01-3
「とは言え、どうしよう……」
ヴィヴィアンは再び近くの公園に来て、ブランコに座っていた。
「これ以上、クーちゃんに迷惑かけられないし」
〈宿り木〉が教えられた場所に無かった、と言えば、更に探してくれそうな気はする。
でも。
ヴィヴィアンがうつむき、今にも泣いてしまいそうなのを我慢している時だった。
低い唸り声が、前方のすぐ近くから聞こえて来たのは。
驚いて顔を上げると、どこかの子供に連れられた犬が、小さな犬が、こちらを見て唸っていた。
ビクリ、と身体に緊張が走る。
「どうしたんだよ、トムっ」
犬はリードに繋がれているのに、今にも襲って来そうにいきり立っていた。
ヴィヴィアンより少し小さい男の子が、とても頼りなく見える。
きっとあの小型犬が走り出したら、あの子は簡単にリードを手放すだろう。
思わず腰を浮かせ、立ち上がりかけた時。
その犬がさらにこちらを威嚇し、吠え始めた。
すると周辺からも、同じような声が聞こえ始める。
あちらこちらから、様々な唸り声が響き始めた。周辺で飼われている犬達が共鳴しているようだ。
犬を散歩させていた少年が困惑気味で、こちらを見ている。
「お前っ、こいつに悪さでもしたのか? イタズラしたのか、イジめたりしたのかよっ?」
少年の表情に、敵意があった。
「し、知らないもん」と返すが、声が震えている。
息が、苦しくなって来た。
ああ、また再び味わうのか。
嫌われ、蔑まれ、毎日毎日死ぬほど激しく虐め抜かれていたあの日々。
――あの人達と、同じ目つきだ……いや。
「いやぁ!」
ヴィヴィアンが走り出すと、犬が素早く反応した。
あまりの咆哮に驚き、チラリと振り返る。
少年の手からはリードが抜けていた。
わざとなのかそうではないのか、ヴィヴィアンには分からない。
けれど、あの犬を止めてくれるものは何もない。
牙剥き出しの獣が、自分を追って来る。
唾液を飛び散らし、猛烈な勢いで追いかけて来る。
怖くて、早く動けない。
でも、逃げなければ。
悪意が身体に打ち込まれる痛みは、嫌と言うほど味わった。
――クーちゃん……助けて! クーちゃんっ!
心で必死に祈るのだが、空の世界に居る彼が助けてくれるわけもない。
ヴィヴィアンは、ひとりぼっちで地球に来た。
あのまま空に居て、またあいつらに見つかったら、これまでと同じように虐められる。
空のどこに居ようと、発見されてしまう恐れがあった。
それどころか、自分は『他の人に見つかってはいけない』とまで言われたのだ。
だからクーちゃんが、地球に逃がしてくれたのである。
『正規の手続きをした者でなければ、地球にだって居場所は無い。だけど、可能性があるとするなら〈宿り木〉だな』
『なぁに?』
『俺も噂でしか知らない。でも実在はするみたいだ。簡易的な居場所となれる物体だな。巡り会えば分かるだろ。それを探せよ』
『……一緒に行って、くれないの?』
『俺は空の住人だからな、地球に移住は出来ない。でもお前はここでは、イレギュラーな存在だ。それは地球に降りても同じ事だけど、ココよりはマシだろ。あいつら居ないんだから』
それは、確かにそうなのだけれど。
『ひとり……怖い、な』
『あいつらに見つかる可能性まみれのココより、マシだろ』
『……うん』
確かにクーちゃんの言う通り、自分は空に居てはいけないのだと思う。
だから地球に来た。
彼とは別れたくなかったけど、仕方がなかった。
どうしようもなかったのだ。
傍に居たい人から離れて、寂しさや心細さを必死でこらえて、やっとここに居るのに。
なのに犬が襲いかかって来る。
人間の子供も、あんな目つきで自分を睨む。
地球でもそうなのか。自分に牙を剥くのか。
――私、なんにもしてないよぉ!
追いかけて来る犬にも、自分をいたぶった人達にも、ヴィヴィアンは何もしていない。
――なのに、なんで? なんでぇ!
犬が飛びかかるために、足を踏み切る気配が聞こえた。
全身が、恐怖で凍り付く。
生臭くてあたたかな息が、逃げ惑う腕に吐きかけられた。
もうだめ。
もう、その牙が自分の肌を突き破り、筋肉を切断し、血管を破壊して、肉が噛み切られ、引き千切られる!
ヴィヴィアンの頭の中は、数瞬後の出来事を想定していた。
その未来は間違い無く、自分に襲い来るに決まっている。
分かっているのに、逃げ切れない。
でも嫌だ。なんで、どうして、私が。
いつも、いつだって、私だけが。
悲しみが全身に広がり、瞳から涙となって溢れ出る。
どうして誰も、助けてくれないの。優しくしてくれないの。
どうして自分はこんなにも、嫌われてしまうの。
失敗作だから? 私が、失敗作だから?
好きでそんなモノになったんじゃないよ。好きで産まれたわけじゃないのに。
なのに、どうしてそんなにも虐めるの。虐められなきゃならないの。
怖いよぉ。悲しいよぉ。助けてよぉ。
誰か、優しくしてよぉ。
たったひとり、自分を助けてくれたクェンティンは、今、ここには居ない。
地球上には、ただひとり。
ヴィヴィアンだけが、ただひとり。
来た。から。
自分は今、ひとりぼっち。
だぁれも、助けてはくれない。
ヴィヴィアンはバランスを崩し、前向きに転んだ。
膝を擦りむき、小さな砂が肌の中に潜り込む。だけど。
それだけ。
痛い箇所が、それだけ。
――……あれっ?
恐る恐る振り向くと、犬は何かを咥えていた。
茶色い、少し丸まったような物を。
呼吸しづらそうに、唸りながら首を激しく振っている。振り回している。
けれど口の中の物体は出ないようで、前足がジタバタとしていた。
「坊や、ダメでしょ。公共の場でリードを離しちゃ」
落ち着いた女性の声がして、ヴィヴィアンはそちらの方を見た。
胸が心底、ドキリとする。
紺色のスーツに身を包んだ、見覚えのある女性が地面からリードを拾い上げ、ボケッとしている少年にそれを渡した。
少年は気まずそうな表情でそれを受け取る。
「お口の中の物、取ってあげなさい」
「分かったよ……トム、ほら動くな。暴れるんじゃないっ」と頭部を叩きながら、口の中の物を引っ張り出す。
それは原型を止めてないほどぐちゃぐちゃになり、唾液で濡れていた。
少年がそれを地面に放り捨てる。
それはべしゃり、と重そうな音をたて、落ちた。
「あら、これ、ダンボールかしら。あのね坊や、きちんと躾をしてあげないとダメよ。人に吠えたり、襲いかかったり、こんな物をお口に入れたりしてたら、この子自身が危険でしょう?」
「だってこいつが突然唸りだしたんだ! あいつが絶対にナニかやったに違いないよ! そうに決まってる!」
「決まってる、って……あの子、お友達なの?」
「知らないよ、そんなヤツっ。でもトムだけじゃなくて、この周囲の犬がさっき、いっせいに唸り出したんだ!」
「一匹が鳴き始めたら、ご近所の子がいっせいに鳴き始めるなんて、よくある事でしょう。どうしてそんなに、あの子に敵意を抱いてるの? あの子が嫌いなの? でも知らない子なんでしょ?」
「うるせぇなクソババァ! 他人の子に向かって説教すんじゃねーよバカ! ブス!」
少年は汚い言葉を吐き捨て、逃げて行った。