05-2
格子戸の奥にもうひとつ引き戸があって、そこを開けると畳の部屋が広がっている。
手前の部屋には黒い座卓と座椅子、行灯や衝立などがあり、奥の部屋には鏡台などがチラリと見えた。
とりあえず、この部屋に逃げ込む事になるのだろうか。
ミルドレッドはヴィヴィアンをバスタオルにくるんだまま、座椅子の上の、座布団の上に置いた。
「じゃあ、ちょっと行って来るから」と言われ、急に心細くなり「どこへ行くんですか」と縋るように聞く。
「目くらましを仕掛けて来るのよ。あいつら、永遠に階段を上り下りさせてやるんだから!」
「……行ってらっしゃい」と悠真は彼女を見送った。
「はぁーっ!」と息を吐いて、畳の上に転がり込む。
全身が疲れて、閉じた目も開けたくない。
――あいつら、僕達の事、ずうっと狙ってたんだな。油断してたぁ。
ミルドレッドやヴィヴィアンが、自然の中でエネルギーをチャージすると言うのなら、あいつらだって同じはずだ。みんな〈空〉から来たのだから。
部屋の中はシーンとして、とても静かだった。気味が悪いほどだ。
自分の鼓動さえ聞こえそうである。
温泉に浸かっている時はそれこそ、水の音や木々のざわめきなど、周囲の様々な音が聞こえていた。
なのにここは、まるで別世界である。
防音が行き届いていると言う事なのだろうけれど、怖い。
――僕には、怖いものがたくさんあるんだなぁ。
日常では気付かなかった事だらけだ。
学校に行って、ショップに戻って、遥斗やオーフェリアとごはんを食べて、寝る。
そしてまた学校でみんなと……。
――ああ、そうか。僕はもう、学校へは行けないんだ。
この身体から退去すると言う事は、そう言う事なのだ。
――死後の国へ行く事になるのかな。
そこには、父や母が居るのだろうか。
母の事は、ちゃんと聞かされた。だから、会いたくは無い。
でも、父親には会ってみたいと思う。
穏やかであまり怒らない人だったらしい。
写真も見た事はあるけれど、若かった。まだ大学生だった。
髪は少し猫毛で、顔立ちは祖母に似ていなくもない、かな。
でも表情は確かに柔和で、優しげな瞳で笑っている写真ばかりだった。
悠真と似ているのだろうか。
自分では、よく分からない。
魔物に食べられたのなら、天国にも地獄にも居ないのかも知れない。
自分も同じ目に遭うはずだった。
――せっかく助けてくれたのに、ごめんね。オーフェリアさん。
でも、産まれてすぐ殺されたのに、十四年も生きた。充分過ぎる。
もっと早く、決断してあげるべきだった。
――出会った時、ヴィヴィアンにそんな事情があるなんて知らなくて。
ショップを覗いていた、あの時。
公園でクーちゃんに蹴られていた、あの時。
――結構図々しくて、オーフェリアさんに一目惚れして、それからえっと……。
近所のオバさん連中の事を、ライバル心丸出しで見ていたっけ。
くすっ。と小さな笑いが漏れる。
なのに、同時に涙が零れるのだ。
――死ぬのが悲しくて寂しいなんて、僕は心が狭いよね。もう死んでいるのに。
死ねないヴィヴィアンと、死んでいる悠真。
――僕達って、正反対の存在だったんだ。
意識が遠くなる。
そう言えば、昨夜は眠っていないのだった。
さっき、温泉の中でも少し眠かった。
――このまま、眠っている間に〈宿り木〉から離れられたらいいのに……。
でも確か、きちんと術を解かないといけないんだっけ。
それが出来るのは遥斗くらいだと思うのだけれど。
――いやでも、もしかしたらクーちゃんとか、トバイアスとか言う人なら、出来てしまうのかも知れないな。彼らが出来るのなら、ミルドレッドさんでも出来そうだな。
意識がとろけてゆく。
悠真の呼吸が、深くゆっくりとした寝息に変化した。
『おい、お前』
少年の声が聞こえる。
聞き覚えがあるような、ないような。
声から受けた印象は自分と同じくらいの年齢のようだ。だから候補はたくさん居る。
クラスメートに、違うクラスの人に、先輩や後輩。それから、えっと。
『悠真、とか言ったな? おい、ボケッとしてんな』
馴れ馴れしいな、と悠真は思う。
これは、誰だ?
田中くんじゃないし、ケンちゃんでもないし、生野くんに似てるような気もするけど、違うっぽい。
『妙な予感がする。協力しろよ』
名乗りもしないうちに、協力しろと言っている。
『あいつにナニかあったら、お前の事ぶん殴るからな』
――ん……? この感じは。
知っている、ような気がした。
チラチラと、外見の映像が意識の表面を過ってゆく。
明るい色の髪と瞳。華奢だがパワフルに動き回る手足と、言葉遣いの悪い口。
『休憩はもう少し後だつってんの』
――え? えっ?
「オイ、コラ」
ごちん。とした痛みが、デコに走る。
悠真はハッとして、目を開けた。
うつ伏せに寝て、顔を横に向けていたので、最初に視界に入って来たのは畳、だった。
畳の上に、誰かが座っている。
「人を呼び出しておいて居眠りかよ。呆れるわ」
ブラウンのブレザージャケットにインナーは白いシャツ、紺色のネクタイ姿の少年が、畳に両足を投げ出して座り、こちらを見下ろしていた。
気の強そうな瞳が、髪が、キラキラしている。
公園で初めて見た時は半透明だったのに、今は透けていない。
目覚めた悠真は「はっ?」と息を吸い、上半身を起こし、思わず彼の名を呼んだ。
「クーちゃん……っ!」と。
煌めく瞳がキッ! とこちらを睨む。
「誰がクーちゃんだコラっ!」
「うわっ!」と悠真は悲鳴を上げた。
襟首を締め上げられたから。
「ヘンタイみたいなカッコして、ノンキに眠りコケやがって!」
彼の言葉が、神経に突き刺さる。
今の自分は確かに、妙な格好をしていると思う。
自覚してはいたが、他人の口から「ヘンタイ」と言われると、予想以上にショックが大きかった。
――ヘンタイ……ヘンタイ……ヘンタイ……ヘンタイ……!
悠真の頭の中で、その言葉が無限にリフレインする。
恥ずかしさに精神が押しつぶされてしまいそうだ。
「初対面の相手にそんなカッコ見られて恥ずかしくないのか!」
――は、恥ずかしいに決まってるじゃないか……っ。
でも、反論出来ない。
気持ちがボッキボキに折れてしまっているから。言い返す勇気が無い。
「とっととマトモなカッコしろよ、だらしねぇな!」
乱暴に突き放されて、悠真は再び畳に転がった。
慌てて起き、放置していたズボンや靴下を拾い、隣の部屋に向かう。
仕切りの影に隠れて、ため息を逃がした。
――どうか、覗かれませんように。見られませんように。神様……っ。
服を着替えるのに神頼みだ。
それほど悠真は追い詰められていた。
なぜなら水着の下に、パンツを履いていないから。
当然だ。水着と言うものは、下着を脱いでから着用するものである。常識だ。
女子の見せパンじゃあるまいし、水着の下に下着を履く奴など居るわけがない。
もちろん悠真も常識人であるから、例外ではない。当然である。
着替えるためには、これを脱がなければならない。
初めて会ったクーちゃんがすぐ傍に居るのに。
他人が隣の部屋に居るのに。
不機嫌な男が、こんなに近くに居るのに。
自分はこれを脱がなければならないのか?
ならないのだ。決まっている。
逃げてはいけない、冷酷な現実であった。
――いつまでも躊躇してる場合じゃ……ないっ。
思い切って水着を脱いだ瞬間、羞恥心で心臓が潰れそうになった。
でも、潰れなかった。
今、自分は、こんなに綺麗な部屋の中で、なんて情けない格好をしているのか。
無防備過ぎる。プライドがズタズタだ。
とにかく!
脱いでしまったからには、全速力で着るのだ履くのだ。急げ! ハリーアップ! 頑張れ自分っ!
焦り過ぎと力の入り過ぎでカクカクと不自然な動作ながら、何とか無事に着替え終わった。
クーちゃんに覗かれ、恥ずかしい姿をからかわれる事もなかった。
いや、もうすでに恥ずかしいチグハグな服装は晒してしまったが。
完全無防備を見られるよりは全然マシである。
とにかくやったぞ! 勝ったぞ! バンザイ!
何に勝ったのかはよく分からないが、きっと自分自身とかそう言うモノにだ。
着替え終わってみれば、何と言う事もなかった。
自分はただ、普通に着替えただけなのだ。
虐められそうだとクーちゃんを誤解してしまい、悪かったなぁ。と悠真は思う。
考えてみれば、男の着替えなんか覗いたって楽しくも嬉しくもないのに。
彼は確かに暴力的だが、悪ふざけなどしない人なのかも知れない。
ヴィヴィアンがあんなにも「クーちゃんクーちゃん」と言って懐いているのは、そう言う事なのだと思う。
助けてもらったから、と言う理由以上に、彼を信頼しているように見えたし。
それに値する人物なのだろう。
――あぁ、疲れちゃった。もぉヤだよ、こんなのぉ。
水着を着て温泉に入っただけで、こんな神経衰弱レベルの展開になるなんて、朝は思いもしなかった。
情けなくて号泣してしまいそうである。
――それもこれも、あいつらが悪いんだぁ……ううっ。
「おい、そろそろ着替え終わったか」と不意に、クーちゃんがこちらを覗いた。
悠真は驚き過ぎて、手に持っていた水着を彼にぶん投げていた。
反射であった。
投げようと思って投げたわけではない。
まだ濡れていた水着を顔面に喰らったまま彼が、震えている。
悠真は恐怖で「ひ……っ」と息を吸っていた。
「てんめえぇ……マジコロされたいのか……」
低い声が、怖い。
怒鳴られない事が、逆にすごく怖い。
――怖い。怖いよ。恥ずかしい。怖い。誰かタスケテェ……!
助けてくれる人など居ない。
自分が酷い事をしたのだから、きちんと謝らなければ。
「ごっ……ごっ……ごめっ……ごめんなさい……」
これまで出した事もないような、低い声が出た。
喉に妙な力が入っていたのだと思う。息が苦しくて、呼吸が乱れる。
悠真は震える手で恐る恐る、濡れた水着を彼の顔から剥がした。
布の下から現れたクーちゃんは、地獄の番人みたいな表情でこちらを睨んでいた。
怒りが強過ぎるのだろうか。目が充血していて、とてもとてもとても怖い――。