01-4
女性は、地面に投げ捨てられたダンボールの残骸を拾い上げ、公園に設置されてあるゴミ箱に捨てた。
彼女は自分の指先を見ながら「いやぁね、ヨダレでベトベトだわ。汚い」と呟き、生け垣の傍に設置された水道の水で指先を洗った。
ヴィヴィアンはヨロリと立ち上がり、ケガを洗おうと自分も水道に向かう。
「あなた、こんな所で何してるのよ。温泉成金」
女性が水道の前から退いてくれた。ので、少女は流れ落ちる水の筋へと、膝を出す。
冷たい水が、傷に染みる。本日二度目のケガと痛みだ。思わず顔が歪んでしまう。
「そうよ、温泉成金だもの。仕事に決まっているでしょう。そう言うあなたは何をしているのかしら? ヴィヴィアン」
「ミルドレッドには関係無いわ、トバイアスにもよ」
「そう……助けてあげたのに、つれないのね」
ヴィヴィアンがムッとして膝の痛みに耐えていると、顔が引っ張られた。思わずバランスを崩し、水に出していた足が地面へと戻る。
「何よっ」と抵抗するのだが。
「みっともない顔しちゃって」
そう言うミルドレッドに、冷たいハンカチで目元を拭われた。
「犬に襲われたくらいで泣くなんて、本当に子供なんだから」
「泣いてないよっ……ないもんっ」
「ほらほら。そう言いながら、この目から流れ出ているお水はなぁに?」
「……そのハンカチが、びしょ濡れだから」
「あなた、言動がますますクェンティンに似て来たわねぇ。素直じゃないわ。女の子として、それはどうなのかしら。あら、スカートの裾がほつれてるわよ? せっかく可愛いワンピースなのに」
その言葉にグッ、と息が詰まる。
これ、貰ったばかりなのに……悠真が、近所の人に頭を下げてくれたから。
そう思うと、罪悪感で胸が痛んだ。
「あら、ごめんなさい。そんなに落ち込むなんて思わなかったわ。大丈夫よ、ほつれくらい私が繕ってあげるから」
「え、ほ……ほんと?」
「それくらい出来るわよ。女だもの」
ミルドレッドはスーツのポケットから小さなお裁縫セットを取り出すと、数秒で直してくれた。
「いつも持ち歩いてるの?」
「今、自宅から取り寄せたのよ? 当たり前でしょ」
「そうなんだ……」
「お礼は?」
「え? あ、ありがとう」
「どういたしまして。ところであなた、どうしてこんな場所に居るの」
「探し物……」
「あら、なぁに? 私でよければお手伝いするわよ?」
ヴィヴィアンは迷惑そうな表情をして「いいよ」と断った。
「信用無いのね?」
「いつもクーちゃんとケンカしてるでしょ」
「トバイアス? そうね~、仲が良過ぎなのよね、あのふたり。クェンティンは素直に感情を出すタイプだし、トバイアスはその反対だしね。バランスがいいのね、きっと」
ヴィヴィアンには、とてもそうは思えなかった。
クーちゃんはいつも、トバイアスに対して腹を立てていると思う。
だからきっと、トバイアスは敵なのだ。そう思っているのに。
――どうして〈仲良し〉なんて結論になるのよ? 意味分かんないっ。
「元気無いのね。うちの温泉にご招待してあげてもよくてよ?」
「私、忙しいの」
「あぁ、探し物してるんだったわね。でもね、ヴィヴィアンのお顔に書いてある」
「え?」と思ったと同時に、左頬をその指先で突かれた。
「『ムリゲーなんだよ!』って」
ミルドレッドがふふっ、と笑う。
確かにムリゲーなのだ。
クーちゃんが「ここならきっと見つかる」と教えてくれたあの店に〈無い〉のなら、無能なヴィヴィアンには入手出来ない。
もしあの店にあるのなら、どんな条件でも飲んで譲ってもらうつもりだった。
盗んでもいいから手に入れろ、とクーちゃんに言われてもいた。そのオトシマエは自分がつけてやるから、って。
あの悠真なら、自分が盗みを働く事もなかっただろう。
この世界のお金は持っていないが、〈宿り木〉を譲渡してもらうために落とし所を考えてくれそうな人だと思う。
でも、無い。
無い物は、無いのだ。
いくら悠真がいい人だったとしても、無い物を譲ってもらうわけにはいかないではないか。
「ねぇ、本当にいらっしゃいよ。トバイアスの温泉」
「えっ?」
人がシリアスに考え事をしている時に、何を言うのだ。この女は。
「あなた、今もうボロボロだもの。リフレッシュして元気チャージしなきゃ。ね、そうしましょう」
「でも、私……」
きっと待ってくれてる。悠真とオーフェリアは、きっと。
送り出してくれた時の「いってらっしゃい」は、「帰って来るんだよ」に聞こえたから。
――ううん。私の居場所なんかじゃないのに、何を考えてたんだろ。
あの店に〈帰る〉つもりになっていた自分に驚く。少しお邪魔させてもらっただけなのに。
「それとも、もう他の人とお約束が?」
約束――そんなものではない、かも知れないけれど。
ヴィヴィアンは小さく頷いた。
「あら。それじゃその方に、ご挨拶だけでもさせていただこうかしら」
何を言うのだ、この女は。
「私の大切なトバイアスの、大切なクェンティンの、大切なヴィヴィアンがお世話になっているのですもの。当然よね」
「はあっ?」
「さ、行きましょう」
「何でよ、どうしてよっ。どうしてミルドレッドが!」
悠真やオーフェリアに挨拶、などと言う事になるのだ。
「温泉に行って来ます、って言うだけでしょ。ご挨拶もせずに連れ出したら、誘拐と間違えられるわ。トバイアスに迷惑がかかってしまうから、困るのよ」
――で、でもっ。
その理屈は分かるような、分からないような。
ヴィヴィアンはミルドレッドに手を繋がれて、ふたりの待つアンティークショップへ案内する事になってしまった。
――なんで? どぉしてぇ?
頭の中は疑問符でいっぱいだが、あの扉の向こうに居るオーフェリアの事を思い浮かべると、顔が自然に緩んでしまう。
自覚があるから、恥ずかしいのだが。
「いやぁね、ニヤけちゃって……天使級の美貌が台無しよ」
その言葉に顔が熱くなる。
び、美貌って言われるほどのものなのか。
顔の事など、言われても困ってしまう。
顔なんて偶然の産物なのだし、自分が選んだわけでもないではないか。
――でも美貌ってやっぱり、オーフェリアさんの持っているあの綺麗さ全ての事だよね、きゃあ!
「ヴィヴィアン。あなた、そんなだらしなくニヤニヤしない方がいいわよ」
「し、してないもん!」と抗議するが、自分でも分かっている。
オーフェリアの事を思い出すだけで、ドキドキが止まらないのだから。
扉を開けると、オーフェリアの声が聞こえた。
「いらっしゃいませ」と、それから。
「お帰り、ヴィヴィアン」と。
穏やかに微笑んでくれて、息が止まりそうになる。
見ているだけで体温が上がってしまう。
幸せ、過ぎる。
――な、な、なんだろ……ドキドキで体力消耗しちゃうよ。このまま見つめられたら、死んじゃうよぉ。
身体が強張り、身動き出来なくなる。
「ヴィヴィアン、こちらは?」
オーフェリアにミルドレッドの事を聞かれ、返答に困った。
ミルドレッドは、クーちゃんの同級生の、トバイアスの……何だろう。手下?
「えっと……」
ヴィヴィアンはチラリ、とミルドレッドを見上げた。
「この子がお世話になっております。初めまして。わたくし、こう言う者ですわ」
ミルドレッドがヴィヴィアンの頭上で、オーフェリアに名刺らしき物を渡す。
「ご丁寧にありがとうございます。わたしは見ての通り、ショップの店番をしている者でして、このような立派な名刺など持っておりません」
「まぁ、かしこまったご挨拶は不要ですのよ。わたくし、この子のちょっとした知り合いですの。彼女がお世話になっていると聞いて、お礼を述べにお邪魔させていただいただけなのですわ」
奥へと続く扉の向こうから「えっ!」と、悠真の声が聞こえた。
扉が開き、彼が出て来た。
「本当ですか! この子、どこのどう言った子なのか知ってるんですか!」
「え、えぇ。多分、あなた方より少しは、まぁ」と、ミルドレッドも少しの困惑を見せる。
「もしかして、この子がご迷惑をおかけしたかしら」
「いや、僕達は別に、お世話と言うような事はしていません。けど、あまり話してくれないから、迷子にしても妙だな、と思って」
「やはり少しはご迷惑をおかけしたようですわね、申し訳ございません。この子は近々、こちら方面に移住する予定なのですわ。右も左もよく分からない、世間知らずの子供ですの」
悠真がチラリとこちらを見る。
彼の中で〈移住〉と〈宿り木〉が繋がってしまったかも、とヴィヴィアンは思った。
「この先もご迷惑をおかけする事があるかも知れませんが、よろしくお願いします」
ミルドレッドが深々と頭を下げる。
それに対し、悠真とオーフェリアは「頭下げないでください」と言って、アタフタした。
「それで、この子が少し疲れているようなので、温泉に連れて行こうと思っているのですけれど」
「あぁ、それはいいですね」とオーフェリアが柔らかく微笑み、「わたしもこの国の温泉は好きです」と続けた。
「そうだわ、おふたりもいらっしゃいませんこと?」
「えっ! いや、わたしは店番がありますので」
「えーっ!」と不満な声が、勝手に口から噴き出していた。
ヴィヴィアンは自分の事ながら驚いて、口を両手で塞ぐ。
苦笑いを浮かべ、オーフェリアがこちらを見下ろす。
――私を見ちゃヤだ、恥ずかしい……。
あの切れ長の瞳に見つめられると、意識が遠くなりそうになる。息が苦しい。
「ヴィヴィアン、また転んだの?」と悠真に声をかけられた。
オーフェリアの視線を受け止め、心がふわんと夢心地だったのに、それが途切れた。
チッ、気の利かないヤツ。と自分の声が、頭のどこかで呟いたような気がする。
「消毒だけでもしておく?」との問いに、ヴィヴィアンは「痛いからヤだ」と答えた。
傷口は水で洗ったし、大丈夫だろう。
こんな事で壊れるような身体なら、自分はあんな酷い目に遭いはしなかった。
すぐさま、絶命出来たのに。
――死んだ方がマシだったなんて、私、すっごい経験してるんだよね。
目の前の三人に理解してもらおうとは思っていないけれど。
でもこんな風に心配してもらえるのが、とても嬉しく感じられた。
――そうだよ。私、嬉しいんだ……。
この悠真って人、クーちゃんに蹴られてたヴィヴィアンを心配してくれて、服まで調達してくれて。
そして今、また、転んだ事を心配してくれている。
――この人もクーちゃんみたいに、私を助けてくれようとしてるのかな。
もし、そうなら。
この人が、クーちゃんほどではなくても、優しいのなら。
少しくらい、甘えさせてくれるかも知れない。
話くらい、愚痴くらい、聞いてくれるかも知れない……。
「あ、あのね、悠真。聞いて欲しい事が、あるの」
「ん? なに」
「だから、一緒に温泉行こ。お泊まり」
「は? いや僕、明日も学校だし」
「一日くらいいいじゃない、お願い」
「だって僕、遥斗にお金出してもらってるんだし、学校サボれないよ」
「いいよ? 少しくらい」と言う声が聞こえた。
そちらを見ると、奥へ続く扉の向こうに、見知らぬ男の人が立っていた。
「わっ! 遥斗っ。どこから現れるんだよっ」
その人は悠真より背が高かった。
ミルドレッドやオーフェリアより年上に見える。
悠真ほど優しげな顔立ちではないけれど似ているし、大人っぽく落ち着いた雰囲気の人だ。
「玄関から入って来たよ、ちゃんと鍵開けて。温泉行くんだって? うらやまし~い」
にこっ。とその人が悠真に向けて笑う。
「いや、だから行かないよ。学校あるし」
「行けよ。それより俺、これからアトリエに籠るからさ。いつものようによろしくな」
「ふーん。珍しく仕事入ったの。いくら?」
遥斗と呼ばれているその人は、ニヤニヤと悠真を見つめ、指を二本、顔の前に立てた。
「ツインで」
そこで一度、声を切り。
「八桁」
そう言った。
悠真とオーフェリアが、悲鳴に近い声を上げる。
「はち……ケタ?」
「八桁の後半、な」
「ちょ、ヤバくないのその仕事っ」
「人形作家が人形作って、誰に対してヤバいんだよ」と言いながら、悠真のこめかみをゲンコツで挟み、左右からグリグリとやる遥斗。
悲鳴を漏らし、抵抗する悠真。
ヴィヴィアンはそんなふたりを見て、クーちゃんとトバイアスを思い出していた。
確かにあのふたりも、こんな感じだ。もう少しトゲトゲしていたような気もするが。
――さっきミルドレッドが言ってた「仲が良過ぎる」って、こう言う事なの?
チラリ、とミルドレッドを見上げる。
視線に気付いたのか、彼女はこちらを見下ろし、にこっ。と笑った。