1
私は疲れきっていた。
何か大きく大変なことがあった訳ではない。
日々の小さな一つ一つの積み重ねに疲れきっていた。
生きづらい。
そう思いながら生きる日々に徐々に生きる気力が失われ、こんな風に生きることに何の意味があるというのか。
だからといって自ら命を捨てることに興味がある訳でもなく。
だから新たな人生を歩んでいることに気付いた時も、新たな人生を頑張ろう、なんて気力はどこにもなかった。
どうして前世のどうにもならないような気力の無さを思い出したのだろう。
はっきりとした記憶なんてないのに、抱いていた不満などの感情だけはしっかりと思い出した。
前世の私は大した苦労なんてしたことないくせに、いつも疲れきって背中を丸めて、前を向けない感じだった。
やる気ってどうやって出すんだっけ?
そんなことすら思わなかった。
とても辛いことがあったのだ、と語れる経験すらないのに、ただ疲れきって無気力。
言い訳すら語れない、ただやる気がないだけの人間、と言うしかないような、無意味な記憶。
なんでそんなつまらないこと思い出してしまったのだろう。
今の私はマリエラ・イシュリー(10)
伯爵家の次女として生まれてきた私は何も期待されていなかった。
跡継ぎの兄とは10歳近く歳が離れていてほとんど会ったことがない。
年の離れた姉も既に嫁いでしまってあまり記憶にない。
期待されない伯爵家の次女として家族に放置される人生は、なかなか良かった。
ただのんびりと過ごす日々はつまらないけれど、多分前世で疲れた精神を癒すのには適していたのだろう。
月に一度会うかどうかの両親は、たまに会うおじさんおばさんという程度の認識で、明らかに家族愛には恵まれなかった。
でも余計なことをぐだぐだ言われて精神が疲弊するよりはいいような気がする。
多分前世の記憶に家族の悩みがあったからだ。
この前いきなり父親に呼び出された。
たまにしか姿を見ないレアキャラなお父様は私が執務室に入ると舌打ちした。
「その年で礼儀作法がなっていないな」
それはお父様が私の教育に全く力を入れていないから。私には家庭教師すらついていない。
心の中で答えながら、前よりお腹のお肉が付いたお父様の成長を確認する。
実はレアキャラお父様の顔があんまり覚えられなくて、お腹が出ている偉そうな男が自分の父親だと認識していた。
お父様はレアキャラなのもあったけれど、じろじろ見ると怒るので、お父様と会う時は顔を見ないように下ばかり向く癖がついていた。
「今度婚約者と会わせる。それまでに礼儀作法をもっとましにしておけ。しばらくは問題も起こさず大人しくしておけ」
それだけ言われて執務室を追い出された。
はあ?って思った。
婚約者?
問題?
大人しく??
いや、私これ以上ないくらい大人しく生活させていただいてますけど?
今まで問題なんて起こしたことありませんけど?
まるで私が問題児だとでも言いたげなお父様の言葉に、腹が立って怒りでどうにかなりそうだった。
今まで放置しておきながら私をしっかり貶してきたあの父は、父親らしくしたつもりか。
生まれ変わってから初めて抱いた強い怒りで記憶が刺激されたのか、この時に前世の記憶を思い出した。
そういえば誉められたことなんてほとんどなかったな、とか。
誉めるよりも否定の方が多かった、とか。
否定することが親の役目とばかりにだいたいのことは否定から入っていた。
まだ出来ないことの多い子供の頃からもっと考えてやれ、とか賢く生きろ、とかバカにされていた気がする。
賢く生きろ、って何だろう?学歴って意味なら前世の両親は当てはまらないはずなんだけれど。
遠回りするのはバカだ。最短距離をいかないとバカ。とばかりに貶されたような気がする。
最短距離が最善というわけではないのに。
謙虚が美徳という固定観念を押し付けられるのも、けっこう辛かった。
謙虚過ぎれば、人はいつ自分に自信を持てばいいのか。
そして否定され続けて、自信のない人間になっていた。
私が前世で無気力だったのは否定しかしてくれなかった親のせいだ。
自惚れは許されない。
常に頭を叩かれ続けていたから、すっかり自信の持てない人間になっていたのだ。
私が前世で幸せになれなかったのは親のせいだったのだ。
否定ばかりされていたら生きづらくもなる。
一通り不満を思い出してみたけれど、そうじゃないんだろうな、と冷静に今は思う。
親のせいにして散々言い訳しながら逃げることなら、前世で十分やってきた。
私の前世の親は確かに私に良い影響は与えてくれなかったけれど、そんな親の影響を受け入れると決めたのは『自分』だった。
大人の言うことを、親の言うことを、先生の言うことを聞く、真面目な人間に。
人の言うことを聞く正しい人間に、と。
人に迷惑をかけない人間に?
そうなろうとした真面目な性格の私は、それに苦しめられた。
何が正しいとかではなく、人に言われたことを聞くのを正しいと定めてしまったのは、紛れもなく前世の自分だ。
反抗すれば良かったのだ。
自分のことを否定するだけの人間の言葉を、真面目に受け入れることなんてなかった。
けれど、前世の私は反抗しなかった訳ではない。
従順にはなりきれない反抗心と、人の言うことを聞く真面目な性格とで対立して、疲れきって結局は無気力となってしまったのだ。
でも私が1番許せないのは、私のことを否定しかしない人間の言葉を『受け入れる』と決めてしまった『自分』にだ。
自分で自分の決断にがっかりして、結局気力をなくしていってしまったのだ。
前世でもそう結論を出せて親の言うことなんて無視していたら、もっとましな人生に出来ていただろうか。
それでも難しかったかな。
だって、子供の頃から否定され続けていたのだから。まるで見えない毒のように。
こうやって前世を冷静に見つめることが出来るのは、生まれ変わったからだろう。
前世とはいえ、他人の人生のように冷静に判断出来る。
問題は前世の疲れが引き継がれてしまっていることだろうか。
今の人生は心の疲れを取る為にあるのかもしれない。
だからのんびり生きていこうと思っていたのに。
今の親も前世の親と似たところがあるのだろう。
大人として注意していれば自分が親の役割を果たしていると勘違い出来るタイプのようだ。
良かった。と思った。
前世と同じタイプなら、安心して前世の記憶プラスで嫌いになれる。
どちらかというと大人しいはずだった私を否定しかしない者の言葉を、聞くべきだろうか?
いいや。もちろん聞くわけない。
前世から続く心の疲れを取る為に、否定好きの親の言うことなんて聞いていられない。
その日、それまで大人しかった伯爵家の次女は、わがまま娘へとなることを決めた。
「なんだ。まだ子供だな」
初めて会った婚約者の第一声が私の心に突き刺さった。
わがまま娘になることを決めた私の決断が、幼稚だと言われているみたいでグサリときたのだ。
そう言ってきた相手もまだ私と同じ年の子供だ。
「初めましてサミール・ドレイド様。マリエラ・イシュリーと申します」
数日間家庭教師に仕込まれた貴族の礼をする。
わがままになると決めたものの、私はまだ分かりやすい反抗はしていない。
盗んだバイクとかそういう分かりやすい反抗は私らしくないし、貴族としての今後にかなり面倒な気がするし。
「俺、こんな子供と結婚なんて嫌だ」
クソガキが何か言ってる。
とりあえずこっちは礼儀通りに挨拶してるんだから形だけでも挨拶返せや。どっちが子供だ。
「まあ、それは良かったです。私もまだ子供ですから結婚なんて考えたこともありませんから」
私もあんたとなんて結婚するつもりありませんけど?
すぐに私の頭の中は婚約破棄で埋め尽くされた。
「俺はうるさい女は嫌いだ。お前も大人しくしていろよ」
挨拶も出来ないお子ちゃまが何か言ってる。
こんなやつとは分かり合えなくてもいいな、と私は婚約者と仲良くなることを諦めた。
勝手に婚約者を決められただけでも気に入らないのに、あんなクソガキが婚約者だなんて。
しかし、伯爵家の次女に対して向こうは侯爵家の跡継ぎ。
これは相手に嫌われて向こうから婚約解消を申し出てもらうしかない。
私は今の人生はゆっくりまったり心の疲れを癒すために生きると決めたのだから、結婚は必要ない。
間違いなく生意気なクソガキの婚約者に会ったことで、私の反抗心に火が点いた。
大人しくしていれば平穏な日常を過ごせるし、満足出来ると思っていた。
それなのに私の大人しさを誉めるどころか貶してきたのはお父様だ。
大人しくしていても貶されるなら、大人しくしていてなんかやらない。
私は分かりやすくお金を使うことにした。
今の私の部屋は地味な調度品のみで、これといった個性が一切ない部屋だ。
だから分かりやすく子供っぽくしてやろうと思った。
比較的濃い色の物を物色しに毎日のように買い物に出掛けた。
家庭教師の授業は午前だけだったから午後はいつも空いていたし、今まで家に引きこもっていたから出掛けるのが楽しかった。
憂さ晴らしという言葉が頭に浮かんだ。
お金を使うことでストレスを発散させるダメなやり方だ。
でも伯爵家は子供の買い物くらいで傾かないから大丈夫。
というか今まで大人しかった分を使っていると思えば当たり前の買い物だ。
さて、子供部屋とはどうあるべきか、と考えながら買い物をしていると、やたらピンク色ばかり集めてしまった。
服装も今まで個性のない服ばかりだったけれど、如何にも子供が好みそうなふりふりした物を買い集めてみた。
前世の私は子供っぽいことを恥ずかしがってこんな服は着ることが出来なかった。
バカっぽい、と澄ましていただろう。
バカっぽい、と思うのに、バカっぽいからいいのだ。
前世なら金銭的に余裕が無かったのもあって、こんなこと出来なかった。今の私は伯爵家のお嬢様だからね。ていうか今までが大人し過ぎたのだ。
親が自分に興味がないからと自分まで自分に興味をなくすことはなかったのだ。
ぶっちゃけシンプルな物も好きだったし、服装に不満もなかったけれど、大人しくしてるとずっと大人しくしていないといけなくなるから。
けっこうお金を使ったと思う。でも親には何も言われなかった。
一応今まで大人しかった私が爆買いを始めた報告は入っているはずなのに、それだけ私に興味がないのか、許される程度の金額だっのか。
この爆買いでも「大人しくしていろ」の範疇を出ていないというのなら、私はどこを貶されたのだろう?
家庭教師をつけられたのが最近だから作法がなってなかったのは分かるけれど、少し前の私を問題児みたいに言ったのは、ただ言っただけ、ということなのか。所詮親なんてそんなものなのか。
「おい、なんで先月は来なかったんだ?」
家に来た婚約者の第一声に、私は怒りを抑えた。
挨拶も出来ないやつに会いたい訳がない。
私達は婚約者として1月に1回会う予定になっていた。
お互いが順番に行き来する予定だから、2回目は私が相手の家に行く予定だった。
だから私は行かなかった。
だって、ただでさえ会いたくないっていうのに、決まっていた予定日に向こうの都合が悪くなったからと日にちを変更させられ、その変更日すら変更させられた。
2回目の変更でもういいや、と思った私は行くのを諦めた。行く日を決めずに流して結局行かなかった。
そうしたら本来は3回目の逢瀬となるはずの2回目の訪問で、婚約者の第一声がこれだ。
「サミール様が忙しいようでしたので、訪問は遠慮させていただいただけです」
実際侯爵家の跡継ぎである婚約者様は忙しいのだろう。
毎日買い物する余裕だらけの私と違って忙しそうで何よりですね。
「俺達が会うのは決まりのはずだろ」
うるせえ。決まりだからってあんたみたいな嫌なやつと会いたいと思うわけない。
「無理に会うこともないはずです。どうせ契約なんですから」
いつ婚約解消するか分からないからね。
私の対応が悪かったのだろう。
私が会いに行くことがないのを感じ取ったのか、何故かその後からは婚約者が訪問する形になってしまった。
本来なら私が行くはずの訪問がなくなったのは楽だけれど、相手を迎えなければならないので逃げられない。
「マリエラ嬢はピンク色が好きなのか?」
私がいつも子供っぽいふりふりの服を着ているからだろう。婚約者がそう話題をふってきた。
私は精一杯子供っぽく見えるように選んだ服装を見下ろす。
心の声が子供っぽいなんて恥ずかしい、と今の服装をバカにする。
でも似合っていない訳ではない。使用人達の反応だって悪くないはずだ。
「今はたまたまこの色にはまっているだけです」
私は澄まして答えながらお茶を飲む。
本当はお菓子も食べたい。でも礼儀作法の先生が頭の中ではしたないと怒っている。
そう思い出してすぐに考え直す。
この婚約者相手に礼儀を通す必要なんてなかった。
お菓子に手を伸ばすと婚約者が嬉しそうにした。
「それは俺の家で経営している店の新作なんだ」
よりによって婚約者の差し入れを選んでしまったらしい。お菓子に罪はないので食べるけれど。
気が付くと婚約者が出来てから1年が経っていた。
今の私の部屋は青色になっていた。
ピンクには飽きた。
今はやたら青色にしてみたけれど、その内カラフルな部屋に変えようとも考えている。このまま一色ルールみたいにするつもりもないし。
「マリエラ!誕生日おめでとう」
婚約者のサミールは1年ですっかり家に馴染んでいた。毎月必ずやってくる。
「サミール!人の部屋に勝手に入ってくるなんて信じられない!」
女性の部屋に入るとか、婚約者とはいえダメだろう。
もう何回も入られてるけど!
いつの間にか私達は呼び捨てで呼び合うようになっていた。
「今度は青色か。俺の色だな」
サミールがニヤニヤしながら部屋の中を見回している。
そう言われると思ったからすぐ色を変えようと思ったのだ。
焦げ茶色の髪に瞳という地味色な私と違って、サミールは濃い目の金髪に青い目をしている。
私は別にサミールを思って青にしたわけではない。ピンクに飽きただけだ。
「たまたま青にしただけ。すぐに変えるから」
お前の為じゃねえよ。
そう念を押しながらサミールが持ってきた誕生日プレゼントを受け取る。
中身を見て私は気のせいだと思いたくて一度蓋を閉めた。
「マリエラの部屋に合いそうだな」
嬉しそうなサミールに突き返したいのを堪える。
サミールがくれたのは青い宝石が付いたネックレスだった。
この世界では婚約1年の記念に高い物を贈るという話は聞いたことがあった。
基本的には子供は高いプレゼントは贈り合わない。成人する16歳からは贈ることもあるとは聞いたことがあった。
自分が貰うことがあるとは思っていなかった。
「サミール、これ本物?」
一応聞いておく。
1年の記念での高価なプレゼントは、それだけ相手に夢中だという証だ。
まさかサミールに限ってそんなわけがない。
どうせサミールの親が選んだとかそんなのだろう。
「?物に偽物とかあるのか?」
お子ちゃまサミールには物の価値はまだ分からないらしい。このプレゼントは箱に仕舞ったまま引き出しの奥行きが決まった。
「マリ」
名前を呼ばれて顔を上げる。
サミールが不機嫌そうにこっちを見ていた。
婚約して2年もすると相手も成長するんだな、とどうでもいいことを思った。
10歳だった私達は12歳になり、同じくらいだった身長も差が出てきた。
そしていつの間にか愛称呼びになっていた。
「ミール、ここってどういうこと?」
机の上に置いた本をサミールの方に差し出す。
「婚約者が来ている時くらい勉強は止めろ」
サミールは私が差し出した本をそのまま閉じて少し離れた所に置いた。
「だって、来年には学園に入るんだよ!?」
私は今、受験勉強中みたいなものなのだ。
「だからって俺が来ている時までしなくていいだろ。少しは休め」
サミールに言われて仕方なく勉強道具を片付ける。
来年私達は5年制の学園に入学することになった。
学園入学が義務ではないこの国では子供の教育は親によって変わる。
本来なら徐々に覚えていくことなのだけれど、私は最近勉強を始めたばかりだ。
親にやる気ないからね。
今の私は入学試験に受かるかどうかすら怪しい。だから必死に勉強しているのだ。
本来私は跡継ぎでもないので学園に入る予定はなかったのに、サミールと婚約している関係からか学園に入ることになった。
昔からしっかり教育されているサミールはいいかもしれないけれど、私は放置されていたから焦るのも仕方ないと思う。
だから勉強する時間を奪わないで欲しい。
「そんなに頑張らなくても大丈夫だって」
サミールが余裕そうでむかつく。見た目と雰囲気は勉強出来なさそうなのに。
「ねえ、ミール。勝負しない?学園在学中成績が良かった方が1つ何でも負けた方に命令出来る、っていう勝負」
「へえ?面白そうだな」
サミールが乗ってきた!これで私の婚約解消計画が進みそう。
私の心を癒すまったりダラダラ人生の為に、結婚はしたくない。