06-2
ヴィヴィアンは、ずうっとくり返し見ている。
リンチを受けていたあの森でクーちゃんに助けられてから、嬉しかった事の数々を。
吊るされていた樹から降ろされ、全裸だったヴィヴィアンの身体に、彼は上着をかけてくれた。
今思えばあれは、制服のブレザーだった。
爽やかで、でも少し甘い香りがしたのを覚えている。
クーちゃんの香りだ。
「逃げたいなら、ついて来い」
そう言われてヴィヴィアンは、迷いもせずその人に付いて行く事を選んだ。
この人だって、酷い事をするかも知れない。
しないと言う保証など、どこにも無い。
でもヴィヴィアンの心は彼を選んだ。ここに残る選択など出来るはずがない。
その時のヴィヴィアンは身体のあちこちから肉が剥がれ落ちていて、動くと激しく痛かった。
目が回ったし、真っすぐに歩けない。
強く縛られていた部分の肉は、腐っている。
胴体や腕の一部は変色し、腐臭も発していた。
けれど彼はさっさと歩き続けているから、追いかけないわけにはいかなかった。
必死で身体を動かす。
痛い。身体のあちこちが痛い。
でも焼かれているあの瞬間より、切り刻まれているあの瞬間よりマシだった。
こんなの全然、我慢出来る。
彼の背中に、木漏れ日が降り注いでいた。
なんて綺麗な背中なのだろう。
振り向いてくれないその人を、ヴィヴィアンは必死で追いかけた。
明るい茶色の髪もキラキラしている。
彼の秘密基地は、地下の洞窟だった。
学校とか言う場所から夕日の沈む方向へ進むと、小さな岩山がある。
そこの麓の、小さな泉の傍にある、特定のポイントからしか行けない場所らしい。
泉は本当に小さくて、両手を入れたらいっぱいになるくらいだった。
清水が湧き出ていて、周囲に瑞々しい植物が茂っている。
パッと見、そこに泉があるとは分からない。
ヴィヴィアンは彼に抱っこされ、泉の傍のポイントから地下へと連れて行ってもらった。
それは道を歩いてゆくのではなく、階段を下りてゆくのでもなく、〈跳ぶ〉事でしか行けない場所だと教えられた。
跳ぶ、とは何だろう。
よく分からないが、〈場所〉から〈場所〉へ移動した事だけは分かった。ような気がする。
今でもヴィヴィアンは自分が〈跳べる〉かどうか、分からない。試した事は無いから。
例え〈跳ぶ〉能力があったとしても〈場所〉自体を把握出来ていないので、ひとりで行こうと思っても行けない事だけは確かだった。
跳んだ先は真っ暗で、自分を抱いてくれているクーちゃんの感触だけが〈全て〉だった。
他には何も情報が無い。
暗闇は心細くて、彼を掴む両腕に力が入る。
その時、彼が何か言葉を呟いた。
何と言ったかは記憶にない。
ただ、その言葉により周囲が明るくなったと言う事が分かった。
ヴィヴィアンの前に現れたその空間は、淡い水色だった。
天井から地面まで、何本もの不定形な柱が無数に生えている。
柱は半透明に白く濁っているけれど、綺麗な水色をしていた。
「あれ、なぁに?」
「水晶だ」
「水晶? ……綺麗」
胸が高鳴る。
何かを綺麗だと思う気持ちが、身体の奥をあたためてくれる。
ドキドキして、見とれてしまった。
「ここは俺しか来ないから、居たければ居ていい」
「……いいの?」
「別に、構わねーし」
その空間は縦に広くて、上を見上げると首が伸びてしまう。
ここへ来る時に通った学校、とか言う建物よりも高くて大きいように思えた。
「でも制服をずっと貸すわけにはいかないな。とりあえず着替えと食い物か」
食い物、とは何だろう。
「ちょっと待ってろ」
「……え。どこか行っちゃうの」
ひとりになる事が怖い。
あいつらは来ない、と言われたけれど、それでも不安だ。
「戻って来るから」
ヴィヴィアンには、彼を強く引き止める事は出来なかった。
迷惑をかけて嫌われたくない、と言う気持ちが大きかったから。
言葉通り、クーちゃんは戻って来てくれた。
〈着替え〉と〈食い物〉が何であるか、ヴィヴィアンは何となく理解した。
「ありがとう」と言うと、彼は素っ気なく言う。
「こう言うの、すぐに調達出来そうな知り合いが居るから。気にするな」
白いワンピースの服を着せられた。
ヒラヒラとして可愛くて、それを着ている事が心地いい。
「こっちはミックスベリーのパイだ」
白い紙の袋から取り出された、甘酸っぱい香りの漂う物。
「女子人気ナンバーワンだから、不味くはないと思う」
彼はそれを小さく千切り、ヴィヴィアンの口に優しく入れてくれた。
味と香りが、全身に行き渡る。
ヴィヴィアンの感じた衝撃が〈旨味〉と呼ばれる物だと、すぐには理解出来なかった。
けれど、好きか嫌いかで言えば、好きだ。とても、とても、すごく、好き。
「ほら。後は自分で食え。無くなったら今度は違う物を持って来てやる」
パイが手渡される。それはあたたかだった。
ヴィヴィアンはそれを食べた。食べながら泣いた。
彼は何も語らず、しばらく傍に居てくれた。
「そろそろ時間だから」と言って、いつも行ってしまう。
けれどその合図までは、ずうっと傍に居てくれる。
ヴィヴィアンはいつの間にか、彼が傍に居るだけで安心している自分に気付いた。
その当時、自分には名前が無かった。
クーちゃんからは「おい」とか「お前」とか呼ばれていた。
「お前、名前ないの」
そう聞かれた。けれど、名前って何だろうか。
「俺の名前は、クェンティン」
「く……いぇん、てん」
「クェンティン」
「く……いえいえんてぃん」
「う、うん」
珍しく彼が戸惑いの表情をした。
「お前は、名前持ってないんだな?」
ヴィヴィアンは「うん」とうつむいた。名前とは、大切なのだろうか。
「俺さ、前に地球の日本、って所に行った事があるんだけど」
「うん」
クーちゃんはその時の思い出を話してくれた。
日本の傍には台湾と言う国があって、国同士がとても仲良しだった事。
そして、台湾と言う国の女の子達が、とても可愛かったと言う事。
「台湾の昔のアイドルに徐若瑄て人が居てさ。すっごく可愛かったんだよ。多分、一番好きになった女性だと思う」
「ふ……ふぅ~ん」
何だろう。
クーちゃんが他人を好きだと言うと、胸の中がムカムカイライラとする。
こんな気持ちは初めてだ。
「だからお前も今日から、ヴィヴィアン。どう?」
どう? と言われても。
正直、面白くない。
だけど、クーちゃんがその言葉を口にする時、本当に嬉しそうに微笑んでいるのが見ていて分かるから、ヴィヴィアンの気持ちは揺れた。
そんなにも好きな人で、その人の名前を自分につけるの?
いいのだろうか。それは、大切な言葉なのではないだろうか。
「いいの?」
「何が」
「その人の名前、私がもらってもいいの? 大切なんじゃないの?」
「お前がお気に入りの水晶に、俺の名前を付けても別に平気だけど」
「私、お気に入りの水晶みたいなの?」
「俺の嫌いな名前で呼ばれたいわけ?」
そう言われると、とてもじゃないが同意は出来ない。
「……やだ」
「じゃあとりあえずヴィヴィアンな。気に入らなかったらまた変えればいいし」
「う、うん」
その時は複雑な感情で受け入れた名前だが、今は気に入っている。
台湾の可愛い女の子もいつかは見てみたいと思うが、実際に見る時には、とても大きな勇気が必要なのだろうな。
身体が元気になって来ると、クーちゃんは時々、外に連れ出してくれた。
あいつらに見つかるのは怖かったので、本当に、たまに、だったが。
クーちゃんは人を選び、場所を限定して連れ出してくれた。
行った先に居たのはいつだって、トバイアスとミルドレッド。
クーちゃんの部屋でカードゲームをしたり、トバイアスの部屋で勉強を教わったり、ミルドレッドの自宅で女の子としての一般常識や、お菓子作りを教えてもらったりした。
ゲームも勉強もお菓子作りも上手くマスター出来なかったけれど、それでも世界観は広がった。
世界にはあいつらやクーちゃん達以外にも人は居て、星の外にはもっと違う世界も広がっているらしい事を知った。
季節が一巡した頃、自分は自然と笑えるようになっていたと思う。
クーちゃんに影響されたからかは分からないが、いつの間にか自分は、トバイアスやミルドレッドに憎まれ口をきくほどになっていた。
それは相手を信頼し、安心しているから言えたのだと、今なら分かる。
「言いたい事は言え。要求があるなら言葉にして伝えろ。自分で考え、自分として生きろ」
何度もクーちゃんに言われた事だ。
自分の心の中を探り、それを〈要求する〉と言う事が最初は分からなかったが、徐々に覚えた。
勇気を出して伝えた要求を断られた時には傷ついたし、悲しかったし、残念だった。
けれど、それは普通によくある事で、それこそが人間関係だと言われた。
だから自分の気持ちを受け入れてもらえた時には、幸せだった。
何も要求しない時と比べて、何倍も生きているような気がする。
気持ちがすれ違っても、反対意見を聞かされても、誰かが傍に居てくれる事の幸せ。
違う心の人が傍に居てくれるからこその反応が、喜びであり悲しみであると知った。
そう言えばケンカばかりのクーちゃんとトバイアスを「仲良し過ぎる」とミルドレッドが言っていたっけ。
その通りなのだな。
自分の気持ちだってそうだったのに、分かってなかった……。