①旅の始まり
その演奏が止んだ瞬間、決して富裕層は近付かない場末の酒場に、時が停まったような静寂に包まれた。そして息継ぎすら忘れて聞き入っていた人々が、ふと我に返り拍手と喝采が鳴り響いた。普段は喧しく騒ぎながら酒に浸る客ばかりなのに、その日の夜は突如現れた吟遊詩人を心の底から讃えたのである。但し、たった一人を除いて。
興奮の余韻がまだ褪めぬ中、吟遊詩人が長い髪を靡かせながらカウンターに戻ると、相方の女がちびりと飲み残していた酒を啜ってから呟いた。
「……酷い歌だな、いつ聴いても耳が腐りそう……」
「えー? そんな事無いよきっと。ほら、聴いてた皆さんもそう思ってるんじゃない?」
自分に向けられた悪評に吟遊詩人の女は全く悪びれず、彼女の元にやって来る客から次々と手渡されるお捻りを笑顔で応じながら受け取るが、
「……そもそも! 俺……私の顔と身体で下手くそに歌うな! 見ていてムズムズしてくるんだよ!」
と、カウンターに陣取っていた相手は、自分の横にやって来て硬貨を帽子の中から取り出し、革袋に詰める吟遊詩人に溜め息を吐く。
「はあぁ……せめて、もう少しまともに唄えないのか?」
「うーん、そりゃ無理だねぇ。何せ、この身体は華奢って言うか……まあ、自分の身体じゃないし、無理なんだよなぁ」
吟遊詩人はそう言うと革袋の紐を締め、すっかり重くなったそれを懐に仕舞う。その様子を眺めていた相手は再び溜め息を吐き、
「……はぁ、まぁどうでもいいや。さっさと今夜の宿を決めちまおう」
そう言ってから一枚、飲み代の硬貨をカウンターに置くと、席から離れて外に出た。
吟遊詩人の連れの女は外に出ると、星の輝く夜空を仰ぎ見ながら着古したコートの襟を立て、端整な顔に似合わない諦めと苦渋の入り交じった表情になる。
「……どうして、あんな取り引きに応じちまったのかなぁ」
そう呟いて悲嘆に暮れながら歩き出した矢先、追い付いてきた吟遊詩人の女が彼女の横に並び、夜の町の雑踏に混ざっていった。
流しの吟遊詩人、その名はマリエッタ。元魔王である。魔族を束ねる長として人間と戦いそして敗れ、今は転生し女の身体に魂を宿して旅をしている。
その連れ、道先案内役のメルダ。訳有って初めての墓荒らしに手を染めたのだが、マリエッタの手に掛かり死亡。その身体と魂はマリエッタの手により魔王受肉の素となり、今は仮初めの身体を得てマリエッタと共に旅を強いられていた。
……だがしかし、二人とも元は男(マリエッタの方は男寄り、だが)。色々と込み入った事情が重なり女の姿を借りて旅をしている。マリエッタはしつこい同族の追跡から逃れる為、そしてメルダの方はマリエッタの魂を宿す依り代として利用された為、鏡写しの同じ身体になるしか生き延びる道がなかった。
マリエッタにとって、人の集まる町から町へと旅をする事は非常に興味深かった。自分が蒔いた戦乱の日々は遠く過ぎ去り、既に戦いばかりだった当時を経て平凡な日常を取り戻した人間達に、過去の恨みは無い。
その宿屋は二人で銀貨一枚と安かったが、それでも町で暮らす人々が稼ぐ一日分に値し、そうそう泊まれるような場所ではない。つまり、浪費するのが当たり前な人種が使う宿である。
「はい、これが鍵。無くしたら預り金は貰うからね」
愛想の良くない中年女性にそう言われながら差し出され、メリダは曖昧に頷きながら受け取った。銀貨一枚余計に預り金を出し、翌朝鍵を返す際に取り戻す。鍵なんて簡単に作れる物なら、ぼろい儲けじゃないかと思いながらメリダは階段を昇って二階へと上がった。
「……うんうん、今夜も上々! ねぇメリダ、この町は何が美味しいの?」
「さぁてな、前に来た時は春先だったから……」
革袋の中身を数えながらマリエッタが尋ねると、メリダはさてと考え込む。めっきり寒く感じる季節になり、夜出歩くのが少し気が引ける頃合い。そのせいで、この宿屋に期待が持てないメリダは少し考え込む。春先に来た時は雪解けで冬の狩りが終わり、獣肉よりも渡り鳥の方が旨かった。ならば、晩秋の今は越冬前の獣の方が良い気がする。
「……山の狩りの獲物を出す店かな、きっと」
「うんうん、メリダがそう言うなら直ぐ行こう!」
マリエッタにそう促され、脱いでいたコートを再び羽織り直しながらメリダは立ち上がり、二人で廊下に出ると部屋の鍵を掛けた。
「メリダ、あの毛皮は鹿かい?」
マリエッタが指差す店先には、鞣す前の獣の生皮が干してある。その皮には鏃の痕が生々しく残り、今日狩ったばかりの獲物らしさが見られた。
「たぶんそうだろうな……覗いてみるか」
メリダはそう答えながら店の入り口に近付き、扉を開けた。店内は夜の営業を始めたばかりのようでまだ他の客は居らず、店主らしき中年の男性が二人を出迎えた。
「お二人さんかい、だったらあのテーブルに掛けてくれ」
「ああ、そうさせて貰うよ。で、外の皮は鹿か何かかい」
「……ちっとばかり違うさ、あれは鹿じゃなくてアオジシだ」
店主に促されて席に着きながらメリダが聞くと、耳馴染みの無い獣の名前が出る。確かに鹿にしては毛皮の色は灰色がかり、茶色が主の鹿と比べれば違ったように見える。
「鹿よりもアオジシの方が旨いんだが、あいつらは山の高い所にしか住んでないから狩るのがな……」
「旦那が獲ったのかい」
「いや、俺の弟が狩人やっててよ、言い値で買い付けしてやってんのさ」
そう言うと店主は厨房に入り、奥方らしき女性に声を掛けてそのまま調理を始める。どうやらメニューの類いは無く、客の顔を見て献立を選ぶ店のようだ。
「……見ない顔だね、飲み物は何にするかい」
「私は……そうだな、少し強めの奴。連れは……」
「……エール!」
「はいはい、エールね。それじゃちょっと待っとくれね」
二人が飲み物を選ぶと女将はそう言い残し、厨房の片隅に消えていった。直ぐに戻ってきた女将が盆に瓶とグラスを並べて運び、二人の前に置いた。
「うちは前金なんだけど、飲み物込みだからそれでいいかい?」
「ああ、判った……マリエッタ」
「幾ら?」
「二人で銀貨六枚ってとこだね」
随分安いなと思いながらメリダはマリエッタの手元を眺め、銀貨六枚を受け取った女将がフォークとスプーンを置いて厨房に戻る後ろ姿を見送りながら、
「……今日までの旅の無事と、この先の安全に……」
そう言いながら酒を注いでグラスを煽った。
「……アオジシねぇ、どんなもんだろ」
「メリダも知らないの?」
「聞いてたろ、山の高い所にしか住んでないって」
初めて聞く獣の味を想像しながら二人が言葉を交わす内、店主がまだ熱い鉄板を載せた板を二枚持ち、二人のテーブルまでやって来た。
「……腿肉だ、冷めないうちにやってくれ」
早速運ばれてきたそれは、熱せられた鉄板の上で角切りにされた肉が脂を滲ませながらジュージューと爆ぜている。一口大に切り分けられたそれにソースが掛かり、ぶつぶつと泡立つ様は確かに食欲を誘う。
ざしっ、とフォークで刺してしげしげと眺めると、断面から桃色の肉汁が滴り気持ちが逸るのを抑えきれず、メリダはその肉にかぶり付いた。
(……牛? いや違うな……それよりもイノシシ……?)
メリダは先ず牛を連想したが、今まで食べた牛肉よりも脂は強く、秋のイノシシに近い気がした。しかし、それらより更に柔らかくふわりとした食感で、噛むとむちりと歯で容易く噛み切れる。しかも肉の旨味はそれらより更に強く、自然と左手に持ったグラスが見る間に減っていく。実に旨い肉だと感心すると、若干とろみの有るソースも負けない程の不思議な旨さがあり、その正体をあれこれ考えていると、
「……旨いだろ、ソースはアオジシの骨を叩いて煮出してコケモモとヤマブドウで煮込んだから、良く合うだろ」
店主が次の料理を持ちながら現れ、皿に盛られたそれを取り分ける。
「こっちは何?」
「こいつはアオジシの胃袋の内側。そのまま食ってくれ、旨いぞ」
次の料理……いや、一品は生の胃袋だと言われ、メリダは肉を生食する習慣が無いだけに眼を剥いたが、
「旨いの!? じゃあいただきます!」
全く物怖じする気配を見せずマリエッタがフォークを向け、胃袋を口へと運ぶ。そして暫く咀嚼していたが、直ぐににんまりと笑い、
「うふ、ふふふ……うん、旨い! メリダも食べてみなよ?」
そう言ってメリダにも勧めてくる。流石にそこまでされては拒む訳にもいかず、恐る恐るフォークで一切れ刺し、
(……マリエッタは何食べても効かなそうだけど、店で出す位だから……)
口には出さずそう思い、えいっと意を決して口へ放り込んだ。すると赤身の肉特有の鮮やかな風味、そしてシンプルな塩のざらりとした舌触りと味が広がり、更にシコシコとした肉の噛み応えに自然と頬が緩む。
「……ね、美味しいでしょ?」
「……うん」
「でしょ~?」
「うん……」
どうだとばかりに畳み掛けてくるマリエッタに、メリダは根負けして白旗を揚げる。そんな二人の様子を厨房から眺めていた店主が、初めて少しだけ笑った。
アオジシ→日本ではニホンカモシカとして知られている偶蹄目ウシ科の野生動物。マタギ等はアオシシと呼び、高い山に住み木の皮や山野草を食べる。