まずは冷静になってみよう。
「行かないでっ、マスカット!」
自分の叫び声で目が覚めた。
真夏の体育館でダッシュ60本やった後みたいに全身は汗だくで、顔にまとわりつく髪の毛がうっとうしい。
こんなに悪い寝覚めはいつ以来だろう。
苦しさに気圧されて、ここが現実なのか夢の中なのかまだ判別がつかない。
「ふーーーっ」
一つ呼吸を深くして、視界がクリアになっていく。ようやく自分の置かれている状況が見えてきた。
布団からのそのそと這い出して、目の前にある白い布を捲りあげる。
その先には、見覚えのない部屋が続いている。
一言でまとめると、教科書で見たようなヨーロッパの貴族の邸宅。
暖炉があって、飾り棚があって、絵画が飾られていて。
かといって金ピカっていうこともなく、ペールトーンのピンクに色調は統一されて、少女らしい可愛らしさと落ち着きが同居する設えになっている。
部屋の片隅には、無駄に精緻な彫刻で縁取られた姿見がある。
自分の膝よりも高いベッドから降りて、その前に立った。
「あたしは、水上杏!」
可細い声が室内に木霊する。四角い部屋で天井が高いせいか、ぐわんぐわんと余韻が響く。
「あ、た、し、は、み、ず、か、み、あ、んっ」
何度唱えたところで、そこにある現実が変わることはなかった。普段よりも低い視界に戸惑いながらも、杏は改めて鏡の中を観察する。
ふわふわ巻き毛の金髪に、エメラルドの瞳。大きな瞳は今にもこぼれ落ちそうで、華奢な手脚は簡単に折れそうだ。肌は透けるように色白く、どうしてこんな身体で世界を救えたのか疑問に思えるほど彼女は儚げだ。けれどヒロインとしては王道の容姿に誰もが納得するだろう。
姿見に映る少女は、アンジェリカ・ハドソンという乙女ゲームのヒロインだ。
見た目の存在を無視して、杏は乱暴に頭を掻きむしった。
「どーして、こーなったかなー。これってよくある転生モノ? いやいや、あたし死にかけたことはあるけど、死んだ覚えないって」
杏は三年前の交通事故で、生死の境をさまよう大けがをしたことがある。その時でさえ、目覚めたときには自分に何が起こったか覚えていたのだ。今回もあり得ない状況に置かれながらも、それまで自分がどういう状態にあったのかきちんと覚えている。
自分の部屋で大好きな乙女ゲームをプレイしていただけだ。
それも、完全クリアするところだった。
「うう~ん。やっぱりこれって、いつものアレかな」
杏にとっていつものアレというのは、幽体離脱からの憑依のことをいう。交通事故以来、杏はどういうわけかそんな体質になってしまっていた。
初めてその体質に気づいたのは、病院でリハビリを始めた頃だった。
『まだ若いし、経過は順調です。リハビリをすれば、またバレーボールできますよ』
そんなことを主治医に言われて、気持ちはすっかり元気になっていた。けれど、まだまだ車椅子が手放せず、ぼんやり庭で空を眺めていた。
『鳥みたいに、自由に飛べたらいいのに』
我ながらありがちな妄想だったと思う。
次の瞬間、杏は空にいた。
羽ばたき方がわからず、一瞬だけ落ちそうになったのは今でもいい思い出だ。
思うように羽ばたき、高く、遠くへーー。
気持ちが済んで、自分の身体へと戻ると、大騒ぎになっていた。
『先生、大変ですっ。杏ちゃん、意識がないんですっ』
意識のない自分を見上げて初めて、どうやら自分が幽体離脱して、鳥に憑依していたことに気がついた。慌てて自分の身体へと意識を戻すとすんなり戻れたので相当ほっとした。
それ以来、杏はいろいろなものに憑依してきた。といっても種類は猫、犬、鳥くらい。繰り返すうちに、気持ちが傾倒すると憑依してしまうことがわかって、今では気をつけているので無意識に憑依することはない。
おそらく、今回はやってしまったのだ。
「でも、好きだからって乙女ゲームはないでしょ、じぶん! っていうか、乙女ゲームに憑依ってできるものなのっ!? 初めて知ったし!」
ひとしきり喚いて、ちょっと落ち着いた。落ち着いてみると、思うことがある。
せっかくだから、この世界を楽しみたい。
「でも、エンドロール終わっちゃったよ!」
できることなら、憧れの彼と嬉し恥ずかしあれやこれを体験したかった…気がしないわけでもない。
ガッデム!などど、更にわめき散らそうとしたところで、ノックの音が響く。
「アンジェリカ様、お目覚めですか」
「すみません、支度が終わっていないので、少しお待ちください」
(ヒロインって、こんな感じかな)
我ながら、うまく返答できたと思う。
アンジェリカは庶民なので、侍女の助けを借りずに身支度を調えている、という設定だった。
「わかりました、お部屋でお待ちしています」
そうして、気配が離れていく。
この声の主には覚えがある。きっと彼だ。彼にはすべてを伝えてもいいかもしれない。
実のところ、杏はちょっとだけ困っていた。
「いつもだったらすぐに戻れるのに。なんで戻れないんだろ」
さすがに憑依してしまったと気づいてから、戻れるよう自分の身体へと意識を傾けていた。いつもだったら、長くても高いカップラーメンが仕上がる程度の時間で戻れるというのに、今回はゲーム時間で一晩が過ぎてしまった。
こういう時はたいてい、何かきっかけが必要なのだ。
けれど、そのきっかけを一人で探すのはいつも苦労する。本当は聖獣に相談したかったのに、マスカットは早々と天界へと帰ってしまった。そうなると、相談できるのは彼しかいない。
だって、何かいろいろ知ってそうじゃないですか。