうって?……2人ともヒロインに色ボケているおかげで使い物にならんのだよ…本当に……。
アレックスはこの学園に入学するまでは、偶に軍を率いて魔物討伐に行ってくれることがあったのだが、それはなくなり…。
ジルベルトも外交に行ってくれることがあったのだが、それも完全になくなった。まあ、こいつは面倒事を起こして、クレスにお鉢が回ってくることもあるから、ある意味良かったが…。
せめて2人とも執務ぐらいはしてほしいものだ。
これではクレスがいなくなってからが心配になる。
ホント最低限の王族の義務くらいは果たせよな…とクレスがため息を吐いていると、執務机にそっと紅茶が差し出された。
「クレス様、お疲れ様です。」
そう紅茶を淹れてくれたのは、赤髪のデキる雰囲気の美女だった。
彼女の名前はアメリア。クレスの世話をしてくれるメイドの一人で三姉妹の長女である。彼女は、クレスがかつてスラムに迷い込んだ時に拾った娘の一人で、今ではクレスの秘書のようなことをしてくれている。かつてはクレスに噛みついたりしていたし、ミスもよくしていたのだが、今ではそんなこともなく、クレスの腹心中の腹心となっていた。
「ああ…ありがとう、アメリア。」
クレスが微笑むと、アメリアもそれに返すように優しく微笑んでくれる。正直、疲れた心には沁みて、かなり癒された。
…もうあいつらのことや、この国の未来のことなんて考えるのは止めよう。今でも宰相たちが上手くやってくれているのだから、今後も宰相の息子あたりの誰かしらが上手くやるだろう。
そう未来の宰相に全てを丸投げし、今はアメリアが淹れてくれた紅茶を楽しむことにしたクレス。そして、それを一口、口にしようとしたところ…。
ガチャリ。
なんとも不穏な音が聞こえた。
王子であるクレスの部屋がノックもなしにドアが開かれたのだ。
「く、クレス様、お客様が…って、ああ、ダメっ、ダメだからっ!!」
慌てた様子でそんな無礼者を押し止めているのは、アメリアの妹であるカミナ。
しかしながら、その客人は聞く耳など一切持たず、ズカズカと深夜の男の部屋へと踏み込んできた。
「黙りなさい。私は招待を受けた身ですよ。あなたこそ下がりなさい。」
入ってきたのは、昼前に適当に別れた女性と、そのメイド。
昼間はどこかしおらしく、可愛げがあったように思うのだが、現在はその表情がどこか険しく…。
「誰かと思えば、シュトラ嬢か…。」
クレスの言葉にピクリと眉が上がるミリア。彼女は目を細め…。
「…誰かと思えばとは随分な挨拶ですね。」
随分な挨拶?
いや、お前の方がこんな夜中にズカズカと人の部屋にやってきて随分なものだろうと思うクレスだったが、そんな言葉を口にしようものならば、今の不機嫌なミリアでは単に時間を食うだけだと思い、さっさと寝たかったクレスは単刀直入に質問した。
「…で、なんの用だ?」
すると、ミリアは予想外のことを言い出したのだ。
「クレス殿下、私はあなたに説教をしに来ました。」
「……………は?」
正直、クレスは意味がわからなすぎて思考が完全に停止していた。
…なぜ?なぜミリアがそんなことをしに?
すると、ミリアは本当にわからないのですか?とクレスの顔を覗き込んだ後、どんどんと部屋を進み、クレスの前まで来ると、執務机をドンと叩いた。
「…は?ではありませんっ!!私はあなたに説教をしに来たというのですっ!!こんな時間に婦女子を呼び出すなどというハレンチなことをなさったあなたを!!」
「……………あっ…。」
ミリアの言葉にようやく思い当たることが出てきたクレス。
確かクレスは昼間、ミリアに詰め寄られ、面倒になり、こんなことを言ったのだ。
『悪いがここでは誰が聞いているかわからないから、名前は言えない。どうしても聞きたければ701号室に来るといい。ただし!今日の夜中に!それができないなら、どんなことがあろうとも君に名乗りはしないだろう。それじゃあ。』
……うん、確かに問題発言だ。いや、これはむしろ言葉通りに受け取るなら、問題発言をしに行った形だったな…確か…。
ちなみにこれはある種の断り文句というやつだ。
確か本で読んだのだったか…。婚約者や恋人、あるいは妻や夫のいる人物を夜に自分の部屋に招く。こんなことは世間一般で許されないことである。そのことを暗喩し、形作られた風習のようなものと本には書かれていた。
だからアレックスの婚約者であるミリアも当然そのことを悟り、自分の部屋にはやってくるまいと思っていたのだ。
しかし、どうやらクレスの考えは甘かったらしい。ミリアはそのことに気が付かなかったようだ。
そして、気がつかなくてもいいことに気がついたらしい。クレスが第三王子であるということに…。
クレスの部屋はこの寮で一番大きな最上階の部屋である。
この部屋は王族を除く、学園で一番の身分の者に充てがわれる部屋なのだが、王族が住む場所が兄2人によって埋まっていて、空いてなかったために、クレスはこちらに住むことになったのだ。
だからよくよく考えてみれば、クレスの正体にたどり着くのは難しいことではない。
「…まったく嘆かわしい。王国の王子ともあろう者が、国のために働くこともせず、遊び回り、淫蕩三昧とは…。」
「?遊び回る?淫蕩?」
まるで見覚えのないことになんのことだとクレスは首を傾げる。
すると、ミリアがその言葉の意味を簡単に教えてくれた。
「そういう噂が流れているのですよ、クレス殿下。どうせ噂通り、こんなことを続けていたのでしょう…はあ…。」
呆れて額に手を当てるミリア。
そんな彼女にクレスはそんなことになっていたのかと興味深げにしていたのだが、どうやらクレスのことをそんな風に言われることが気に入らなかった人物がいたらしい。
その人物はミリアが公爵令嬢だと言うにも関わらず、こんな問題発言をしたのだ。
「…ふふふっ、公爵令嬢なのにそんな噂に惑わされるなんて…。」
急に…いや、なんとなくミリアが部屋に入ったあたりから、雰囲気でイライラしていたのは伝わっていたから、我慢の限界が来てか…こんなことを言い始めたアメリア。彼女は口元に手を当て、ミリアを蔑むように微笑んでいる。
確かに王族の糾弾など、公爵令嬢でもマズい。マズい…が…アメリアさん?言い過ぎでは?
「なんですって!!使用人の分際で…!!」
アメリアの言葉に当然のこどく、ブチ切れたミリア。
しかし、アメリアはそんなことは関係ないとばかりに火種を焚べ続ける。
「あら?わかりませんでしたか?あなたはお馬鹿さんなんですか?婚約者のいるあなたに夜中に自分の部屋に誘う…これって、普通に断り文句でしょう?しつこいですよ〜、もう関わらないでくださ〜いって、それなのに、なんであなたこそノコノコとやって来ているのですか〜?まさかあなた、クレス様になにかされたくて来たのですか?」
「っ!?ち、違いますわっ!!」
いや、確かにミリアはクレスが自分にいやらしいことをしようとしたのだと思い、ここに来た。しかし、それはクレスの噂があまりにもヒドいものであったから、これがそうなのだと思い、文句を言うためだった。
「わ、私は決してクレス殿下に…。た、確かに…あの時、少しか、カッコいいとは…ですが、私はアレックス殿下の婚約者で…ごにょごにょ…。」
なんて口にしたミリアに一瞬さらに苛立たしげな視線を向けたアメリアだったが、良かったですと言ったように、冷笑に戻った。
「…そうですか…違うのですね?」
「ええ、もちろん。私はそんなはしたない女ではありませんから。」
「それなら…シュトラ公爵家の者の目や耳は飾りなのですね…。」
「なっ…!?」
「だって、そうでしょう?噂が本当なのだと思って、クレス様を説教しにここに来たんですから♪」
クレスに誘われたから、無知にもやってきたのではない。
つまり彼女はクレスの噂に踊らされ、そんなことを止めるように言うため、わざわざやって来たのだと自白したようなものだと、アメリアは糾弾する。
「…私に言わせていただければ、貴方様の方がよっぽど嘆かわしい存在だと思いますわ、盲耳盲目のシュトラ公爵令嬢様♪」
「……そ…こと…わ。」
「…はい?」
「そんな…ない…すわ。」
「…聞こえませんね。あら、まさか口まで飾りなのでしょうか?」
「そ、そんなことありませんっ!!そんなことありませんわ!!シュトラの者の目や耳、いえ、口ももちろん飾りではありません!!」
そして、完全にプッツンしたミリアに、さらなる煽りを加えるアメリア。
「あら〜、そうなんですのね…。」
「…ええ…。ええっ!!そこまでおっしゃるなら、わかりましたっ!!私のこの目や耳でクレス殿下を見定めようではありませんかっ!!今日のところは帰らせていただきますっ!!行きますよ、リリアンっ!!」
「ええ、お嬢様。それでは失礼致しました。クレス殿下。またの機会に。」
そうして、2人は部屋を出て行った。
そして、その場にはクレスを含め3人が残され…。
どこか勝ち誇った様子のアメリア。そしてそれによくぞ言ってくれたといった様子のカミナ。
それを見て、クレスは口にはしなかったが、面倒なことをしてくれたものだと頭を抱えた。
………あ、アメリア………。