指を浸す
誰も居ない真っ暗な部屋で一人、彼女は膝を抱えて蹲っていた。温く慣らされた気だるい外気をまだ仄かにまとっている。玄関から帯を引いてリビングまで続く外気は脱ぎ捨てられた服の周りでよどみ、彼女の周りでよどみ……程々に肉の付いたその腕に緩く絡み付いた。乱れた長い髪を掻き揚げて乾いた唇にため息を乗せれば、雑に化粧を落としただけの肌が水分を欲してぴりぴりと引き攣る感覚を覚える。こんな日はたまにあるのだ。憂鬱を沈めた夜に酔うような日は。
彼女がくたりと身体を倒せば、存外白い太腿が床を叩く音がした。狭いリビングルームに陳腐な音は響きわたりそのまま戻ってくることはない。火照った四肢の血管がミミズのように蠢き、波打ち、床から冷たさを奪おうと皮膚の下で脈動する。薄く肉の付いた胸もそれを手伝い上下した。丸い鼻から吐き出される空気の熱さは昼間の名残である。夏の昼間とは、街を丸ごとオーブンの中に投げ入れたような灼熱の白だ。頭の中まで白に埋め尽くされ、その色は重々しさを伴って記憶を阻害する。頭が働かず、直近の予定だけがぐるぐると一人走り回っているかのように反芻されたり、昔なんでもない事でひどく裏切られたことが嫌に思い出されたり──そんな斑模様の白もいつものことだ。重い頭をずり、と動かして彼女は体の向きを変えた。やや高い位置にある窓には都会の夜空が絵画の如くはめ込まれている。星の少ない紺色の夜空にマンションの明かり、白く輝く月すらも人工の明かりの前では貧相に見える。遠くにある大通りの喧騒は聞こえないはずだが、風に乗って何も知らない人々の声が心に染みてくるような気がして彼女は目を逸らして浅く息を吐いた。
冷めてしまった湯にぼんやりと浸かっているようだと彼女は思った。湯は半分水に変わり指先からほろほろと体温を奪っていくというのに、自分は覚醒しているのか眠っているのか分からないくらいの意識でそれを許容しているだけなのだ。湯と体の境界線は溶けきって曖昧模糊としたものになり、そうして何かの拍子に湯から出ようという決心をしない限りはずっとそのままでいる。
ああこれだ、そう直感させる何かがあった。きっとこの街は今温い湯に浸かっていて、そこから抜け出せないでいるのだ。彼女はゆらりと身体を起こすとじんわり痛む頭を立ててもう一度窓の外を見る。首の後ろから這い上がってくるような耳鳴りを聞きながら疲れた表情の顔を上げれば、その視界には孤独な月が映りこんだ。布を張っただけのような平べったい夜空に取り付けられた、あれは電灯である。狭く侘しいこの街とこの部屋を照らす風呂場の電球である。彼女はそう直感した。そして水底でもがくように、気まぐれな欲望に支配されたかのように、あるいは意識が引き寄せられたかのように彼女はその月に手を伸ばす。指の合間をすり抜けてくる真っ白な月光が彼女の瞳孔を刺し、目尻を彩った。こげ茶色の瞳に泡のような月白が浮かんでいる。指の先から月に浸していくかのようなその時間を愉しみながら、彼女の夜は更けていくのだ。