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裏野ハイツ奇譚 【シチガツハツカ♯クモリ】

作者: 煇山 とぺもん

■7月20日 曇り

 私がここへ引っ越してきて約2ヵ月が経った。

 少し気味が悪いアパートだが、今時1LDKの間取りで家賃が5万円以下というのは、なかなかにありがたい。

 ここは裏野ハイツ。築30年の少々くたびれたアパート。

 私の方が若干年上ではあるが、それでも住宅としてはかなりの年寄り。

 まあ、それでも風呂もあるし、仕事部屋の洋室以外にリビングまである。

 この値段で、これ以上を望むのは贅沢と言うもの。

 それに近隣がやたらと静かなのが、小説家の私にとっては好都合。

 夜にもなれば、周辺は驚くほど静かだ。ここも、それなりの都心部ではあるのだけれど。


 ――なのだが。隣の"この音"だけはいただけない。

 耳を澄ますと常に何かの機械が動いているらしく、ゴウゴウと重低音が鳴り響いている。

 その音に混じってキィキィという奇妙な音も聞こえる。

 まるで錆びたブランコの鎖が軋むような音。

 そして……問題はこれ。

 ボチャン! ……と時折、聞こえる何かが水に飛び込む音。

 アパートの2階で、なぜ水音が……?

 しかも、水音は確実に洋室側から聞こえてくるのだ。

 隣も、この203号室と同じ間取りなはず。

 だとすれば風呂やトイレはリビング側にあり、洋室側で大きな水音がするのは不可解。

 なぜなのか……。隣の住人は何をしているのか?

 まあいい。こうした日常のミステリーは創作意欲を湧き立たせるというもの。

 これを機会に、ホラー作品でも書いてみようか。

 しかし……担当さんは今日も連絡してこないな。まあ、お盆前で編集者は忙しいのだろう。

 こういう時は早く寝るに限る……。



■7月20日 曇り

 今日はなかなか暑かった。

 ただ、先程、コンビニの帰りで出会った201号室の老婆の言葉が気になる。

 彼女はもう20年近くここに住んでいるらしいのだが、隣の202号室には、もう何十年も人は住んでいないという。

 老婆は気にするなと言っていたが……。

 はて……では、今鳴り響いているこの音は?

 相も変わらずゴウゴウと鳴り響く機械音。

 降り出した雨音に紛れて、確かに響いている。

 心なしかキィキィの音もいつもより、多めに聞こえているような。

 ふう。これはなかなかのミステリーだ。明日辺り、ちょっと調べてみようか?

 いやいや、いい大人が昼間からウロウロすると、(いぶか)しげな視線を浴びてしまう。

 だが、ちょっとだけ調べてみたい衝動に駆られる。

 ああ、それにしても、今日も担当さんは連絡をしてこなかったな。

 そんなに忙しいのだろうか? まったく、会社勤めは大変だな……。



■7月20日 曇り

 今日は1階の103号室の家族と出会った。

 奥さん、旦那さんと当たり障りのない会話をした後、静かに黙って(たたず)む坊やに挨拶をして別れる。

 最近は待機児童が問題になっているからな。

 昼間でもいるのはそういうことなんだろう。

 かわいそうに……。

 担当者からの連絡が来ない私も……かわいそうだ。

 しかし、夏だからか虫が多いみたいだな。

 会話の最中もセミの声や、カミキリ虫のような甲虫の鳴き声のようなものが聞こえた。

 ギチィ、ギチチィッっと。

 あの鳴き声は、あまり好きではない。

 何か黒板を引っ掻くような音と似ていて耳障りだ。


 そういえば……坊やが最後に言った言葉が耳に付く。

 「カットソー」そんな風に聞こえた。

 確かニット素材の服のことだったような?

 ファッションには疎いので、よくわからない。

 ちょっと恥ずかしいな。



■7月20日 曇り

 昼間に101号室のサラリーマンと少し立ち話をした。

 今日が初めての挨拶になってしまったが感じのいい紳士だ。

 一緒に住んでいるという奥さんのことなど、ついついつい長話をしてしまう。

 その時に私が202号室の怪現象についてを話すと、少し黙り込んでこんな話をしてくれた。

 なんでも102号室の住人も奇妙だと言うのだ。

 日中でもカーテンは閉まり、外出をしている様子もない。

 無職らしいがどうやって生計を立てているのだろうか?

 毎年、年末の2日だけは留守にするそうだが、これも奇妙だという。

 何が奇妙なのか?

 それは、その日を境に何度か見かけた姿とは、まったくの別人に変わっているそうなのだ。

 ううむ。この話は興味深い。

 202号室の下の部屋でもあるから、何か関係があるのかもしれない。


 しかし……今日も、担当者からの連絡は無い。

 さすがに今回は頭に来た。連絡が来たら、ガツンと言ってやらねば。



■7月20日 曇り

 ひどい土砂降りの中、夜のコンビニに行くと奇妙な噂話が聞こえる。

 雑誌コーナーに陣取った地元の若者の話では、裏野ハイツは有名な心霊スポットであるということらしい。

 とくに2階は無人なはずなのに、物音や人影が見えるとか。

 まあ、実際は二人ほど住んでいるのだが……。

 怪談のタネ明かしなんてこんなものだ。

 しかし、これはもしかすると、いいネタになるかもしれないな。

 帰り際に202号室の前を通り過ぎると、磨りガラスの窓から小さな影が横切るのが見えた。

 やはり何かいる……。

 部屋に戻ってちょっと対策を練ってみようか?

 そう思った途端に、頭痛がしてきた。

 これは風邪かな? まあいい、今日は養生しよう。


 ――担当からの連絡は、まだなし。

 隣の部屋では、またキィキィと耳障りな音が聞こえてくる。

 くそ……病気だっていうのに。なんなんだ……。



■7月20日 曇り

 久しぶりに茹だるような暑さ。

 涼を求めてコンビニに寄ると、対面にあるコインランドリーに101号室のサラリーマンの姿が見える。

 なんだ……あの人、リストラでもされていたのか。

 魂が抜けたように座り続ける姿は哀れで、同情を禁じ得ない。

 こんな日中にボーッとしている姿は居たたまれないな。

 強烈な日差しを避けるフリをして顔を隠し、気付かれないようにコンビニを後にする。

 クソ。担当からは何の連絡も無い。これでは次回作の打ち合わせができないではないか。



■シチ月20日 曇り

 今日、あるものをリビングで発見してしまった。元々から備え付けであった食器棚を少しずらすと、壁に直径1cm程の穴が開いていた。

 これは……覗けば隣の部屋が見えるかもしれない。

 202号室に何があるのか。私は恐る恐る穴を覗いてみる。

 ……?

 なんだろう? 何かがブラ下がっている。

 少しフラフラと揺れているようだ。キィキィという音は、この物体の揺れが原因なのだろう。

 しかし、なんなのだろうな? 汚い布のような質感のものにくるまれている。

 それ以外は残念ながらよく見えない。

 かなりの大きさなようだが……全体が見えないので正確には判断できないな。

 耳を澄ますして音を聞いてみるが、例の機械音と朝から絶え間なく降り続く雨のせいで、他には何も聞こえない。

 だが、ひとつ気付いたことがある。

 この穴から、かなりの冷気が漏れてきている。何故なのか……。

 穴から目を離して一息つくと、ボシャン! という水音。

 ……いる。確実に誰かいる。

 私は恐ろしくなって食器棚を戻し、灯りを消して寝床に潜る。

 きょ、今日は担当のことを考えているような余裕はないな。

 忘れるように寝てしまおう。



■7シ月日20日 曇り

 夜、コンビニからの帰りに、また201号室の老婆に出会う。

 何やら私のことを心配しているようだ。

 そして気になる一言を喋って部屋に戻って行った。

 その言葉とは……「隣は覗くな」。

 やはり、何かあるのか。

 しかし……なぜ老婆は私が隣を覗いたことを知っているのだ?

 そのことに気付いて、ぞっとするような悪寒に包まれる。

 何なのだ……。この裏野ハイツは一体?

 担当……いや。もういい。



■7月ハツカ日か 曇り

 101号室から出てきたサラリーマンを見て愕然とする。

 年の頃は同じ50代くらいだが、まったくの別人。

 引っ越してきたのかと尋ねると、もう10年近く住んでいるという。

 しかし、私のことを尋ねてみても思い出せないようで、何故かイライラし始めた。

 そしてしつこく追求をすると、怒りながら不思議なことを口走り101号室に戻ってしまった。

 なぜ? サラリーマンの言った去り際の言葉が気になる。


 「そんなの設定にない!」


 確かにそう言った……。


 口論の後、真夏の強い日差しが降り注ぐ中で立ち尽くしていると、後ろから呼ぶ声が聞こえた。

 102号室の住人。

 チェーンロックを掛けたまま、ドア越しにこちらを呼んでいた。

 ぶくぶくと肥え太り、油ぎった手で手招きをしている。

 近寄って話しを聞いてみると、ブツブツと早口で話し始める。

 話している内容は、ここは異常な世界だとか化け物がいるとか……。

 そんなわけのわからない事を捲し立てて、口から泡を飛ばしている。

 そして、最後に語気を強めて一言。

 「ガキに気を付けろ」。

 そう言って強く扉を閉めて鍵を掛け、部屋に戻ってしまった。


 やはり、ここで何かが起きている。

 私は妙な確信を持ち始めていた。

 これは、どうしたらいいのだろうか。どうしたら……。

 その事を考えると、また頭がじくじくと痛み出す。

 まるで、考えるなと訴えているかのような激痛。

 仕方ない……その日は部屋を出ることもなく床に就くことにした。



■シシシ月20ツカ日 曇り

 眠れない。

 まるでおかしな世界に囚われて、同じ場所をぐるぐると廻っているかのような気分。

 102号室にいた男の病気が伝染(うつ)ってしまったのだろうか。


 気分を変えるため、夜中に上着を着てコンビニへ出かける。

 すると、オドオドしていたためか店の前で警官に職務質問をされてしまう。

 ――しかし、それは驚くべき内容だった。

 警官は、私を……知っているような話しぶり。

 彼は私を先輩と呼び、なぜ失踪したのかと尋ねてきた。

 いや? 私は生まれてこのかた警官などにはなったことは……ない。

 すると、その後輩と名乗る警官は、今何をしているのかと尋ねてきた。

 小説家……。

 そう言うと彼は吹き出し、私の腕を掴んで袖を(まく)し上げる。

 現れたのは鍛え上げられた太い腕。後輩だと言っていた警官よりも太い。

 これは? 一体……。

 呆然としていると、今度は住んでいる場所を尋ねてきた。

 裏野ハイツ。203号室。

 そう言うと、彼は真っ青な顔になる。

 そんなはずはないと何度も叫びながら、私の肩を掴んで取り乱している。

 それを見た私は恐ろしくなって走り出す。

 部屋に入り、鍵を掛けて書斎にあるベッドに潜り込む。

 もう誰とも話したくない。

 こんなの設定に無いじゃないか。

 私はガタガタと震えながら、布団の中で朝を迎えた。



■チチガガ20ツ日 くモり

 もう、何日も寝ていない。

 今日はずっと雨。

 そのせいか、隣が騒がしい。

 ここ最近で気付いたことがある。

 なぜか雨が降る日は隣が騒がしい。

 キィキィの音も、ボシャンという水音も。

 よく耳を澄ますと、ビタビタと水がこぼれる音も聞こえる。

 私は意を決して、またあの食器棚の裏にある穴を覗いてみる。

 揺れるズタ袋。それ以外は何も見えない。

 窓から通りの電灯の光が少し入っているので、辛うじてそれが見えるのみ。

 いや……ズタ袋の前に何かが見えてくる。

 これは? 人の顔? 201号室の老婆!?

 彼女は半透明な姿でこちらを覗き、首を左右に振っている。

 ば、ばかな! こんなもの嘘だ。夢に違いない。

 だめだ。寝てはダメだ。

 私は布団を被り、膝を抱えて夜明けをジッと待った。

 また、ボシャンという水音。今日だけでもう3度目。

 もう、何も聞きたくない。

 何も……。



■77777月ハハ0 クモも

 数日前の男の言葉を思い出す。

 102号室のあの男。

 ガキ……子供か。

 ここに子供は103号室にしかいない。

 あそこに何か……秘密があるはず。

 ただの夫婦にしか見えなかったが。……この謎を解かなければ。

 なぜだ? なんでそんなことに使命を感じているのか。

 いや、もう、そんなことはどうでもいい。

 この異常な閉じた空間に耐えられない。


 私は気付いてしまったのだ。

 私は裏野ハイツとコンビニ、コインランドリー以外に移動することができない。

 他の場所に行こうとすると、頭の中が軋み出して歩みが止まってしまう。

 ただ一言、頭の中には「設定にない」と浮かぶだけ。

 こんな異常なことはない。

 それに……私は誰なのだ?

 私は自分の名前はおろか、ここの住人の名前ですら知らない。

 ハイツの玄関には、どの家にも表札が無いのだ。

 もうひとつ……担当? 誰のことだ?

 出版社の連絡先ですら知らないのに?

 そもそも私が書いている小説など、一作品も記憶に無い。

 警官に指摘されたこの腕。こんな腕で小説家だとでもいうのか?

 この日記はなぜ書いている? いや本当に書いているのか?

 もしかして、この日記ですら……私の……。

 何かが……確実に……狂っている。

 妄想と現実が入り交じり始めたのか……。


 私は意を決して103号室を訪れる。

 何度かチャイムを鳴らすが誰も出てこない。

 ドアノブを回してみると……開いた。

 もう、迷ってはいられない。

 私は周囲を見回しながら、そっと中に入り込んで行く。

 中に入った途端に鼻を突く異臭。なんだこれは……。

 まるで肉食獣の住処で獲物が腐ったかのような(すえ)えた匂い。

 リビングの中には無造作に積み上がった生活用品。

 なぜか女性物の下着や男物のスーツまで、一緒くたに積み上げられている。

 生活空間はここにしかないような……そんな感じすらする。

 リビングを抜けて隣の部屋へ。ここは洋間か。

 昼間だというのにカーテンが閉め切られ、中にはガラクタのような荷物が山積みになっている。

 ゴミ溜めのようになっている机の上に、免許証のような物を見つける。

 これは101号室のサラリーマン? 写真には新しい方の男が映っている。

 免許証のようなものは、弁護士の証明書。

 佐山さん……というのか。

 弁護士が、なぜこんな安アパートでサラリーマンのフリをしているのか。

 そして、前のサラリーマンは何処に行ってしまったのか?

 机の上に電源が入りっぱなしの古いPCがある。

 ……相当、昔の物なようだ。

 ずっと電源が入っていたらしく、液晶のモニターは寿命が切れる寸前。ほとんど灯りを発していない。

 その暗い画面をじっと覗いてみると……。


−−−−−−−−


●裏……ツ 住人設定


 101号室

 50代男性、会社員

 50代女性、専業主婦

 人当たりいい

 マジメで誠実

 同居人ありの設定

※同時にふたり入れないこと。必ず一人で


 102号室

 40代男性、無職

 偏執狂の異常者

 ……質向上のため定期的に肉……分け……与……

 ※1年物育成のフォ……ラ。年越しの……パ……ィ用


 103号室

 30代夫婦、サラリーマンとパート

 当たり障りのない性格

 カモ……ジュ用

 なるべく……ない


 201号室

 空室

 おば……の思……誰……れない


 202号室

 ジ……室


 203号室

 空室

 緊急用

 食って寝……だけ

 あま……外……出ない


※新しく贄に入った……は、この設定……

忘……に、書いておくので……たら、ここ……見て……出す

どどんどんん、忘れ……から、定……的に見る見見る見る見……


−−−−−−−−



 ……これは。

 住人の設定だと? 所々が擦れて読めないが、そう書いてある。

 何なのだ? 設定とは一体!?

 ふと画面の下を見るとフォルダがあるのに気付く。

 中にはテキストファイルが詰まっているようだ。

 フォルダ名は、ゆうたの成長日記……。

 読み進めてみると、いたって普通の我が子の成長日記。

 父親のゆうたくんに対する愛情が滲み出ている。

 ……しかし、ある日を境にそれは一変してしまう。



−−−−−−−−


 ■7月20日 曇り

 今日……ゆうたが車にはねられた。

 誕生日に買ってあげたサッカーボールを追いかけて……。

 あんなもの買ってあげなければ。いや、ダンプの運転手がもっと……。

 ……こんなことを書いていても仕方が無い。

 先程、一番聞きたくない報せが病院から入ってきた。

 ゆうたは……。



 ■7月20日 曇り

 病院からゆうたが帰ってきた。

 でも冷たくなったゆうたは動かない。

 妻と母さんは泣きじゃくり、私の言うことを聞いてくれない。

 私だって……認めたくない。

 だが、ゆうたは。もう……。

 まるで、あの日から時間が止まってしまったかのようだ。



 ■7月20日 曇り

 妻がおかしな事を言い出した。

 ゆうたは生きていると。

 もうすぐ葬式だというのに……。

 私がゆうたを確認すると、ぱちりと目を開いている。

 死後硬直だろうか?

 まぶたを閉じようと右手をゆうたの顔に向けると、いきなり凄い勢いで腕を掴まれる。

 誰が!?

 よく見るとゆうたの手が私を掴んでいる。

 大人顔負けの力で……。

 「お母さん、お腹減った」……そう言うと、ゆうたはむくりと起き上がった。

 奇跡だ……あの子が帰ってきた。

 何度も確認してみたが、ちゃんと生きている。

 あることを除いては……。

 しかし、今はそれでもいい。

 よかった……。妻と母は抱き合いながら喜びの涙を流している。

 私もゆうたを抱きしめながら、人目をはばからず泣いてしまった。



 ■7月20日 曇り

 なんでこんなことに……。

 ゆうたは食事を受け付けなくなってしまっていた。 

 何を食べてもおいしくないと、食べるのを止めてしまう。

 それに……なぜか、時折、ギチギチと奇妙な物音を立てるようになった。

 これは一体どうしたらいいのか。

 それでも……ゆうたを病院に連れて行くのは気が進まない。



 ■7月20日 曇り

 事件が起きてしまった。

 ゆうたは腹を空かし過ぎたのか、錯乱して私の人差し指を噛み千切ってしまった。

 そして私の指をコリコリと音を立てながら咀嚼し、口から血を滴らせながら呟いた。

 「おいしイ」と……。

 私は病院にも行けず、応急治療で痛みを耐え凌ぐ。

 やはり、この子を病院に見せるわけにはいかない。

 ……なぜなら、この子の心臓は未だに鼓動をしていないのだから。

 こんなことをどう説明しろというのか。

 どうして生きていられるのか。

 どうして私の指を食べてしまったのか。

 もう、どうしたら……。



 ■7月20日 曇り

 昔から霊感がある母が奇妙なことを言い出す。

 このアパートの淀んだ空気がゆうたを変えてしまっていると。

 確かに、この裏野ハイツには嫌な噂がいろいろ流れている。

 しかし、そんな怪談じみた話が本当にあるはずはない……。

 だが、今は藁にもすがる思い。

 元々、ゆうたが生まれて部屋が手狭になってしまったため、母には2階の別室に住んでもらっていた。

 いずれ再び同居することを考えていたところだ。

 先月出した現代に生きるハンターを題材にしたドキュメンタリー小説もそこそこ売れたことだし……。

 これは、いい機会なのかもしれない。

 ゆうたがせっかっく帰ってきてくれたのだから……。



 ■7月20日 曇り

 引っ越しを考えていると、再び事件が起きてしまう。

 ゆうたが妻の首に齧り付いたのだ。

 いや、厳密にはゆうたではないのかもしれない。

 あんな姿は私の子では……。

 妻から離れないゆうたを強引に引っぱると、ゆうたは妻の首ごと床を転げる。

 なんということ……。

 ゆうたはそれでも首から離れず、妻の首に齧り付いている。

 私は恐ろしくなり、台所から包丁を持ち出して威嚇する。

 しかし、母が私を止めに入り、なんとかするように私を説得し始めた。

 なんとかしろと言われても、これでは……。

 どうしたらいいと言うのか。

 本当に……わからない。

 ゆうたの"触覚"が闇夜の中で、ゆっくりと揺れ動いている。

 もはや、ゆうたは……。



 ■シちち月20 クり

 あ

 ゆた

 あんあの、ゆ¥うたじゃ、ナイ

 ナニかウめこまれれれ

 かっかかああか、かんかんがええ、、、られ

 ない

 設てい

 ないことデキ

 ないィ

 から


 妻もういナい

 キレいにナくなった

 いまハハハ食べてル

 ジキ、にわたスも

 あ、キた


−−−−−−−−



 なんだこの日記は……。

 ゆうたとは、あの少年のことなのか。

 彼の身に何が起きたと言うのだろうか?

 それに、この日記の父親も最後に設定と……。

 そうだ。101号室のサラリーマン……いや、弁護士の佐山さんは、私の問い掛けに「設定にない!」と叫んで、部屋に逃げ込んでしまった。

 そう言えば私も悩むと……その言葉が。

 設定……その言葉を思い浮かべると、頭の中がじくじくと痛み出す。

 激しい痛みに耐えかねて頭を掻きむしる。

 すると……右側の髪の毛が奇妙だ。これは……髪の毛ではない?

 触るとうねうねと動いているような……。

 奇妙な感覚に襲われていると、PCモニターの後ろ側に見慣れた物を発見する。

 なぜだ……これは。警官の制服?

 こんな物になぜ懐かしさを……。まさか!?

 ポケットをまさぐってみると、中には警察手帳。

 恐る恐るそれを開いてみると……予想通り。

 中には私の写真。

 三田村祐二。それが私の名前なのか。

 だめだ……まったく思い出せない。

 困惑する私は思わずよろけて、洋室の壁にもたれ掛かる。

 だが、ギギッっという音と共に壁が開き、隣の部屋へ倒れ込んでしまう。

 隣? この壁の隣は102号室では?

 急いで起き上がってみると、ここは3部屋目。

 やはり、ここは隣の102号室……。

 あの壁は隠し扉だったのか?

 先程の部屋よりも、さらに暗い部屋を見回す。

 くそ……腐敗臭がさっきよりも酷い。

 これは食卓? いや、餌台のようなものが洋室の中央にある。

 そこには爛れた奇妙な肉片が盛りつけられ、蠅が集っている。

 辺りを見回すと、この部屋には金属製の箱が無数に配置されてるようだ。

 これはフリーザーか? 壁際に業務用の冷蔵庫が大量にある。

 形は不揃いだが、どれも冷蔵庫か冷凍庫。

 なぜだ……開けてはいけない。そんな気がする。

 いや、正確には私の頭の中が掻きむしられるように痛み、開けるなと訴えているようだ。

 またも、頭を抱えて(うずくま)っていると、いきなり洋室の入口に人影が現れる。


 「だ、ダメダァ! そそそっ、そんな設定にないことダメだぁ!!」


 そう叫ぶと、男は肉切り包丁を振り上げ、勢いよく私に振り下ろす。

 咄嗟(とっさ)に私は包丁を握る腕を掴み、その腕を捻り上げ床へ押し倒して制圧する。


 「身柄確保ぉ!」


 ――なんだ。この動きは? それに掛け声も。

 私がやったのか……これを?

 やはり警官だったとでもいうのだろうか。

 警察手帳にあった名前、三田村祐二。それが自分の名前……。

 私は動揺しながら押さえつけた男の顔を見る。

 違う……。こいつは以前見た102号室の男ではない。

 こんな痩せた男ではなかったはず。

 数日でこれほど痩せるとは思えないし、顔つきも根本的に違っている。

 驚きながら男の顔を見ていると、突然、男の髪の毛が腕に絡み付く。

 髪の毛? 違う。もっと太い針金のような黒い線。それが右腕を締め上げている。

 そして先端が皮膚を突き破り、どんどん潜り込もうとしている!


 「や、やめろぉ!」


 私は叫びながらその黒い針金を勢いよく引き抜く。

 すると、その針金は102号室の男の頭からも抜け、床に落ちてうねうねと苦しみ始めた。

 私は踵で何度も押しつぶし、動かなくなるまでそれを続ける。

 数分後、黒い針金は完全に動きを止めた。

 私はそれを息を切らしながら、ただ見つめて立ち尽くす。

 そうだ……男は?

 後ろを振り返ると、男は痙攣をしながら気絶しているようだ。生きてはいるようだが……。

 私は男を抱え、隣のリビングにあるソファーに寝かす。

 ふと、そのリビングを見ると、奇妙なハシゴを発見する。

 天井に穴が無造作に開いており、木製のハシゴか掛けられている。

 ――繋がった。

 この上は202号室。

 やはり、以前住んでいた102号室にいた男の言葉は、何か関連があるのだ。

 それに103号室の住人もいなかった。

 この上に行けば、何かがわかるのかもしれない。

 私は頭に激しい鈍痛を感じながらも、そのハシゴを登って行く。


 ようやく辿り着いた202号室……そこは奇妙な部屋だった。

 洋間とリビングを隔てているはずの壁がはずされ、大きな(ひと)部屋になっている。

 天井にはリビングと洋間を繋ぐように数本の金属レールが設置され、自室のリビングにある穴から見えていた例のズタ袋が2つブラ下がっている。

 そして床にはなぜかブルーシートが敷き詰められていた。

 ――さ、寒い。真夏だというのにこの部屋の温度は冷蔵庫の中のような寒さ。

 壁際を見ると2台の無骨な空調機が見える。

 このゴウゴウという音は業務用の巨大エアコンの音だったのか。

 洋間の奥にも何かがある。

 私は近寄りながら、洋間の奥を確認する。

 箱……ああ、これは。バスタブ?

 洋風の置き型バスタブか。なんでこんなところに?

 近づくに連れて心臓が高鳴る。

 あの影……人か? 誰かが入っている!?

 台所の磨りガラスとカーテンのスキマから入る日差しで、辛うじて視界が確保できる程度の明るさなため、よく見えない。

 やがて風呂に浸かっている人物の顔が浮かび上がる。

 中に入っていたのは……103号室の奥さん。

 全裸のまま全身から血を流し、見開いた目が虚空を覗いている。

 これは……殺人事件? いや、それにしては奇妙すぎる。

 バスタブの中には氷が敷き詰められ、体を冷やしているようだ。

 死体を確認すると、首筋や両腕の肘の裏などに小さな穴があり、ここから血が流れ落ちている。

 死因は出血多量か……。

 しかし、死体を見てもなぜこんなに私は冷静なのか。

 やはり、警官だったのだろうか……。

 バスタブの底には血が溜まり、大量の氷が浮かんでいる。

 そうか。ボシャンという音は、この血のバスタブに死体が投げ込まれる音だったんだな。

 こんなことに何の意味が……。

 私は見開いた彼女の目をそっと閉じ、振り返って吊り下げられたズタ袋を見据える。

 あの血の量は一人分ではない。恐らく……あのズタ袋は。

 私はズタ袋に付いている紐を解き、ゆっくり袋を開く。

 袋を一気に剥がして出てきたのは……102号室の男。

 両腕を縛り上げられて吊り下げられ、先程の奥さんと同様に血を抜かれている。

 隣の袋も同じようにして確認してみると、出てきたのは案の定、103号室の旦那さんだった。

 ――死体を吊り下げて何をしようというのか。

 ふと、足下を見るとバケツがある。死体の血を集めているのか?

 いや、それだけでこんなことは……。一体、ここで何が起きているのか。

 そうだ。冷蔵庫! 102号室の冷蔵庫だ。


 私は再び階段を使い、102号室に戻る。

 そしてリビングを抜けて洋間の冷蔵庫の前へ。

 この中に何が入っているのか。それが答え。

 ゆうたの父親の日記が真実だとすれば……。

 私の頭をズキズキと激しい痛みが駆け巡り始める。

 これは……先程と同じ。

 私は意を決して髪の毛を鷲掴みにする。

 居た。

 激しくうねる黒い針金。私にも取り憑いていたのか。

 この痛みの原因がこれなら!

 私は勢いよく髪の毛ごと、その針金のようなうねる物を引き抜く。

 強烈な目眩に襲われて倒れそうになりながらも、地に落ちた黒い針金を踏みつぶす。

 ……やった。抜くことが出来た。

 私は……俺は。思い出せた。

 何もかもを。

 俺は冷蔵庫の扉に手を掛ける。

 予想が間違っていなければ、ここに入っているのは……。

 ゆっくりと扉を開いていく……。

 しかし、それと同時に視界がぼやける。

 ああ……やはり無理矢理抜いてはダメだったのか。

 あの男と同じ。気絶をしてしまう。

 開いた冷蔵庫にもたれ掛かりながら、最後に見た風景。

 几帳面に処理され切り開かれた無数の肉の塊。

 そして101号室の失踪したサラリーマンの首……。



■シチガツハツカ♯クモリ

 寒い。

 ここは酷く冷え込んでいる。

 何故だ? 俺はなんでこんな所にいる?

 目の前が真っ暗だ。

 体を動かそうとするが、思うように動かない。

 首と顔を辛うじて動かせるだけ。

 しばらくもぞもぞしていると、少しだけ目の前が開け、視界に何かが入ってくる。

 穴。

 見えるのは小さな穴だ。

 なんだろうか……。

 寒い。寒すぎる。誰か暖房を。毛布でもいい。

 寒さに震えていると、目の前に擦れた影が現れる。

 ああ……これは201号室の老婆。

 何かを訴えたそうに半透明な体でこちらを見つめている。

 手に何かを持っている。

 老婆は徐々に、その手に持つ紙切れをこちらに向ける。

 まるで懐かしさを共有したい、寂しい老人かのように。

 写真か?

 やけに古ぼけて色あせ、何十年も前の物のように見える。

 そこには子供と老人が映っている。

 にこやかな老婆と子供……。

 この子供? 103号室の子供そっくりじゃないか。

 なぜ……老婆の孫だとでも?

 ふと、先程読んだ父親の日記が頭を過ぎる。

 しかし、あのPCの朽ち果てた感じと、古ぼけた写真の様子では少年の年齢が合わないような。

 それにこの老婆は……たぶん生きてはいない。


 (あの子は……失ってしまった。人間であることを。でも、お婆ちゃんだけは……)


 言葉では無い、頭に直接響く声。

 その声を伝えると老婆の姿は霞のように消え、また元の壁だけが視界に入る。

 穴だ。

 そうだ……この穴には見覚えがある。

 俺の部屋……203号室のリビングにあった穴だ。

 だとすると、ここは203号室?

 いや、違う。反対側の202号室か。

 俺は……あのズタ袋の中に入れられて吊されているのか。

 体を動かそうとしてみるがピクリとも動かない。

 なんで……そうか。血を抜かれたんだ。

 体が冷え切っているのはそのせいなのか。

 あの氷の血風呂に沈められていたということなのだろう。

 こ、このままでは、俺もあの冷蔵庫に……。


 為す術も無く焦っていると、目の前に何者かが現れる。

 あの老婆か? ……違う。こいつは103号室の少年。

 ギギィと耳障りな鳴き声のようなものを上げている。

 こいつが全ての元凶……なのか?

 激しく鳴り響くギギギィという鳴き声。

 止めてくれ……耳が……。

 やがて少年の顔はビニールで出来た作り物の様に、左右に(めく)れ始める。

 中から表れたのは奇妙な粘液に塗れた黒く艶のある甲虫のような頭部。

 太い一対のアゴと細長い触覚を揺らし、巨大な複眼でこちらを冷たく見つめている。

 忙しなく頭部を動かし、何かを考えているようだ。

 なんなんだ……この化け物は。

 だめだ……。今にも途切れそうな意識と出血多量の寒さのせいで、まともに考えることができない。

 甲虫少年は触覚を撫でながら、何かを確認している。

 そして……片方の触覚を俺の耳に突き刺した。

 痛みはない。

 ただ……寒い。心底冷える。

 虫の少年はグリグリと触覚を動かし、何かを調節しているようだ。

 しばらくすると、体に電撃のようなものが走る感覚と共に、少年の声が伝わってくる。


 「オドろいタ。たまニいるンだよ。条虫(じょうちゅう)の支配を逃れるヤツが」


 なんだ……条虫? 何の事を言っている?

 甲虫少年は微かに差し込む街灯の光に照らされ、静かに佇んでいる。

 人というには歪すぎる頭部を艶やかに光らせながら。

 そして俺の頭の中に直接、語り続けている。


 「この触覚に見覚えがあるはズ。これはハリガネムシと同ジ。他の生物ヲ操るンだ。その生物になりきッテね。人間を操っている間、この条虫ハ自分を設定通りの人間だと思って行動シテいる。だから、自然な会話ができるンダよ」


 そう言えば……これは、さっき引き抜いたうねうね動く髪の毛か。

 昔、聞いたことがある。カマキリを操る寄生虫がいるということを。

 最終的には宿主を水辺に落として殺し、水中で産卵をするという生態を持っていると。

 ……まさか?


 「ソウそれ。でも、条虫は、ばかダカラ、すぐに設定を忘れちゃウ。102号室の男に憑いてた条虫はよく忘れテた。それニ……ここの住人ハ、お前の影響を受けスギた。設定通りニ動かなくナルし、面倒だかラ少し早いけど〆ちゃッたよ」


 シメただと……殺したということか。

 だ、だから、さっきの102号室の男は入れ替わっていたのか……。

 しかし、忘れるとは一体……。


 「条虫はお前ラが寝ると、設定ヲ思い出す為に103号室ニ、確認をシニくルンだ。お前ハ、ここ数日間寝なかった。だから条虫が頭から離れられズ、設定ヲほとんど忘れてしまったンダ。……けど、お前の行動ハ忘れたことだけが原因じゃナイみたイ」


 ワケがわからない……一体、どういうことだ?

 なんで……俺の思考に直接話しかけている?

 それにこれは俺の日記では?

 何なのだ……この状況は!


 「条虫ハ宿主の精神を殺し、単純なパターンの世界に閉じ込めル。生きるのに必要な食糧を確保するためコンビニにだけ通えるようにして。餌ヲ新鮮なマま保存スルには、生きたまま飼育すルのが一番だかラ」


 精神を殺すだと? 単純なパターンの生活……そうか。

 小説家という家を出なさそうな職業の設定で俺を203号室に閉じ込めていたとでもいうのか。

 しかし、おかしい……。何かが腑に落ちない。


 「お前、危険ダった。こそこそ調べてハイツの秘密ニ気付いた。だから緊急で条虫を植え付け、空室の203に入れたンだ。めったに出歩かないような設定デな。毎日、コンビニに行く以外ハ机の前に座っているルか寝ていたハず。それは設定シた条虫の単純な行動ルーチン。しかし、お前ハ、再び自分デ考えながラ行動を始メた。設定に無イ行動は条虫が嫌がるハズなのニ……」


 条虫に操られているだって!?

 そ、そんな馬鹿な。俺は一体、どうなっているんだ……。

 それになんの為にこんなことを?


 「餌。言っタはず。202号室はジビエの為の作業室。血を抜きながら氷で冷やス。血が抜け続けレば体温が冷え切った状態で死ヌんだ。人間のハンターと同ジだよ。彼らも撃った獲物ヲ、すぐに川や池に漬けて体温を冷やすノさ。こうすると味わい豊かデ、臭みがナイ肉になる。動物ハ、まず血から腐るかラね。さラに吊して最後まで血を抜き出す。これで肉の味は最上にナル。そして吊したまま熟成させてから冷蔵庫で保存すルんだ。血は別途で使い道があルから無駄にはしナいよ。安心してくレ」


 そうだったのか……食うために住人を入れ替えながら飼っていたというのか。

 ――そうだ。俺はそれに気付いて、ここを調査していて……。

 ここは……裏野ハイツは、人肉養殖場だったのか!

 確かに冷蔵庫にあった肉片は、どれも骨と筋を処理して整えられたものだった。

 くそ……では、俺まで殺して喰う気なのか!


 「それガ不思議。お前、モウ死んでル。考えるの出来なイはず」


 何を……言ってるんだ。俺はこうして会話をしているでは……。


 「たまにいる。精神死んでも魂で抵抗スルやつ。条虫は脳を食い荒らす。その次点で考えるコとはできない。ハイツの住人の行動ハ、条虫ガ人間ヲ演じて周囲から疑いの目を向けられるのを避けるたメ。生きた屍にして仮の生命を維持させていルだけなンだ」


 あの触覚が人間に寄生して、なおかつ人間だと思い込んだまま擬似的な生活をしているというのか。

 そうやって、ここを警官などのハイツ以外の人間に怪しまれないようにしていたのだな。

 しかし、今の俺のこの思考はどう説明するのだ?

 俺は自分の意思で行動していたはず。

 そして、今もそれは……。


 「でも、強い意志を持つ人間の中には魂が主導権を握ってしまうヤつガいる。お前ハそういう危険なたいプ。そして、そレは自分を人間だと思ってイる周囲の条虫達にモ悪影響を与えるんダよ」


 荒唐無稽。

 しかし、今の状況がそのことを真実であると証明している。

 この日記は、全て条虫によるもの?

 飼うために作られた仮初めの思考なのか?

 それとも、ヤツの言う俺の魂が作り出した……幻想か。

 ――なんでこんなことに。

 くそっ! 裏野ハイツの秘密を探ろうとしなければ!!

 いや、せめて202号室にさえ近寄らなければ……。

 そうか……あの老婆は俺の身を案じて生きながらえさせるために忠告をしていたのか。

 では写真の少年は……。

 やはり、こいつなのか?


 「お婆ちゃん……。優しカった。だから201号室だけは誰も入レずに残しテる。寂しくなるとアそこに行く。ダから……」


 そうだ。老婆だ。

 こんなことをしていたら老婆は……お婆ちゃんは悲しむ。

 止めるんだ。今すぐ!

 さあ、解放しろ! 俺を出してくれ!! 裏野ハイツから!! 早く!!


 「優しくて可愛がってくれた。お母さんを食べて、お父さんに怒られても庇ってくれた。お婆ちゃんは悲しませたクない」


 そうだ。お前は本当はいい子だ。だから出せ! ここら今すぐ!!


 「でモ……」


 迷うな!


 「だっテ」


 言い訳を考えるな!


 「お婆ちゃんハ」


 そうだ思い出せ!!


 「オイシかった」


 ――なん……だと?


 「お婆ちゃんうまイ。だから、101号室で飼育する人間は老人。熟成されタ、通のアじ」


 ば、ばかな……そ、そんな!


 「もういいデしょ。出て行クのはお前。その肉体はモウ死んじゃっタよ?」


 ふざけるな! 俺は死んでなんか……。


 「筋肉質は嫌イ。固いカら。もっと長く飼っテ太らせてから食べるツモりだったノに……」


 ああ……あの時の言葉は。

 「カタそう」……そう言ったのか。

 全ての事実を知らされたためか、張り詰めていた緊張が途切れ意識が遠のいていく。

 それを眺めながら少年は俺の前で、大きな顎を開き、歓喜の鳴き声を上げている。

 もう、あのギチギチィという音も聞こえなくなってきた。

 ――甲虫少年の後ろに老婆が立っている。

 微かに何かを喋って……。


 (……だから言ったのに。今度は熟成するまで逃げてはダメですよ)


 そうか。

 老婆は俺の身を案じていたのではない。

 少年の好み通りに俺を……。


 台風のような激しい雨音が響く。

 叩きつけられる様な雨が窓に当たり続け、その音が202号室の秘め事を隠している。


 ――今日は7月20日。曇り。

 ここは裏野ハイツ。築30年の少々くたびれたアパート。

 真夏なのに凍えるほど寒く、外は土砂降りで気が滅入る。

 おまけに吊された俺の体からも、血の雨がゆっくりと滴っていた。



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― 新着の感想 ―
[一言] 先生、達筆はさすがですが、ちょいと長いです!
[良い点] 日記が怖い。 謎が紐解かれ、全てが明らかになり、都合のいい解釈が全否定されること。 これぞホラー。 [気になる点] なろうで短編で載せるには長いと思います。 日記の区切りごとに連載にすれ…
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