02-2
「悠真。この子を連れて逃げてちょうだい」
「えっ!」
「そうね……」と呟いて、ミルドレッドの指先がナビをいじり始める。
「よく見て悠真、ここ。神社があるの。以前、調査に来た時に立ち寄って、ご挨拶をさせていただいた事があるけれど、この神社まで逃げ切ればきっと何とかなるわ」
状況が全く分からないが、とにかく言われた通り、その場所を自分の意識に叩き込む。
「場所、分かった?」
「だいたいの方角、なら」
「じゃあお願いね。この車はここで捨てるしかないから、合図で飛び出し、そっちの方向へと走るのよ」
「だけど、あなたはっ?」
「私は……仕方ないわ。足止め出来るのは今ここに、私しか居ないでしょ」
見捨てて逃げろ、と言うのか。そんな事、出来るはずがない。
「私の荷物になりたくなかったら、協力してちょうだい。足手まといは迷惑よ」
確かにそうだ。本気で殴り合いのケンカすらした事のない自分は、邪魔な荷物。それにヴィヴィアンをひとりにするわけにもいかないし。
「ふたりとも、シートベルトを外して用意しなさい」
言われた通りに悠真はベルトを外した。
けれど、ヴィヴィアンは身動き出来ないようであった。フリーズしてしまっている。
悠真はヴィヴィアンのベルトも解除した。
その身体を引き寄せ、抱えて走るための、気持ちの準備をする。
深呼吸して、精神統一。
「前後の車道が壊されてしまってるから、ガードレールを超えて樹木の中を進むのよ。下り道でよかったわね」
神社のありそうな方向へ駆け下りろ、と言う事か。
「分かりました……神社で待ってます」
「え?」
「でも朝まで戻って来なかったら、探しに来ます」
「止めてちょうだい。朝まで同じ場所で争うなんて思ってるの?」
「あ、僕、ケンカした事なくて――ヘンな事言ってしまいましたか? ごめんなさい」
「別に謝らなくていいから……先に出るわよ、合図聞き逃さないでね」
「はい」
ミルドレッドは車外に出て、素早く動いた。
樹から樹へ跳び、身体がふわりと半円を描いて、相手の背後へ回り込む。
具体的に何をやっているのかは分からないが、やはり人間の動きとは全然違う。
「さ、おいでヴィヴィアン。逃げる準備をするよ」
悠真はヴィヴィアンを、左足の上に乗せた。
――うわ? 軽いっ!
見た目は確かに細くて華奢だけれど、これは……やはり、人間とは違い過ぎる。
――これはこれで助かるからいいけど。
左腕でヴィヴィアンの胴体を抱き、右手はドアのインナーハンドルへ掛ける。
そして、息を飲み込んだ。
耳に意識を集中する。
三人の声が聞こえて、激しく争う気配が聞こえる。
でも、彼らの会話に意識を集中してはいけない。彼女の合図だけを待とう。
不快な脈と、集中力とが自分の中で争っている。
緊張を保ったまま集中を乱さないと言うのは、難しい。
油断をしたら余計な事を考えそうになるし、会話の内容を知りたくなる。
でも、それはダメなのだ。
とくん、とくん。と、身体の中で時が流れる。
そして、外からの合図を待つ。
肩に、背中に、全身に、緊張が続く。
あまり長く待たされると、身体が動かなくなるような気がした。でもストレッチをしている余裕は無い。
ヴィヴィアンを抱えて薮の中を転げ落ちるわけにはいかない。
そうでなくてもこの子は今日、痛い目に遭っている。
――僕がしっかりしなくちゃ。
頭の端で、意識がぽつりとそう呟いた時。
「悠真っ」とミルドレッドの声が聞こえた。
悠真はドアを開け、コンクリートの上に右足を乗せた。
そしてヴィヴィアンを抱く腕に力を入れ、立ち上がる。
ガードレールを飛び越え、草と樹木だらけの坂道を猛ダッシュした。
足下が不安定で走り難い。木の根っこが縦横に伸び、それが落ち葉や草で隠れている状態の地面を、感覚だけで駆け抜ける。
背後から「あっ!」「逃げるな!」と男達の怒鳴り声が聞こえた。
声に背中を掴まれ、引き戻されそうな恐怖を感じる。
それから逃げるため、とにかく足を動かし続けた。もう、必死だ。
足の下では石や木の根がゴツゴツとして、何度もバランスを崩しそうになる。
だが、全身の筋肉を必死に使い、何とかそのまま走り続ける。
いや。足を使わずとも、身体は下に引っ張られた。
ヘタに走った方がスピードが殺され、転けてしまいそうな気もする。
しばらくそのようにして下っていたが、坂の角度が変わったのであろうか。
再び、自力で走らなければならない区域に来たようだ。
地図を頭の一点に置いて、さっきの場所との方角や距離を頭の中で何となく計りながら、神社目がけて更に下りて行く。
「ミルドレッド、その者達はまだ学生だ。いささか大人げないね」
周囲の精霊達の助力を得て、ふたりの男を縛り上げ、これから口を割らせようとしていたミルドレッドの前に、ひとりの男が現れた。
背が低い初老の男で、何度か見た事がある。
髪がペタリと寝て薄く、目の下の涙袋が盛り上がっていて、鼻は横広く、小太りで全身が丸い。
そして口元は、卑しそうに笑っている。
「あなた、どこかで見た事があるわ。学生の事を助けに来たと言うなら、学校関係者?」
「きみも何度かわたしの授業に出た事があるのに、冷たいねぇ」
ひひひ。と男は笑った。
「エグバードだ。錬金などに関する基礎を教えている」
「ああ」と呟くミルドレッド。確かに学生の頃に見た事があった、かも。
「きみは今、トバイアスの片腕なんだそうだな。彼も学生ながら、優秀だ。将来が楽しみではあるが、まだ子供だからね。わたしの世話になる事も、この先あるだろう。きみは、彼の障害にならない方がいいのではないかな」
「それはトバイアスに対して不正を行う、と言う脅迫だと捕らえてよろしいのですか」
「何とでも思いたまえ。さ、そのふたりを離すべく、呪を解除してもらおうか」
「そのふたりは小さい子供を襲いに来たのですよ? 何らかのペナルティはありませんの?」
「子供も何も、〈あれ〉を作ったのはわたし達だよミルドレッド。材料を瓶の中で培養したのは、わたし達だ。でもね、〈あれ〉は失敗作だった。逃亡したので捕まえに来た。それだけだ」
ああ。そう言えば学校の裏の沼地の近くに小屋を構え、夜な夜な人工生命の実験をしているとか言う噂を聞いた事がある。
不気味な細胞の塊の残骸が目撃されていた事もあったっけ。
やはり無能なのだな、この男は。基礎しか教えられないわけだ。
「失敗作が空のみならず、地球にまで逃亡を図るとは計算外だったが、まぁそれもすぐに捕らえられる。どこに逃げたか、知っているのだろう? 教えなさい」
「存じません。ところで〈あの子〉は、これまでの失敗作とはいささか違うようにお見受けいたしましたが」
「おや? そうでもないぞ。あれはこれまでの失敗作と〈全く同じ〉だ。知能にも能力にも外見にも奇異さが認められる。論理的な思考も出来ず、左右の目が捕らえる視界は歪んでおり、自己認知力も持ち合わせてはいない。口から出て来る言葉はデタラメだ。まさかきみ、失敗作の言葉に惑わされてはいないだろうね? いや、まさかと思うよ。だが優秀さが仇となり、常識の外に位置するモノに興味を引かれる事はそれなりにある。心配だねぇ、ミルドレッド。いや本当に、きみが心配だ」
エグバードは笑うと同時に、ミルドレッドに向けて右腕を差し出した。
その掌からは熱風が吹き出し、それをまともに受けたミルドレッドは車まで吹き飛ばされ、ボンネットの上に倒れる。
男はすかさず、口から粘液のような物を吐き出した。
それはミルドレッドの右腕にかかった。
じわりと広がり体積を増やしてゆく。
そして覆われた箇所から順次、車に引っ付いて取れなくなった。
「安心したまえ、妙な物ではないよ。この星の生物だ。アメーバとか言ったかな……多少は私好みのアレンジを加えておるがな。なに、性的にきみを襲ったり、服を溶かしたりはせんよ。それは、子供の嗜好だからな。身体の自由を奪うだけだ」
ミルドレッドは何とか動こうとしてみるが、なるほど。強烈な磁力に抵抗しているような、虚しい抵抗しか出来ないようだ。
エグバードは次に、学生ふたりの方に腕を振り、気合いを放った。
ふたりは悲鳴をあげたが、彼らを呪縛していた植物の蔓が燃え落ち、自由の身となった。
「ひぃ、熱いーっ!」
「それくらい我慢しろ。お前達はもっと酷いモノを失敗作に打ち込んでおったろうが」
「それでも死なないんだから、怖えぇよな。マジでバケモンだぜ、あのクソガキ」
「とにかく連れ戻すぞ。どうせガキの足じゃ、そう遠くへは行っておるまい」
三人は、悠真が逃げた方向へ行ってしまった。
ミルドレッドを押さえつけるアメーバはもう全身に広がり、岩のように重くなり、身体を押しつぶそうとする。
重力が何十倍にも増えたように感じられた。
苦しい。自分の身体はどこまで耐えられるだろう。
波動の多い場所だからしばらくは大丈夫だと思われるが、骨格が軋んで痛い。
それに身体だけではない。
車にもその圧力はかかっているらしく、タイヤがへこんでゆくのを感じる。ボンネットの板も、もしかしたらへこんでいるのかも知れないと思った。
日本の車は事故の時、乗っている人間を守るため、衝撃を車本体に吸収させるように設計されている。と聞いた事がある。
ボディがあとどれくらい耐えられるか、ミルドレッドには分からなかった。
――それよりも悠真、大丈夫かしら。
ミルドレッドは空でトバイアスに聞かされていた事と、さっきの三人の会話と、ヴィヴィアンの様子などを自分の中で整理し始めた。
エグバードは確かに、ろくな噂を聞かない人物だ。
あのような者が、学園に携わっていいわけがない。
他の者は、彼の人柄を知らないとでも言うのだろうか。
それとも、何かの価値があって公的な機関に携わっているのか。
学校関係者に対する身辺調査は、厳しいはずだが。
――あんな男が長い間、教育機関に携われるだなんて、賄賂でもバラ撒いているの?
ぎしり、と車が再びへこんだ時、アメーバはミルドレッドの首を登り、もう口の近くまで来ていた。