第8話 「こんの……バカぁぁあぁあ!!」
「はぁっ……はあっ……」
ペッと吐き出されるように、ジンは元いた泉のほとりに帰ってきていた。
四つんばいになり、乱れきった呼吸を整える。
「わおんっ!」
「わっ!?」
子犬状態のベルムートも尾いてきていた。ジンの肩に片方の前脚を当てて頭を振り、同情するかのごとく「大変だなーおまえも」みたいなジェスチャーをする。
どうなってんのキミの飼い主、と言いたいところをグッと堪え、ジンは紙袋を拾ってその場から退散しようとした。
「逃がす……くあぁぁぁあぁぁーっ!!」
「わッ……! わぁッ、わぁーッ!!」
泉から飛び出てきたキルシェの形相にビビりまくり、ジンが発作的に手に持っていた紙袋をキルシェにブン投げた。
キルシェも超反応でキャッチするが、こぼれて落ちそうになった薬瓶の一本を掴もうとして、力んだ弾みに瓶が握り潰された。
容器が弾け飛び、漏れ出た揮発性の高い黒い液体に左手の炎が引火する。
キルシェの顔面が……爆発した。
「しめたーっ!」
キルシェの顔面が爆発したのを見計らって、路地へと駆け込む。
子犬ベルムートも実に楽しげにジンと並走していた。
「熱っ……!! あっつぅううぅうー!!」
キルシェは自分の〈星域〉へと通じる道を閉じ、ただの水になった泉に顔を突っ込んでいた。チリチリと焼け焦げた髪に頭から治療液を被り、べっ甲の櫛を使い髪を梳いて、手から出した熱風で入念にドライヤーをかける。
身だしなみを整えて、水面に映る自分の姿におかしなところがないか、つぶさに検める。
袖から糸が一本、ほつれていた。
「おんのれぇえぇぇえ……ジンのやつぅうぅぅーっ!!」
元々赤い眼を更に真っ赤に燃やし、キルシェが走り出す。
「うわああ来てる来てる! もう後ろまで来てるよ!!」
外はとっくに夜の薄闇に包まれていたが、それをものともせずにジンとベルムート組をキルシェが猛追してくる。そして、なんでか知らないが眼が据わっていてギンギンに赤く光っている。コワイ。
「アォオォオォオォオン」
ベルムートが吠え、疾走しつつ巨狼の姿に変化する。その口に襟を咥えられて、ジンがベルムートの背中に乗る形になる。
指示を待たずにベルムートは家屋の屋根に跳躍し、ジャンプを繰り返して市街地に並ぶ建造物の屋上から屋上へと飛び回った。その衝撃で建物がミシミシと揺れ、住人が何人も家から出てきていた。
ジンは高速移動するベルムートに死に物狂いでしがみついていた。なんなら監察官の仕事よりも必死にしがみついていた。
「ひっきょーだぞぉ! 街中に逃げるなんてっ! 男なら堂々勝負しろぉっ!!」
「こんなのに卑怯もラッキョウもありますかっ!? ……わっ!!」
ベルムートは次の足場に飛び移ろうとしたが、ジンが急ブレーキを掛けて方向転換させた。持て余したスピードをそのままバネにして、遥か先の向かい側にある建物を目指して、大通りの夜空をベルムートが跳んだ。
「こんの……バカぁぁあぁあ!!」
空中で無防備になったベルムートに、キルシェが脚を天へと伸ばした美しい投球フォームで、剛速球の火の玉ストレートを放りこむ。
避ける余地もなく、ジンは死を予感した。しかし、特大の火球は当たる手前で弧を描いて空高く逸れていき、上空で爆発した。
五体満足でベルムートが着地点の屋上に着き、ジンが背を降りる。
ジンから頭を撫でて褒められると、ベルムートは目を細め気持ちよさそうにしていた。
あのまま次の足場として隣家に飛び移っていたら、老朽化した薬店では潰れるところだった。うまくベルムートは、ハンドリングに呼吸を合わせてくれたのだ。
息を荒くしていたキルシェが、路上からジンたちの居る屋上を見据え、飛び移る。
ジンと相対し、乱れた髪を撫でつけながら、キルシェは自嘲気味に笑った。
「はぁーあ……全部外しちゃったなぁ……十八番なのにな、これ」
キルシェは左手から炎の塊を出して、握りこんで消してみせた。
「ヒリングさん……ボクに当てるつもりなんて、初めからなかったんですね」
ジンは確信を持って問いただした。そうでなければ、あの弾速の火炎弾がジンに一発も当たらないなんてことは、いかにジンがすばしっこいとしても不可解なことだった。
キルシェが座り込み、手招きする。一定の距離をとりつつも、ジンは素直に促された通り、隣へ座った。ベルムートは小さいサイズになって丸くなっていた。
「……あたしさ、てっきりジンが受けてくれたと思ってたんだ」
「……すいません。手紙、受け取ってはいたんです。でも、濡れてて読めなくて……」
「へ? あいつに頼んだときは晴れてたのに、そんなこと……あ、あー……ああ……」
二人がベルムートをチラ見すると、どばどばとよだれを垂らして鼻ちょうちんを作っていた。さんざん動いて疲れ果てたのか、ぐっすり眠りこけている。
「原因は分かりましたね」
「はぁ……あんだけ待ち侘びて、こんなオチじゃあなぁ……格好つかないね」
キルシェは目も当てられないといった具合で、両手で顔を覆う。
事の次第は分からない。でも何か悪いことをキルシェにしてしまったようだった。一方的に巻き込まれた身としては本来なら謝罪の必要もなかったのだが、どうにも決まりが悪い感じがした。脱力している彼女の気を多少なりとも紛らわそうと、ジンは話を続けた。
「その、なんか、すいません。ボク、ずいぶんヒリングさんに気を揉ませてしまったようで……どのくらい、待たれてたんですか?」
「…………んーと。たぶん十時間とかくらい、かな……?」
「十時間!? 十時間も自分の〈星域〉に、生身で!?」
単純な時間の長さにも驚かされた。それに、同じ監察官としてもっと驚かされることがあった。普通なら、〈星域〉への道は開きっ放しにしておけるものではない。加えて、生身で自分の〈星域〉に十時間も滞在し続けるなんてことは、尋常ではない。
道を開き維持するのも莫大な夢素消費の負荷が掛かるが、自分の〈星域〉に肉体ごと侵入すれば、精神面への悪影響は避けられない。
人の夢が創る異空間である〈星域〉は、通常は意識(星幽体)だけで入るのが自然な場所だ。そこに歪な状態で長時間滞在していれば、精神と夢素の流れのバランスは崩れ、当然のごとく命に関わる。他人が肉体ごと入っても影響がない訳ではないが、本人が入るのとは危険性が比較にならない。
ベテランでもせいぜいが訓練して三~四時間というところだ。キルシェはその倍以上の時間、自分の〈星域〉に引き篭もることができる。引き篭もりの天才だ。
しかもオマケのように五大属性の火まで扱える。どう見積もっても、彼女は下級・上級の監察官を優に凌駕する上位階級──“天級”クラスの能力なのだ。
「そ、そんなに驚くことか? こいつのお陰だし、あたしの実力だけじゃないよ」
キルシェはそう言って、左腕の赤い腕輪を指した。
ジンは赤色の腕輪、それも左腕に着ける腕輪というのは寡聞にして見たことも聞いたこともなかった。腕輪は灰色で、右手に着ける物だと相場が決まっていた。教科書にも載っていないものを、ジンが知れるはずはない。
そのうえ、下級のジンレベルだとエリートの天級と接触する機会もそうはなかったので、未知なる領域の話なら知らなくともしかたないと、ジンは自分に言い聞かせた。
「へぇー、こんな腕輪もあるんですね。さすがは天級の監察官……なのに、ボクなんかになんの用事が? ヒリングさんにできないことが、ボクにできるとは思えないんですが……」
「は? いや、あの、それはだなぁ……アハハ、なんてーか……その……」
キルシェが頬をポリポリと指で掻き、目線を逸らす。顔がみるみるうちに赤くなり、左手で自分の口を塞いだ。右手は行き場を失い、人差し指で膝にグルグルと円を描いていた。
「ボクが受けたと思った、って……言ってましたけど」
「あーっ、もう……こうなるから、せっかく手紙に書いたのに……! というかそもそも、なんであたしが言わなきゃいけないんだよ、この、ば、ばかっ!」
両の拳を握りしめたポーズで、キルシェがジンに詰め寄った。
いわれのない罵倒を受けて、ジンの眉が八の字になる。
「えーと……つまり、なんですか?」
「だっ、だからぁ……! あたしとその、いわゆる、けっ、けっこ……───」
『そうはさせんぞぉーっ!!』
──キルシェが言い終える前に、大通りの路上から響いた大声が彼女の言葉を掻き消した。