寸説 《軍人と桜》
短編です。
寸説
《軍人と桜》
大和が成ってから暦で千と九百年
天皇を頂に冠する、この國は百年以上、他国と武で争っていた。
御國のため男子は武器を取り、蛮人を排し、女子は家を守り、子を産み育め。
そんな浮世だった。
少年は、その國に生まれ、育てられ、今は陸軍の訓練学校――その門前に立っていた。
「ここが今日からの学び舎か」
少年は十五を過ぎ、この訓練学校で三つの年を迎えることが出来れば立派な帝国軍人として迎えられる。いや、三つ数えずとも戦況が芳しくなければ学徒兵として戦に駆り出される可能性だってある。それが御國を守るためだ。
少年は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「よし!」
自らに喝を入れて門をくぐった。
木組みの校舎は少年の実家であるオンボロ小屋ではなく、語彙が少ない彼では表現が出来ないほど豪奢で歴史が滲み出る建物であった。
屋根は小洒落た煉瓦ではなく、鬼が睨みつけてくる黒瓦だ。
窓は硝子製にみえたが、木の板で修復されているところが何ヶ所か窺えた。
誰かがやんちゃしたのだろう。少年はそれも歴史の一つとして目を瞑った。
少年が一番乗りであったのか、自分と同期であろう生徒が一人もいなかった。
少年は不思議に思い、懐から親父からのお下がりである古びた懐中時計を取り出す。
「七時前。集合は七時のはずだから、そろそろ他の生徒が来てもいいと思うけど」
少年は周りを見る。
次に校舎を見る。
だが、誰の気配もない。
「あれは……」
少年は校舎の中でも一番高い建物――時計塔を見つけた。
そこまで駆ける。
駆けて時計塔を見上げると少年は目を見開き、懐中時計と時計塔を何度も見比べる。
そして――
「まだ、六時じゃないかぁぁぁッ!?」
腹の底から叫んだ。
叫び、肩を落とした少年は愚痴りながらも懐中時計の針を正しいものへと直していた。
「何か失敗したな。まあ、遅刻するよりはマシかもしれないけど」
少年は溜息を吐きながら、正門に向けて歩を進める。
「そこの君、何をやっているの?」
突然かけられた言葉に少年は肩を跳ね上げ、恐る恐る振り返る。
――そこで少年は出逢った。
声の主は背中に流れる黒い髪の少女であった。
彼女の服は少年のような学徒が着る制服ではなく、女性用に縫い直されたであろう立派な軍帽軍服を身に着けていた。
つり目がちだが大きく意思のある黒い瞳、小さいながらも整った鼻、桜色に染まる唇。
少年は自分の顔が熱くなるのを感じた。
言ってしまえば好みであったのだ、一目惚れなのだ。
「聴いているのかい?」
「はい。自分に何か御用でしょうか?」
少年は自分が緊張で噛まなかったことに自分自身を褒めてやりたかった。
黒軍服の少女は少年に近づくと、怪訝そうに頭からつま先まで睨んだ。
そして顔に戻ると小首を傾げる。
「君、うちの学生だよね。こんな早くから何しているんだい?」
男口調な感じがしたが、それでも凛として大人びていて、だが子供のような愛らしさが残っているように感じられた。
そんな彼女に少年は見惚れてしまっていた。
「聴いているの、かいッ!」
白手袋の指がしなやかに、そして強かに少年の額を打った。
「痛ッ、ひゃ、ひゃい。にゃんでしょう?」
「…………」
――噛んだ。ついに噛んでしまった。
少年は恥ずかしさに顔をさらに赤くした。
喩えるならば茹で蛸だ。
「……ぷッ、ふふふ」
少年が赤い顔を両手で覆うと、少女が口元を抑えながら笑った。
「ひゃい、って。にゃん、って」
「い、言わないでください!?」
少年が声をあげると、少女は抑えきれなくなったのか腹を抱えながら笑い出す。
泣きそうになる少年を見たからか少女は笑いを止めた。
「泣くな、帝国男児。君は立派な軍人になるんだろう?」
目端に涙を溜める少年の肩を少女は力強く叩く。それは女性にしては強く痛かったが、何故か心が安らいでいくように感じた。
少年が目を袖でこすり、泣いてないことを少女に示すと、彼女は笑い、背を向けた。
「笑ってしまった詫びだ。ついておいで」
少女に言われるがままに背中を追う。
校舎の奥へ、校舎を過ぎても奥へ、訓練のために使用されるであろう林道を通り奥へ、そして行き着いたのは煉瓦の壁に囲まれた場所であった。
少年は立ち止まってしまうが、少女は気にすることなく敷地内へと進んでいく。
少年が入口を見渡すと表札のようなものを発見する。
――『桜組』――
「桜組?」
初めて聞いた名であった。確か、組分けは漢数字であったように記憶している。桜というのは、どう考えても花の名だろう。
「なに呆けているんだ。早くおいで」
少年が居ないことに気付いたのだろう少女が彼へと手を振っていた。
「今、行きます」
敷地に入ると、すぐに平屋建て家屋の門扉が少年を迎えた。
少女が鍵を開け、横開きの戸に手を掛ける。戸は耳を塞ぎたくなるような甲高い音を立てて開いた。
一度、修理した方が良いのではないだろうか。
少女は黒ブーツを脱ぎ捨て玄関を上がると廊下をかけて行ってしまった。
少年は脱ぎ捨てられたブーツを揃えると自身の靴も横に揃えて並べた。
玄関を上がると、少女の居場所が掴めず、建物内を右往左往する。
それに疲れていると強く風が吹いた。そちらを見ると少年は目を見開いた。
そこは中庭だった。学校の校庭と比べると、猫の額と言っていいほど狭く小さい中庭。
だが、そこには圧倒的なものがあった。
「桜だ!!」
この御國に住んでいる者ならば一度は目にしたことがあるであろう帝国が誇る花。
少年だって何度も見たことがあった。
だが中庭の桜は大きく高く逞しく枝を伸ばし、薄桃色の花を咲かしていた。
その花びらは吹雪のように咲き乱れ、地面を染めていく。
「こんな桜、初めて見た」
「気に入ったかい?」
少年が目を輝かせていると、少女が廊下から姿を見せた。
彼女は盆を持っていて、急須と二人分の湯呑茶碗が載せられていた。
「まあ、座りなよ。満開の桜を肴に茶をつきやってくれ」
少女が縁側に腰を下ろし、軍帽を脱ぐ。
少年は盆を挟んで正座する。
それを見て少女は苦笑する。
「そんなに固くなるなよ。足崩しな」
正座慣れしていない少年にとっては有り難く、すぐに胡坐をかいた。
少女は急須を傾け、湯呑み茶碗に茶を注いでいく。
薄く茶色みがかっている茶だ。
名前は判らない。
「粗茶だが、どうぞ」
「どうも」
少年は両手で茶を取ると、火傷しないようにゆっくりと茶を啜った。
茶は語彙の少ない少年が感想を述べると、香ばしかった。
そこで少年は一息つく。
「旨いだろ?」
少年は素直に感想を述べると、少女は満足そうに笑った。
それは中庭の桜に負けないほど可憐で美しいと思った。
「軍服を着ているということは、軍人さんですよね。女性でしかも若い方なんて。驚きました」
少女は軍服の襟ボタンを外す。
一瞬、目を逸らした少年に向かって悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そうなんだよね。女性は家を守れ、っていうのが御國、そして御上の言葉だからね。それに男の軍服を作り直した奴だから胸が少しきついし」
少女は少年の反応を面白そうに笑う。
そして問う。
「君はなんでこの学校に入ろうと思ったんだい?」
少年は少女に向き直り、帝国男児ならば当たり前のことを答える。
「立派な帝国軍人となって戦場に赴き御國、そして御上のために命を捧げるためです!」
百点満点の受け答えだ。だが少女は悲しげに微笑む。
「戦いたくはないとは思わないのかい?」
少年は首を傾げる。
「なぜです? 戦果を称えられることこそ軍人の喜びではないのですか?」
純粋な瞳で見つめてくる少年に気圧されて少女は逃げるために茶を啜る。
そして少しの間をあけて語る。
「私も軍人だから何度も戦地に赴いたことがあるよ」
少年は武勇伝が聞けると思い、耳を傾ける。
「初陣は大陸での戦いだった。私は上官からの命令で古い小銃を携えて街を駆けていた」
「おい、女兵。遅れるな」
「すみません」
少女はある分隊の一兵卒兵士だった。
大和では女の兵士は例がなかったので名前ではなく『女兵』と呼ばれていた。
彼女の分隊は他の分隊とともに街の制圧を任務としていた。
やることは簡単だ。
邪魔するものを撃ち殺せばいい。
少女は何の疑いもなく戦っていた。
それが大和に誇れると信じていたから。
撃っては弾を込め、銃剣の刃で貫けば蹴り倒していく。
大和の軍人は精強で次々と敵を殺し、木造の建物を燃やして街を蹂躙していく。
敵も応戦してくるが塵に同じ。
「あれ?」
戦いに集中していて、自らが分隊の仲間と離れてしまったことに遅れて気づいた。
「この煙じゃあ皆を探すのは難しいかな」
方角さえ見失ったので銃声が響く方へと進む。
そこなら味方が戦っているはずだ。
動かぬ骸を気にせずに踏みつけ、まだ息がある敵兵を刃で貫く。
少女の心は自らの行い、周りの光景を見ても揺るがなかった。
だが――
「――!?」
建物が燃え盛る中、道端で倒れる女とそれに縋りつく彼女より遥かに幼い少女がいた。
おそらく母娘だろう。
逃げているときに流れ弾が当たり母が死んでしまい、娘がそれを理解できずに動かぬ母を起こそうとしているのだろう。
――かわいそうに。
助けてあげたいが敵国の人間であり、今は任務中だ。
民間人なので誰も殺しはしないだろう。
少女は悲しげに目を伏せて横を通り過ぎようとする。
「! ---」
娘が少女の軍服を引っ張った。
それだけで少女は動けなくなってしまう。
彼女より小さく、簡単に壊れてしまいそうな女の子になぜか心の臓を鷲掴みにされた気分だ。
「----!」
娘が必死に何かを伝えようと少女に叫ぶ。
だが異国の言葉は少女には理解できずに恐怖を煽るだけであった。
――この子は私のことを恨んでいるのかもしれない。
それに邪魔するなら殺さないと、私が殺されるかもしれない。
恐る恐る少女は振り返り、娘の額に銃口を向けた。だが幼い娘には自らに向けられているものが分からず、ただただ叫び続ける。
引き金に指をかけて狙いを定めようと顔を上げたとき、少女は気づいた。
――君は、助けを求めていたのか
そのとき、少女の手が震えだす。
殺される恐怖ではなく、殺す恐怖で。
初めての感覚に少女はそれが何故なのか解らなかった。
何十人も敵兵を撃ち殺したときは、こんなことはなかったのだ。
少女は銃口を逸らし、娘に手を差し出した。
助けるわけではない。
ただ彼女に安心してほしかったのだ。
差し出された手を見ると、娘は微笑み、手を伸ばす。
ダァーン
銃声が近くで響き、少女は血と脳漿で染められた。
「大丈夫か?」
呆然と娘の骸を見下ろす少女に彼女の分隊長が駆け寄ってきた。
「ふう、敵に捕まっているから焦ったぞ。次は注意しろ」
分隊長は励ますように少女の肩を叩き、前進する。
「敵……この幼い子がですか?」
分隊長は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
「当たり前だ」
「民間人の殺傷は禁止のはずです」
少女の睨みの訴えに分隊長は煩わしげに答える。
「蛮人は我らとは違う生き物だ。断じて守るべき民ではない。それに奴らは殺しても殺しても増えてくる。まるでゴキブリだ。そいつも殺しておかないと新たな害虫を増やすだけだからな」
少女はその回答に瞳を濁し、うつむく。
それに気づかずに分隊長は再び歩みだす。
「この辺りは駆除しつくした。他の分隊は先を駆けている。急ぐぞ」
「……了解」
少女は信じていた”ゴキブリ”を駆除した。
作戦は成功。
負傷者も少なく、犠牲となったのは”分隊指揮官”一名だけであった。
「戦争は間違っているとは断言しないよ。だけどね私は嫌いだ。無くなればいいと思っている」
右手を桜の大木に向ける。
「あれ以来、手は震えなくなった。感覚は忘れられないけどね」
少女は手を握り、茶を啜る。
「私を軍法会議にかけるかい?」
「いえ、他言しません」
少女の心は御國に背いていると言っていいものだ。
戦いたくない、人を殺すのはおかしい。
これが帝国軍の耳に入れば少女の首が刎ねられるだろう。
だが少年は少しだけ共感してしまった。
少女の言葉が帝国の全てではない。
だから軍人を目指すことはやめない。
ただ、そういう現実があることを心に刻んだ。
「自分は軍人になります」
「そうか」
少年の心が変わらないことに嘆息して再び茶を啜る。
二人は黙ったまま地面を覆う桜の絨毯を見つめた。
「今思ったんですが、ここの桜は早咲きなのですか? 家の近くや大通りのは五分咲きになったばかりだというのに」
澱んだ空気を換えるために満開の桜を見上げながら少年は疑問を口にした。それに茶を啜っていた少女も桜を見上げて答える。
「ここの桜はいつも変わらずに満開だよ。春夏秋冬、風雷雨雪を問わずにね」
「はぁ?」
少女の言葉に少年は首を傾げる。
「はぁ? とは何だ、はぁ? とは。」
少年の反応に不機嫌そうに返す少女。
それでも少年は訝しがり、少女を見る。
「だって桜ですよ。どんなに素晴らしくても桜は春の始まりに咲き、終わりには散るものでしょう?」
「仕方ないじゃないか。そういう桜が目の前にあるんだから少しぐらい信じたまえ」
プンスカと怒り出す少女。
それさえも可愛く思えてしまうのは惚れたせいなのか。
これが初恋である少年には判らなかった。
「でも話が本当だとしたら、この桜は永遠に咲き続けるのでしょうか?」
少年がそう問いかけると、少女の怒りで膨らんでいた頬は萎み、悲しげに目を伏せてしまう。
「それは無理だね。この世に永遠なんて夢物語に出てくるような言葉は通用しない。どんなに長く有ろうとも、長いだけで永遠には至れない。たとえ、この桜のように狂っている物でもね」
少女は言葉を終えると、庭に降り立ち、桜の下で少年に振り向く。
「まあ、安心しなよ。君が卒業するまでは枯れることはないさ」
そう答えた少女は笑い、花吹雪の中を舞い踊った。
それは踊りに興味など無かった少年の心さえも惹きつけた。
舞踊などでも習っていたのだろうか。
あでやかな振袖を着れば尚のこといいだろう。
少女の踊りを眺めていると、踊りが終幕を迎えた。
「ふふふ。久しぶりに人前で踊ったよ」
「とても、綺麗でした」
少年が素直に感想を口に出すと、照れたのか、赤くなった頬を隠すように少年に背を向けた。
少年も少女の様子に自らの発言に気付き、頬を掻く。
それからどれくらいたっただろうか――いや、数分ぐらいの事ではあると思うが、いきなり少女が少年に振り返った。
「そういえば、さっき君は何をしていたんだい?」
「さっき、って――」
早く来過ぎたから、少年は今朝のことを語ろうとして気づいた。
――今って、何時だ――
少年は懐から懐中時計を取り出し、目を見開く。
時計の針は七時の十分前、先程直したから正確な時刻だ。
すっかり時間というものを頭の中から消していた。
まずい、とてもまずい。
「すいません。ここから校舎まで何分で着きますか?」
少女は小首を傾げ、軍服のポッケから懐中時計を取り出す。
少年のボロと違い、輝く金色だ。
「歩いて、十五分ぐらいだけど。学生は八時半から授業じゃないのかい? 何か急ぎの用事が?」
その言葉を聞き終える間に冷めてしまった茶を飲み干す。
「自分、新入生なので七時なんです。お茶、ありがとうございました! またいつか!」
少年は廊下をかけ、靴のかかとを踏みながら玄関を出て去って行った。
少女は呆然としていたが、少年の様子に口を抑えて笑った。
「そうか、彼は新入生だったか。悪いことしちゃったかな」
少女は舞い散る桜の花びらを一つつまむと息を吹きかけ飛ばした。
「またいつか、か」
まずは結果を言おう。
ギリギリ間に合った。
汗だくで息を切らしていたので周りの同期や教職の人々には訝しげな視線を送られたが、少年の走る姿を見ていた軍の人々からは、立派な帝国男児、と褒められた。
校庭に集められた生徒に向かって校長や将校の方々が二千人を超える生徒たちに向かって素晴らしい言葉を話しているのだろう。
最後に校庭に来た少年は一番後ろの列だったので彼らが何を言っているのか聞こえなかったのだが。
その後の組分け。
二千人もいるので一人ずつ組を発表するのではなく、校庭に着いた順から番号で組分けをするらしい。
校庭に来た時に番号札を貰った。最後の番号だろう。
二千人いる生徒を三十組に分ける。
そして二十九組目まで終わり、いよいよ、三十組目。
少年は前の生徒たちとともに呼ばれた場所に歩を進める。
しかし、少年は肩を掴まれ、振り向かせられる。
「帝国男児、君にはギリギリに来た罰として特別な組に入ってもらうよ」
少年を引き留めたのは屈強そうな大男の軍人で、少年は反抗することが出来ず、ただ頷き従うしかなかった。
そして連れてこられたのは――
「やあ、少年。また会ったね。ようこそ桜組へ。君の入学を歓迎しよう」
「へ?」
少年が惚れてしまった少女が受け持つ特別な場所。
それが『桜組』であった。
「私が今日から君の先生であり、保護者だ。いや~生徒を持つのは三年ぶりだ。存分に甘えてくれて構わないぞ。より訓練が厳しくなるだけだがな」
朝の花のような笑みではなく、男子のように笑う少女――いや、『桜組』の先生は呆けている少年を指差して、宣言する。
「今日から三年間、私と君の一対一の訓練を行う。弱音は吐くなよ? 勉学も教えよう。三年後、ここを卒業出来たら君は他の卒業生の誰よりも御國を救う立派な帝国軍人になれるだろう。あと、君は最後まで私の話を信じなかったから三年間の庭掃除な」
先生の言葉に少年は叫んだ。
「嘘だろおおぉぉ!?」
少年の慟哭に口を抑えながら笑う少女の先生。
二人はこうして運命に巡り合った。
というのは、すでに三年近く前の話。
今は少年が少女の先生の教えのおかげで、訓練学校を首席で卒業した日。
少年と少女の先生は二人だけで中庭の桜を見上げていた。
少年は入学当時のような泣き虫には見えず、整った顔立ちの逞しい青年に成長していた。
だがーー
「あなたは変わりませんね、先生」
青年は先生と仰いだ少女を見る。
容姿は入学当時と何も変わらない姿で青年の隣にいた。
少女は肩をすくめる。
「今更、成長も老いもしないよ。髪や爪すら伸びない。これ、この桜の下で言うの三十回目」
戦争が始まった百年前、少女が十八の時に彼女は老いなくなった。
その神の御業のような体質を買われ、軍人に引き入られたらしい。
その後、十年間は軍人として訓練を積み、戦場に赴き続けた。
そして彼女の意向により、一対一で三年間教える『桜組』が誕生した。
この組は勇敢な軍人たちを輩出し、軍内部では一目置かれていた。
だが、三年に一度なので効率が悪いらしいが。
それでも、その三年に一度に巡り合えたことに少年だった青年は嬉しさに泣いたことを覚えている。
「中庭の掃除、大変だったな」
「それを聴くのも三十回目」
結局、桜から花が消えることはなく、三日に一回は掃除をしないと庭に花びらの山が出来るほどだった。
「新しい子が来てくれないと、また自分で掃除しなくちゃなあ」
少女は小さな山を作った花びらを蹴り上げ、悲しげにつぶやく。
「それを言うのも三十回目ですか?」
「ふふふ。そうかもね」
少年だった青年と先生であった少女は互いに笑った。
「少年」
「何です先生?」
育った青年を未だに少年と呼ぶ少女。
青年は微笑みながら訊きかえす。
「君が御國を支える立派な帝国軍人になったら、この桜の樹の下で酒を酌み交わそう」
「先生は酒飲んで良いんですか?」
笑いながら皮肉ってくる教え子に少女は頬を膨らませる。
「老いなくても私は百年以上生きているんだぞ。お酒ぐらい飲むよ。君の模範となる為に三年間我慢してたんだぞ!」
「ご苦労様でした」
青年は笑う。
怒っていた少女もつられて笑った。
二人は三年間、寝食を共にし、お互いの事をよく知り得てきた。
だけど、お互いに知り得てないことがあった。
「結局、先生の名前を知らないんですよね」
「私も君の名前を知らない。初日に名簿を失くしたからな」
男子のように笑う少女に青年は苦笑するしかなかった。
笑っていた少女が顔を引き締める。
青年もそれに倣った。
桜が舞い散る中、少女が問いかける。
「最後に私に言いたいことはないか?」
少女の言葉に青年は逡巡する。
言いたいことを探しているわけではない。
言いたいことは決まっている。
三年前、一目惚れをした。
そして親身になって育ててもらううちに少女への気持ちは確かで強いものになっていた。
それを今、伝えるべきなのかを迷っていたのだ。
悩んでいると少女が探るように顔を近づけてくる。
「なんだ。三年間も育ててくれた先生に感謝の言葉もなしか?」
お互いの息のかかる位置まで来て、青年は頬を赤らめる。
その反応に少女は微笑む。
青年となりながらも三年前から変わらない少年に。
三年間が走馬灯のように少女の頭を流れる。
「この桜は老いることはない。だが、永遠はないといっただろ。こいつもいつかは枯れる。そして、私も――」
少女は自らの頭を青年の胸に預け、腕を背に回す。
「だから、私に最後の言葉をくれないかい。生きたいと思える、言葉を」
老いることがない少女も死には抗えない。
だから共に百年過ごした中庭の桜が枯れたとき、少女は自らも世を去ろうと思っていた。
だけど、青年を育ててしまった。
だから、彼の将来を見守りたい、そう思ってしまった。
青年は呼吸を整え、少女に向き直る。
「先生、おれは――」
青年の言いかけている言葉に少女は悲しげに微笑む。
「必ず、桜を見に帰ってくる。うまい酒と肴を用意してくれ」
「…………」
青年の言葉を聴いて少女は数秒の間、固まっていたが涙を流し、笑った。
「ああ、約束しよう。自慢の一品を用意してやる」
青年と少女は互いに身を離すと、青年が敬礼をし、少女が敬礼を返して青年を見送った。
「あいつの泣き虫は卒業しても治らなかったな」
少女は壁をよじ登り、泣きながら走り去った青年を最後まで目に焼き付くように見続けた。
少女は青年が泣いている理由が分かっていた。
青年からの恋慕に少女は気づいていたのだ。
だから、最後に訊いたのだ。
だが、青年は少女に思いを伝えることはなく去ってしまった。
それには少女自身も驚いた。
それでも、それが青年らしいと思った。
壁を飛び下り、桜の根元に屈み、手を合わせる。
「あいつは最後まで奥手で何も言わずに行っちゃったよ。今日はそんな後輩を肴にでもしてくれ」
少女は縁側に置いてあった酒瓶を開けると、桜の根元に撒き、再び手を合わせる。
少女に恋し、卒業の日に恋慕を告げて再会を約束した二十九人。
戦場で数多くの武勲をあげて帰ってきた二十九人は全員、白い骨だった。
それを少女は桜の木の下に埋めて、毎日祈りをささげている。
彼らに冥福を、そして旅だった青年に生きて会えることを。
三十六歳という若さで将官に上り詰めた男がいた。
彼は数々の作戦を成功させ、帝国の生きる英雄とまで呼ばれていた。
そんな彼は訓練学校の演説を頼まれた。
彼は快く、承諾した。
そして新入生の面々を段上から見下ろし、彼は笑いながら、そして力強く語った。
演説は拍手喝さいが湧き、生徒たちのあこがれの的となった。
軍の上層部と教職員達が彼を褒め称えるために会食を開いた。
だが、彼はどこかに消えており、主役不在で会食は執り行われたのだった。
黒軍服を着こなした将官が校舎を後にし、訓練に使われるであろう林道を通り、ある場所に向かっていた。
そこは――
「ボロくなったな。一度改築した方が良いよな」
――『桜組』――
相変わらずに煉瓦の壁に囲まれ、古い平屋建ての家屋がある。
その奥には大きな桜の樹があったはずだ。
将官は鍵を持っていないので、直接中庭に向かった。
中庭に着くと、そこで将官は目を見開いた。
「桜が咲いてない!?」
学生時代、一度も満開の花を途切らせたことのない桜の木は眠っているかのようで、満開の花を散らせることはなかった。
桜は枯れてしまったのだ。
将官は膝を着き、肩を落とした。
十八年来の約束を果たすことが出来なくなってしまった。
きっと思い続けた彼女も――
将官は悔しげに涙を流す。
「そこの君、何やっているの?」
突然かけられた言葉に将官は肩を跳ね上げ、恐る恐る振り返る。
――そこで将官は再会した。
声の主は背中に流れる黒い髪の少女であった。
彼女の服は少年のような学徒が着る制服ではなく、女性用に縫い直されたであろう立派な軍帽軍服を身に着けていた。
つり目がちだが大きく意思のある黒い瞳、小さいながらも整った鼻、桜色に染まる唇。
「聴いているのかい?」
「はい。自分に何か御用でしょうか?」
少女は男子のように笑うと、酒瓶を掲げた。
「約束を果たそう。勝手に枯れやがった桜と泣き虫の教え子を肴にしてな」
「はい、先生!」
《軍人と桜》 閉幕