05-1
■05■
『声をかけても、肩を揺すっても、私は目を開けたまま呼吸をくり返すだけで返事もしなかったから』
――ん? 何だ今の。
悠真は目を開け、ヴィヴィアンの方を見た。
悠真の腕の中で相変わらずクッタリとして、その髪が水面に広がっている。
――そう言えばそんな事を言ってたっけ。今と同じ、だよね。
だからクーちゃんは殴って、蹴って、ヴィヴィアンの意識を呼び戻したと言ってたっけ。
自分には出来ない事だ。と悠真は思った。
自分の言葉に傷ついた子を、どうして殴れる? 出来るはずないではないか。
「ミルドレッドさん」
「なぁに? ほら、もっと飲んで飲んで。汗が出て気持ちいいわよ」
「お願いしたい事があるんだけど」
「あら。何かしら」
「クーちゃんを、地球に呼んでもらえないかな」
ミルドレッドは驚いたように、少しだけ目を見開いた。
「この子が一番信頼してる人じゃないと……だから、僕ではダメなんだ」
自分が原因なのだから、クーちゃんと同じように殴る蹴るしたって、戻って来るはずない。
暴行をする勇気もなかった。
でもきっと、クーちゃんなら。
どんな手段を使ってでもヴィヴィアンを連れ戻してくれると思う。
「そうね。クェンティンなら、この子を呼び戻すかも知れないわね。空に戻れないのなら、彼を呼ぶしかないわよね……分かったわ。トバイアスに連絡を取るわ」
そう言ってくれて、悠真はホッとした。
「ごめんね、ビビアン……。僕、クーちゃんが来たら、必死でお願いするよ。きみをこんなに傷つけたって、謝罪もする」
だから、戻って来て欲しい。心の奥に隠れてしまった女の子。
だけど、でも。
戻って来た彼女に、居場所を提供出来るだろうか。
今、遥斗が作っているのは、多分〈宿り木〉だ。
ただの人形なら八桁なんて馬鹿げた金額が支払われるわけがない。
〈宿り木〉だから、その値段なのだ。
祖母から魔術師としての素質を唯一受け継いだ遥斗なら、〈宿り木〉を作れる。
彼にしか作れない。
……譲ってもらう? いや無理だ。
八桁後半の金など、自分には用意出来ない。二千円の使い道ですら慎重にならざるを得ないのに。
でも、他に〈宿り木〉は無い。
悠真に作れる人形は、ジンジャービスケットモドキが限界だ。
あれはただのダンボールだし、どうしようもないではないか。
――おばあちゃん、どうしよう……。どうしたらいいのか、分からないよっ。
両親を亡くした悠真を引き取り、オーフェリアと遥斗に託したのが祖母の花純だ。
悠真の居場所をくれたのが祖母で、今の生活が出来ている。
実母に魔物への生け贄として殺害され、横取りをするように救い出してくれたのが精霊・オーフェリア。
魔術師であり人形作家だった祖母がその昔、最高の星の配置を利用して作り上げた人形に、悠真の魂を移し入れてくれた。
前後数世紀に渡って、そのような配置は巡って来ない。
奇跡のような瞬間だったと祖母は言っていた。
その時に祖母が作った〈宿り木〉は、各惑星のエネルギーを真正面から受け止めきった最高傑作だと言う。
もし地球が滅ぶ事になったとしても、その人形は物体として残り、宇宙を漂うのではないかと笑っていた。
それほどの〈器〉だ。
――そうだよ。皇女のための〈宿り木〉に相応しいよね。
星は巡る。
その時が来た、と言うだけなのかも知れない。
自分が去ればいい。それだけの事だ。
悠真は産まれた直後に殺された。
元々〈ここ〉に居るはずの無い人間なのだから。
ヴィヴィアンが戻って来たら、この身体を明け渡そう。
最初からそうしていれば、あんな意地悪を言わずに済んだのに。
――本当にごめんね、ビビアン。僕、生に執着していたのかも知れない。
生きる事に対し、否定的だと自分では思っていた。
生きる事を肯定してる人の気持ちなんて、分からないと思っていた。
だけど、違ったのだろう。我ながら、情けない。
神社のふたりが『お前のよき心で迎えてやるがよい』と言っていたのも、きっとこの事なのだろうと思う。
――僕は、よき心になれたのかな。分からない、けど。早く戻っておいで、ビビアン。
悠真なりの決断は出来た、から。
その時。
ごぼっ。と泡が浮かんで来た。
水色のお湯が揺れ、悠真とミルドレッドはその泡を見つめた。
沈黙が、ふたりを包む。
充分な間の後、ミルドレッドがチラリとこちらを見た。
思わず「ぼ、僕じゃないよっ」と否定して、逆に恥ずかしくなる。
ミルドレッドの冷たい視線が顔面に突き刺さるのを、悠真は感じた。
――痛い痛い。視線が痛いよぉっ。
ごぼっ。ごぼごぼっ。
――……っ?
がばがばがばがばっ!
大量の泡が無数に沸き上がり、水面が大きく揺れる。
「悠真っ」と腕を引かれ、ヴィヴィアンをミルドレッドに取り上げられた。
理由がわからないながらも、悠真は慌てて湯船から脱出する。
お湯は噴射をするように、空に舞い上がった。
思わず見上げ、息を飲む。
プリズムが上空で反射し、穏やかに煌めいた。
「かっ間欠泉……?」
間欠泉だなんて、風呂には向いていないのではないだろうか。熱湯が吹き出すらしいし。
「なにノンキな事言ってるのよっ!」
ミルドレッドに引っ張られ、脱衣場へ逃げ込む。
「あいつらよっ!」
「えっ?」
ロッカーから服を取り出し、奥へと逃げる。
全身ずぶ濡れの水着姿で老舗旅館風な場所を走るのは、すごく恥ずかしかった。
でも、他に人は見かけないし、それだけは救いだ。
階段を駆け上がりながらシャツを着込む。
そしてズボンは……履こうか? 履けるのか?
少し想像してみた。きっと履きづらい。
逃げるスピードも落ちるに決まっている。
それに濡れたトランクスの上からズボンを履いたら、不幸な事にならないか? いや、なる。
これは持って逃げるしか無い!
上半身だけシャツを着て、びしょ濡れトランクス丸出しで、靴下すら履いていないなんて、下品な格好である。
でも今は、そんな事を気にしている場合ではない事も事実であった。
「あいつら、始末してもらったんじゃなかったんですかっ?」
「言ったでしょ! ボコボコにしただけだ、って!」
そう言えばそうだった。
なんかミルドレッドがモノマネしてたっけ。『許可が無いでござる』的な。
「トバイアスの私室……逆にダメよね、あいつらも余計に元気になっちゃう」
「え?」
「仕方ない……足止めの結界を張って時間を稼ぐから、その間に最上階まで行って!」
またヴィヴィアンを受け取る。
「は、はいっ。この階段上がればいいんですよね」
「そうよ、急いで!」
ミルドレッドをひとり残して逃げるのは申し訳ないが、悠真には何も出来ないし、自分の腕の中にはヴィヴィアンが居る。
この子を抱きっぱなしでそろそろ腕は痛かったけれど、そんな事は言っていられない。
決して体育会系ではない悠真は、階段を上る事さえつらくなっていた。
荷物は邪魔だし、ヴィヴィアンは大切だし。必死で頑張り、息切れしながら上ってゆく。
階下からミルドレッドの声が聞こえて来る。
言葉ではないようだ。声と言うか音と言うか、聞き取り難い感じの〈音声〉だった。
少しの間の後、バヒュッ! と空気が抜けるような音がして、ミルドレッドがこちらに駆け上がって来た。
そして、追い抜かれる……。
「次は目くらましよ、早くっ」
ヴィヴィアンを奪われ、腕を引っ張られる。
――体力が……スタミナが……。
身体が思うように動かない。空腹のせいかも知れないと思った。
そう言えば、何時間食べてないのだっけ。眠ってもいないし。
悠真の身体の本体は、三十センチほどの単なる人形だ。
それが〈悠真〉として見えているのは、動いているのは、触れるのは、食事のエネルギーを〈そのように〉使っているから。
見えるように、動けるように、触れるように。
それが術なのだ、と昔、聞いたような気がする。
物体へエネルギーを〈入れる〉だけなら、出来る人間はかなり居る。
職人の作品なんかがそうだと教えられた。
霊体の方も、器との相性が良ければ「ここに決ィ~めた」と、勝手に棲み付く事が出来る。
特に人形や鏡や水辺や強烈な電波の傍は、宿りやすいらしい。
多くの実例だってある。たまには人形の髪だって伸びたりするだろう。写真に写ってしまう事もたびたびあった。
でもそれらは結局は、単なる〈物体〉でしかない。
〈宿り木〉のように、霊体本人を〈再現〉したりはしないのだ。
遥斗の取引相手がどのような人物なのか、または組織なのかは分からない。
でも、それを利用する事の出来る、珍しい相手なのだろう。
〈使える〉者でなければ、いくら〈宿り木〉とは言え、やはり単なる物体でしかないのだから。
〈宿り木〉に憑依した者が、人間として生きる。
〈食事〉と言う行為はそれにかけられた〈術〉であり、そのために必要な条件なのだ。
だからエネルギーが切れかけると、苦しい。
こんな感じになってしまうのだな。足を動かすだけで、もう必死だ。