前哨戦
広い草原を隔てるように現れた、木々の大波。人の手が及んでいないその場所は、大自然の偉大さを物語っている。太陽光が一面を照らしていた草原も、この森、いや樹海に入れば、届く事はない。さて、そんな依頼の地に、やっとこさ着いた俺はというと……
「吐きそう……」
地面と接吻をしそうなほど、顔を地に近づけていた。
「大丈夫?」
「少し待ってくれれば……」
馬車から降り、動かない大地の素晴らしさに感動するとともに、訪れる安心という油断。猛烈な吐き気を胸に、雑嚢の中を漁る。あらかじめ、こうなる事を予期し購入していた強壮薬の瓶を出し、兜の隙間から、流し込んだ。
「意地でも取らないんだ」
「かっこいい面をしてる訳でもないからな」
喉を通り過ぎて、胃の中から上がってくる苦味を飲み込む。腹の奥が、温まり始め、失っていた活力が漲る。腹の中を虫が這いずり回るような、気持ち悪さが消え、やっと健康体に戻る事が出来た。
「地上は、素晴らしい」
己が持つ二本の足で、大地をしかと踏みしめ、歩ける事の素晴らしさ。やはり、人は歩くべきだよな。
「酔うって、どんな感じなの?」
「自分という存在が、根底から崩れ去る感じ。酔わない奴には、一生分からない辛さ」
冒険者という、様々な所を行き来する職に就いている俺だが、この体質だけはどうにもならない。
「大変なのね」
「そういえば、森人は酔わない体質って噂を聞いたが、本当か?」
「さぁ、私は酔った事ないけれど。あ、でも森人で酔った人って聞いた事ないわ」
「ずるい」
花粉症にならない奴が、花粉症の辛さを分からないように、酔わない奴は酔う奴の大変さを分からない。世の中は、不平等ではないか。神々は、種族としての特徴に優劣を作らないよう、全ての種に得手不得手をわざと作ったと聖書では言われている。だが、それ以外の体質という面に関して、弱点を作る必要はないと思う。
「ふぅ…大分、楽になった」
「いけそう?」
「少し待ってくれ」
雑嚢から小さな袋を取り出し、掌の上で振る。中からは、ころんと一粒。それを、口の中に放り込むと、飴細工のように噛み砕く。
「それ、なに?」
「消臭錠。自分の匂いを消すんだ」
「只人って、面白いことを考えるのね」
「森人にとって、森は庭みたいなもんだが、森自体から見たら、只人の俺は、異物だ。鼻が効く怪物にすぐバレる」
「なるほど、入念なんだ」
「俺から見たら、お前の方が準備不足なように見えるが、平気なのか?」
「里を飛び出してきたのだから、お金も荷物も特に持ってなかったし。あるのはこれだけ」
目の前のこいつが、里から考えなしに飛び出して来たのは、一目でわかる。
「そんな、装備で大丈夫か?」
長弓と弓筒は、いかにもな森人らしい武器だから良いとして、問題は、その防具に関してだ。いや、防具とも呼べないその服に関してだ。
「平気よ。私からしたら、着重ねする方が、邪魔だもの。鎧は動きにくいったら、ありゃしない。それに、この服は呪いをかけてあるからね。それなりに防護力はあるのよ」
「呪い?」
「守護の呪い。ほら、この通り」
「おい!?」
森人はそう言うと、いきなり鞘から引き抜いた刀を、平服に突き立てた。いきなりの事に、気でも狂ったのかと、頭から血の気が引き、肝が冷える。
「ほら、突き抜けないでしょ?」
刀は、布を突き刺したにもかかわらず、鉄板に突き立てたかのように、硬質な金属音を鳴らした。刀の先は、服を貫いてはいない。
「……せめて、一言言ってからやってくれ。体が震えたぞ」
「ごめん、ごめん」
頭に手をやり、ため息を吐く。
「回復道具は?」
「レッグホルダーに、回復薬と強壮薬。後、森人特製の慈愛の花、かな。これのことね」
森人は、そう言って頭につけている花形の髪留めを指差した。森人の深碧色の髪の上に咲く一輪の白い花。雪精のように、真っ白な花は一見すると、ただの綺麗な髪留めにしか見えない。
「それが、噂に聞いていた花か」
「そ、森人の手自らで育てる回復道具。ちなみに、譲渡不可」
「その理由は、知っている。森人以外が触れると、毒の花になるんだろ」
部位欠損のような、回復術師の高等術式を必要とする致命傷は流石に、不可能だと聞いた。が、慈愛の花の蜜には、他者を癒す効能があり、花の蜜を飲む事で、ある程度は治癒されるという不思議な花だ。
「毒の花とか、どんな原理って話だよな」
しかし、森人以外の種族が触れると猛毒のドス黒い醜い花になるという。顔か、顔で選んでんのか、この面食い花。
「魔法の花に、原理を求めちゃおしまいよ。不思議だからいいんじゃない」
「そうだけどなぁ…」
「それより、いきましょう。森人の里へ案内するわよ」
「頼む」
森の中へ一歩、足を踏み込んだ。ここから先は、迷宮の呪詛に侵食された、魔の領域。何があるかは、分からない。
「うっ……」
「どうした?」
「何かは、分からないけど、すんごい臭い匂いが充満してる……」
「匂い?」
「うん……」
鼻に手をやり、その匂いとやらが鼻に入るのを塞ごうとしている森人。匂いとやらが、凄まじいのかその顔は、森人がしてはならない凶悪な面をしている。
「何もしないが?」
「只人の鼻だと、わからないと思う。森に入るまで、私も分からなかった」
「って事は、迷宮の影響か?」
「多分……」
森に入るまで、森人が気付かない匂いとは、迷宮の影響以外は考えられない。
「っ!?接敵!!」
森に踏み込んで、まだ数分。匂いに辛そうにしていた森人が、長耳をピクリと動かすと、長弓を構えて、険しい顔でそう叫んだ。
「方角と数!」
「ぴったり、十二時の方角!数は、十!」
何故、怪物達が花に吸い寄せられる蜜蜂の如く、俺たちの方へ向かって来ているのかは分からない。だが、慌てる暇がないのは確かだ。冷静に、対処するのみ。
「戦闘回避は!」
「無理!一直線に向かってきてる!」
獣型の怪物だとしても、こうまで狙って俺たちの元へは、普通来れない。ましてや、森人の嗅覚ならば怪物が近寄る前に、気がつく筈だ。なのに戦闘回避が出来ない?
「怪物の種族は!」
「多分、人型種!」
「わかった、先手は取らせるな。先に弓で射ろ!」
獣ではなく、人型種?疑問が湧き上がるが、それを気にする時間はない。
「りょーかい!ただ、変な匂いがするから気をつけて!」
「変な匂い?」
「何かは分からないけど、腐った匂い!森と同じ!」
「同じ匂い……?」
その時、風が吹き抜けた。春陽気の一番風とは、程遠い。ぬるっと、重たい纏わり付く気持ちの悪い風が一吹き。それに混じり、嗅ぎ慣れた腐敗臭。
「これは、屍だ!!」
「屍!?何で、この森にいるのよ!」
「知らん!ただ、攻撃するなら頭だ!それ以外は、意味ないぞ!」
迷宮に入る前から、屍系の怪物との戦闘か。鋼銀の試し斬りが、早速出来る。嬉しいとは全く、思わないが。
「あれか!」
「死体?」
木々の隙間から、血と臓物を撒き散らしながら、這いずるように駆け抜けてくる、小人の姿。緑色の体表のあちこちが、腐り落ち、目は白く濁っている。また、だらしなく伸びた紫色の舌から、涎がだらだらと垂れ流し。知性というものを感じさせない、それから唯一感じるのは狂気だ。
「小鬼の屍!小さいから気を付けろよ!」
「任せなさい!」
ヒュンッと風切音が、聞こえたかと思うと小鬼の眉間に突き刺さり、地面へ縫い付けた森人の矢。流石は、森人。頼りになる。
「どのくらい、削れる?」
「いけて、後四匹!残り五匹は、任せたわ!」
「了解。近づく前に、俺も削る」
森人の矢とともに、腕を鞭のようにしならせ、魔法の投げ刀を、一投。森人の矢は、寸分違わず、先程のように眉間に矢を突き立てたが、俺のは僅かに狙いがそれ、頬に突き刺さった。
「外れたか」
この魔法の投げ刀に慣れるのに、そう時間はかからないが、やはり外すというのは悔しい。森人が射るたびに、寸分違わず当たっているのを見ると、尚更悔しい。
「落ち着いてるの、ねっ!」
「戻ってくるしな」
不思議なことに小鬼の頬に突き刺さった刃は、時間を巻き戻したかのように、俺の手の中に戻ってきた。これが、魔法。
「便利だな、魔法」
本来、小鬼は悪知恵の働く怪物だ。粗雑な武器のみだが、自らの手で武器を作りだし、装備を固める。それに加えて、小鬼の強みとなる群れの数。大群になった小鬼の群れは、小さな町なら落とせるほどだ。しかし、強みの数も、知恵も、屍となれば話は別。
「向かってくる的程、当てやすい物はないな」
「同感!」
次は、小鬼の頭に突き刺さり、小鬼は、地面に倒れ込む。数も減り、残りは少ない。
「殺すぞ」
「了解!」
屍の小鬼。森に満ちる腐敗臭。嫌な欠片が集まってきたが、まだ組絵を完成させるには至らない。これはまだ、前哨戦。本戦は、迷宮に入るまで。だが、こんな森の浅瀬にも迷宮の影響が来ているというのは……。
「嫌な感じだな」
掌に戻ってきていた魔法の投げ刀を、俺は小鬼の群れへと投げ撃った。