真夜中のタクシー
雨がしとしと降り注ぐ真夜中。ぼんやりと辺りを照らす街頭の下に、長い髪の女が一人で佇んでいた。傘も差さず、どこか虚ろな表情を浮かべる彼女の前に一台のタクシーが現れる。目の前でピタリと止まると、ドアがスッと開いた。
女が後部座席に腰を下ろして行き先を告げると、ドアが独りでに閉まりタクシーは走り出す。その後、車中にこだまするのは、窓を打つ雨音だけであった。
「お客さん」
気まずい空気が辺りを支配してからしばらく経った頃だろうか、正面を向いたまま運転手がポツリと呟いた。女は頬に濡れた髪を貼りつかせたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「あら、もう着きましたの?」
「いえ、生憎ですがもう少しかかります。その間の暇潰しに、怪談でもしようかと思いましてね」
「ずいぶんとサービスがよろしいじゃないの。いいわ、ちょうど退屈していたし。お話してよ」
「かしこまりました」
運転手は無感情に答えると、淡々とした口調で語り始めた。
「これは私の同僚が体験した話です。仮に名前をAとでもしておきましょうか。あれは確かそう、今日のように雨が降りしきる真夜中のこと。Aがタクシーを走らせていると、街頭の下に長い黒髪をぐっしょりと濡らした女が立っているのを見かけました。女は傘も差さずに呆然と立ち尽くしていて、雨に打たれて身体が冷え切っているのか、妙に青白い顔をしていたそうです。人気のない夜に女性が一人でいることを不審には思ったそうですが、Aは彼女を乗せてタクシーを走らせました。やがてタクシーが目的地に着き、Aが振り向くと、乗せていたはずの女の姿がない。そこに残っていたのは、後部座席に滴る水滴だけだったという話です。どうです、少しは気が紛れましたか」
運転手が一通り語り終えると、女は嘲るようにクスリと笑った。
「ふふ、残念だけど、典型的な作り話じゃないの。もう少し面白い話でもしてくれるのかと思っていたけれど」
「おや、時間を潰すには物足りないお話でしたか。それは失礼致しました。ですが、あなたを見ていると、どうしても話してみたくなってしまいましてね。あまりにも、話に出てくる女とあなたがそっくりだったものですから。境遇といい、身なりといい、偶然にも一致し過ぎている」
外では雷が鳴り響き、窓から差し込む光が女の顔を照らす。その表情は険しく、前方に注ぐ眼差しは氷のように鋭く冷たい。
「なら、今ここで振り返ってみてはいかがかしら。もしかすると、お望みの結末があなたをお待ちしているかもしれないわよ」
「冗談ですよ。バックミラーにはきっちりとあなたの姿が映し出されていますし、何より幽霊というものはこんなに口数が多いものではありません。普通の幽霊なら、ですけど」
「まるで、幽霊に会うことを待ち望んでいるかのようなお言葉ね。残念ながら、私は生きているわ。ちょっと事情があって、帰りが遅くなってしまっただけよ。こういう日に限って傘を忘れてしまって、そのせいでタクシーを拾うまで凍えるはめになったというわけ。おまけにでっち上げの怪談を聞かされて、幽霊呼ばわりまでされるなんてね。今日はろくなことがないわ」
「おや、お気を悪くなさいましたか。ご希望とあらば、お詫びの一つでもさせていただきますが」
「そこまでなさらなくても結構よ。でも、強いて言うのであれば、もう少し面白い話をお聞かせ願いたいわね。できれば、私がこれまでに聞いたことがなくて、なおかつ作り話ではないものを」
「そうですか。あなたもお好きですね。それでいて、ベターなものはお嫌いという。なら、こういうのはいかがですか。真夜中を走るタクシーで客ではなく、運転手が忽然と姿を消すというのは」
「あら、それはずいぶんと斬新ね。運転手が消えるだなんて。一体、どのタイミングで……あら」
女がまばたきをした一瞬の出来事であった。運転席から垣間見えていた後ろ姿がふっと消え失せ、タクシーはコントロールを失った。しかし、アクセルを踏む者はいないはずなのに、闇を駆け抜ける速さは段々と増していく。
するとその時、コンクリートで作られた分厚い壁が差し迫ってきて……。