④銀世界
徐々に近付いてくる獣の群れに、メリダはどうにかして抗う方法を考える。今から雪洞に戻って立て籠るか? いや、そんな事をしても狼なら周囲を巡ってこちらが出てくるまで、幾らでも待ち構えるだろう。木に登っても助けが来ない限り、同じ事だ。
「なあ、マリエッタ!! 狼だったら何か対抗する方法は無いのか!?」
「そんなの無いに決まってるでしょ? 私は只の吟遊詩人だからね!」
どうして、どうして元魔王ともあろう者がそんな非力なんだろう……と、わざわざ得意気に胸を反らすマリエッタの前でメリダは落胆する。
「せめて歌で何とかするとか出来ないの!?」
「そう言われてもなぁ~。相手が人だったら聞く耳もあるだろうけど、狼じゃどうにも出来ないねぇ……」
ダメだこりゃ、とメリダは諦めた。そして少しでも抗う為に雪の上で足を踏みしだき、動けるように雪を踏み固める。そして雪煙が激しさを増しながら目の前まで迫ったその時、
「……あ、狼じゃないなこりゃ」
バウワウと喧しく吠えながら現れたのは、雪橇を引く数十頭のイヌだった。
「……毛皮屋の女将に?」
「そうさ! 二人の馬鹿が村目指して歩きで向かったから、急いで追っかけなって言われてなぁ!!」
その犬橇から降りてきた罠猟師は二人を見つけるなり、事の次第を告げた。曰く、毛皮屋に村から今朝方着いた猟師に「昨日出てったきり戻りもしないから心配なんだよ」と探すよう懇願されたそうだ。結局、二人が進んだ距離は犬橇で半日分にも満たない程度で、そのまま行けば三日は掛かる上、この猛吹雪では遭難するのが当然だとか。
「ま、荷物は無いから遠慮無く乗ってくれや! その代わり乗り心地は保証しないがな!!」
犬達に顔面をベロベロと舐め回されながらキャーキャー言っているマリエッタを尻目に、メリダはそう告げる猟師に深く頭を下げた。
「いやぁ、一生分舐められた気がする!!」
「そーかい、だったらついでに頭の中まで舐めて貰えば良かったんじゃないか? 少しは歌が上手くなるかも」
嬉々としながら話すマリエッタから顔を少し遠ざけつつメリダが返答し、よいしょと言いながら犬橇に乗り込むと、猟師が手綱を引きながら掛け声を上げる。
「ほうほうっ!! お前ら美人が二人も乗ってんだ! ちんたら走ると承知しねぇぞ!!」
言われなくても判ってますよと言いたげに犬達が踏ん張り、ビンと張った引き綱が橇を前へと動かした。
びゅおおぉっ、と雪原を吹雪が舞い、視界は真っ白のままだが犬橇は速度を変えずに走り続ける。先頭を走るリーダーの犬は群れを先導しながら匂いだけを頼りに、白く閉ざされた世界をずんずん進んでいく。あれだけ苦労した雪の道程も、犬達と雪橇にかかれば不自由無く行けるものだとマリエッタは感心する。
「ねえ! あとどれ位で村に着くの!?」
「んあぁ!? 日が暮れるまでにゃ着くさ!!」
吹きっ晒しの雪橇の上でマリエッタが猟師に大声で尋ねると、相手も風に負けじと大声で答える。バウワウと吠えながら走る犬達の後ろで、風に負けないよう声を張り上げながら話すのは流石に疲れるのか、メリダは黙ったまま喋ろうとはしない。
そんな三人が雪橇で天地の境も見分けられない真っ白な荒野を抜けて進むと、一瞬だけ雪が止み雲の切れ間から弱々しい光が降り注ぐ。日の光を反射して横殴りの雪風がキラキラと輝き、この世の物とは思えない景色を垣間見せる。
「……これで寒くなければ、ヴォドカがさぞかし旨いんだろうなぁ~」
マリエッタが呑気にそう呟くが、メリダは決してヴォドカの入ったスキットルを彼女には渡さなかった。
「……ほーい! 着いたぜお嬢さん方!!」
猟師がそう告げながら雪橇を停めると、長く吹きっ晒しの中で身を縮めていたメリダとマリエッタは、力の抜け切った手足で転がるように橇から降りた。いや転がり落ちた。
「あは、あはは……おいマリエッタ、お前全身雪まみれだぞ……」
「メ、メリダだって……雪だるまみたいだよ……あはは……」
すっかり全身が冷え切った二人は互いの姿に力無く笑いながら、しかし生きて辿り着けた事実を実感した。もし、また歩いて戻れと言われても、頑として聞き入れないだろう。それだけ極寒の荒野は過酷で辛く、そして恐ろしい場所だった。しかし、今はもう関係無い。但し、泊まる所が有ればの話だが。
と思いながらメリダは目端を利かせると、村の建物は質素な丸太組みだが太さは十分で組み方もしっかりしていて、長い冬を巧みに躱してきた凄みがある。但し、家屋の数は多くなく十指でも余りそうだ。
そして、犬達の吠え声に気付き人が様子を見に来たが彼等も随分と若く見え、ヒゲだらけの罠猟師共々出来て間もない村なのかと、メリダは思った。
「あの、この村に宿屋ってのは……」
「あー、そんなもんはありゃしないぞ。何せ冬の間は俺みたいな猟師以外は村の外に出やしないし、余所から来るのは同業者位だからな」
……と、予想通りの答えにメリダは肩を落とす。だが、猟師は直ぐに言葉を繋げる。
「……でも、あんたらをほっ放り出す訳にゃいかないからな! カミさんに怒鳴られちまう!!」
そう言って犬達を引きながら手招きし、大したもてなしは出来ないからなと片眼を瞑った。
「アンタねぇ! そう言う事なら先に言って貰わないと困んのよ!! ホント勝手なんだからぁ!!」
「んぁ!? いちいち人助けするんにお前の許可が要るんか!!」
やっと屋根のある所に入れたと安心出来る筈だったが、メリダとマリエッタを待っていたのは猟師と女将さんの壮絶な口喧嘩だった。部屋が散らかってるからと女将さんが言えば、猟師の旦那がだったら手伝えゃいいんだろと言い返す。だが、良く良く見ていれば二人は語気荒く言い合っているだけで、見る間に散らかっていた居間は片付きテーブルに茶器が並び、部屋の暖炉の炎は薪が足され赤々と燃え上がり、二人が着ていたコートは丁寧に水気を拭き取りハンガーに掛けられていた。
「……で、何か食べるかい?」
それまでの荒っぽい遣り取りから一転、猟師が二人にそう尋ねる。
「いや、冬の暮らしは大変でしょうから……」
「なーに言ってんのよ! 折角来たんだから遠慮なんてしなくて良いのよ! 直ぐ支度するから……アンタも手伝いなさいよ?」
「へいへい、判ったって」
女将さんにそう言われ、旦那も調理場に入って暫く過ぎ、気付けばテーブルの上の茶器はいつの間にかヴォドカと盃に変わっていた。
「うちは海も近いからな、ちょっと変わった食い物だが悪くはないぜ? 一つやってみなよ」
しかし、猟師の旦那にそう促されて皿に盛られたそれは……
(……鳥、かな?)
黒っぽい羽毛が付いたままの小振りな鳥が、白い皿の上に数羽載っていた。だが、全体的に濡れて身は細く見えるし、何より奇妙な発酵臭が漂いメリダは言葉を失う。
「これは何?」
「こいつはな、キュビアックって呼んでる海鳥でな。近くの海岸に巣があって群れで飛び回ってるんだ。そいつを網で取って塩振ってから、アザラシの毛皮丸ごと一頭分ん中に詰め込むのさ」
メリダはそう聞いて塩漬けなんだと思い、羽根を掴んで取り上げてみる。するとずるりと肩から羽根ごともげ、ぼたりと皿に戻ってしまう。
「あー、そんな恐々持ったらダメだ。こーやって掴んで尻から中身を吸うのさ」
すると猟師が手本だとばかりに一羽掴み、言った通りにじゅるると尻から中身を吸い出して咀嚼し、ヴォドカをぱかっと一気に流し込んだ。
「……ふーーうぅ、たまんねぇな!!」
「へえぇ、そうやって食べるんだね!」
と、旨そうに食べる猟師を見習いながらマリエッタも一羽取り、躊躇わずちゅるると中身を吸い出して噛み締め、同じようにヴォドカをきゅーっと一息で飲み干した。
「……あああぁ~、成る程成る程!! こりゃ確かに珍味だね! ヴォドカに良く合う!!」
全く物怖じしないマリエッタを眺めながら、メリダはとんでもない食い物に当たったなぁと放心していたが、折角の好意を無には出来ないかと意を決して一羽掴む。中身が発酵しているせいか、骨格すら脆くなり掴んだだけでぐにゃりと形が変わるキュビアックに、やれやれと思いながら口を近付けた。
……むちゅる、と唇を押し付けただけでキュビアックの内容物が口の中へと流れ込む。直ぐに海産物特有の塩辛い味と強烈な刺激臭が口と鼻を突き抜け、思わずぶほっと噎せかけるが涙を堪えながら何とか口に含むと……しかし、噛む必要も無い程の柔らかさのそれは、実に芳醇で深い味わいを帯びていたのだ。
「……魚の塩漬けみたいだなぁ。でも、それよりもっと味が濃いね……」
漸くそれだけ喋りながら、メリダは盃のヴォドカを喉の奥に流し込む。途端にカッと喉が焼けるような刺激と共にトロリとした酒精が口の中を支配し、身体の芯がポッと熱くなった気がする。
「……んくううぅ~! た、確かにこれは悪くない!」
「ほっほぉ~っ! あんたら中々やるじゃねぇか? 初めて食ってそんだけ飲めるたぁ、只者じゃねぇな!」
猟師の旦那が笑いながら二人の盃にヴォドカを注ぎ、再びキュビアックを一口啜って盃を干す。そうして三人で盃を空にしていくうちに、皿の上のキュビアックはいつの間に無くなっていた。
「ああ、これは失敬……調子に乗っておかみさんの分まで食べてしまった」
「いーえいーえ! 細かい事は気にしないで!! まだキュビアックは一冬分たっぷり有るからね!」
そう言って女将さんはアハハと笑い、外の雪の中に山程埋めてあるからとメリダに告げながら空いた皿を下げる。
「それより温かいもんも有るわよ、あんまりヴォドカ以外に冷たいもんばかり食べると胃が動かなくなるから!」
そう言って女将さんは、玉子と油と酢を良くかき混ぜたソースを掛けたマッシュポテト、そして赤カブを入れた肉山盛りのスープを持って来る。
「ありがとう! いただきま~す!!」
「この肉はなんですか?」
「これはアザラシさね、脂が浮いて混ざらないけど味は良いし身体が温まるわ!!」
赤カブのスープにマリエッタがスプーンを入れると、分厚い脂身のアザラシ肉がゴロゴロと載り思わず笑みが漏れてしまう。口に含んで噛み締めると肉の繊維と脂身がジャキジャキと歯に当たり、肉を食っている満足度が途方もない。思ったよりも臭みの無い味に控え目な塩味は、赤カブ独特の甘さと相まって実に心地好い。そして、マッシュポテトのソースは円やかで卵の味が良く引き出されていて旨味も濃く、何よりぽってりとした口当たりがマッシュポテトの粉拭き気味な食感と良く合う。
「変わったソースだね……酸味が強いけど脂こっさが消えててとても美味しい……」
「ああ、玉子をよーく油と混ぜて酢を入れると、とろっとするんだ。塩は控え目が味の秘訣だな」
余り料理をしなさそうな旦那だが、長い冬の間に女将さんが仕込みを手伝わせたのかそう伝授する。しかしそれを得意げに言わないのは、女将さんの手前だからかもしれない。そんな気遣いこそが、雪に閉ざされる長く厳しい冬を乗り越える為の知恵なのか、とメリダは聞けなかったが。
「……そうだ! 余り酔っ払う前に……一つ歌わせて欲しいんだぁ!!」
屋外に生のまま魚を吊るしてカチカチに凍らせ、それを骨ごと削って生のまま塩と油を振って食べていると、不意にマリエッタはそう言いながら立ち上がる。
「ええぇ? 止めろよ折角の酒が不味くなるから……」
「あれま! あんた吟遊詩人だったのかい!? だったら是非歌を聞かせて欲しいもんだわ~!」
メリダが少しふらつきながら止めようとするが、圧倒的に酒に強いマリエッタはスタスタと自分の荷物に向かうと中身を漁り、長方形の箱に似た楽器と弦を張る弓を引っ張り出した。そして寒さで切れないよう外してあった弦を楽器と弓に素早く結び直し、演奏の準備を終えた。
「……さて、それじゃ即興で……っと」
りゅんっ、と弓に張った弦が楽器に触れるとマリエッタの雰囲気が僅かに変わり、それまでの抜け切った表情から一転、演奏者の顔になる。
前奏のリズミカルな導入部では弓が踊り、寒さを吹き飛ばさんとばかりに音が跳ねマリエッタの長い髪も左右に揺れる。そしてマリエッタが口を開き、唐突に歌と演奏が重なった。
……愚かな旅人は助言に耳を傾けず、蛮勇の極みとも無謀な試みとも気付かずに原野を進む。風は雪を運び、雪は厳しい寒さを引き連れて旅人を遮る。
雪よ雪よ雪よ雪よ、何故我が行く手を塞ぐ
風よ風よ風よ風よ、何故我が旅の路を遮る
……愚かな旅人はやがて雪に道を絶たれ、原野で遂に足を停めた。そこに狼が目の前に現れ、温かな血と肉を寄越せと迫る。
旅人よ旅人よ旅人よ、何故死に急ぐ?
その温かい血と肉は我の糧、だから直ぐに全部寄越せ!!
……欲深い狼の背後から猟犬が飛び掛かり、狼は這這の体で逃げ出す。旅人の窮地を救った猟師は彼女に、行く所が無いなら我が家においでと声をかけた。
ああ旅人よ旅人よ旅人よ、君は何処から来た?
ああ猟師の恩人よ、それは聞かずにいて!
「……っ!? ど、どうしてそんな事まで……」
さっきまで平穏な表情で聞いていた女将さんが口に出すと、メリダは聞き飽きたと言いたげな顔で呟いた。
「……あいつは弦楽器を奏でるだけの能無しで、歌も下手くそ極まり無い。でも、あの演奏に歌が交わると、聞いてる者は妙な魔導にでも掛かったみたいに誑かされちまう。私には全然効かないんだけどね……」
しかし、メリダの呟きは女将さんの耳には届いておらず、はらはらと涙を溢しながらマリエッタの演奏に聞き入り、その肩を旦那の猟師が愛おしげに抱きながら寄り添った。
キュビアック→海鳥。大きさは鳩より小さく、群れで渡り春と冬で生活圏を変える。主に小魚等を捕食し雛鳥を育てる際に未消化の胃内蔵物を吐き戻して与える。漬け込む時は羽毛を生やしたまま塩蔵し、外皮は剥かず中身を吸い出して食する。