04-2
彼女に言われた棚を見ると、未開封のビニール袋がサイズ別に並んでいた。
これが水着か。
悠真は無難な、ロングタイプのトランクスを選んで履いた。
それから奥へ続く扉を開ける。
扉の外は、露天だった。風に肌を撫でられ、少しくすぐったい。
周囲を囲む生け垣の緑をバックに、白い湯気が漂っていた。
岩風呂に視線を落とす。
午前中の淡い光の下、少し水色に染まったミルク色の湯が、風を受けてその水面を揺らしていた。
指先を浸けてみる。少し熱いぬくもりが、身体の中へと流れ込んで来た。
気持ちがいい。
近くにあった桶で数回、掛け湯をし、それから湯へ浸かった。
最初は軽く肌に突き刺さるような温度だったが、五秒ほどで慣れた。
慣れてしまえばぬるいくらいの温度だと思う。
身体が解れてくると、気持ちも緩む。
強張りが少しずつ、外側から内側に向かって解れてゆく感じだった。
まぶたが重く、眠くなる。
けれど気持ちは少しも晴れない。
ヴィヴィアンを深く傷つけてしまった事実だけが、悠真の胸に沈んで動かない。
気分転換なんかで、気持ちを切り替えてはいけない。
あの子を助けられないまま、自分だけが日常の中で笑う事なんて、出来るはずない。
長いため息を吐いて、目を閉じる。
――どうしよう。どうすればいいんだろう。気持ちも考えもまとまらないよ。
目を閉じたまま首を上に向けると、まぶたを通して光が入り込んで来る。
淡い眩しさを脳で感じながら、ぼうっ、としていると。
扉の音がして、誰かが来た気配がした。
――あれ。ここ、貸し切りしてくれたわけじゃないんだな……。
目を開け、そちらの方に視線を向けると、ビキニを着たミルドレッドが、セパレートを着たヴィヴィアンを抱っこしていた。
脚が……長い!
「うわっ」と叫んで、思わず視線を反らす。
――すっ、すごい……あんな露出の多い女の人、ナマで見た事ないっ。
一緒に暮らしているオーフェリアでさえ、あんなに肌は晒さない。
自宅であの布の量と言うと、下着の上下を着けた感じか。
見せてもらえるわけがないし、見られるわけがない。
「失礼ね! 悲鳴あげて顔を背ける事ないでしょう!」と怒られた。
「悠真、こちらを向いて。早く」
「えー……で、でも」
顔どころか、耳まで熱くなっている。
肩をグイッと引かれ、無理にそちらを向けられた瞬間。
胸元に、ヴィヴィアンを押し付けられた。
顔を見ると、相変わらず無表情なまま。
それを見た途端、冷たい感情が蘇る。
「しばらくあたためてみましょ。それでダメなら、どうしましょうか」
微笑むミルドレッドを見上げる。
下から見ると、アンダーバストからトップへ向かうラインが凄く豊かだった。
バストトップは上を向いていて、少しの動きで結構弾む。
ビキニの色は赤の強いオレンジで、あんな色のカクテルがあったような気がする。
カシス、と言っただろうか。
情熱的なその色は、彼女の白い肌を強調していた。
ミルドレッドはこちらに背中を向け、少し前屈みになり、何かを取り出した。
それは、盆だった。
盆に、何かが乗っている。
「あなたもお疲れでしょ、悠真」
盆を水面に降ろすと、それは浮かんだ。
盆の上には、小さくて細い湯のみがふたつ。それと、急須だ。
湯のみを差し出されて持たされ、お茶を注がれる。
左腕でヴィヴィアンを抱き、右手でお茶を受けた。
「どうぞ」と微笑むミルドレッド。
悠真は言われるまま、それを口にした。
口の中もほわん、とあたたまる。
「これ、何?」
「麦茶よ」
「そっか……緑茶だと思ってたから、一瞬分からなかったです」
「緑茶だとカフェインが強いでしょ。悠真は昨夜からお食事もしていないし……そうね。お風呂から上がったら、お食事しましょうか」
「え。ここでですか」
「そうよ。レストランもあるし、ティーラウンジのカフェオレすごく美味しいわよ。私、オムレットも好きなの」
「待ってください。僕、お金持って来てないですっ」
いや一応、財布は持って来た。
でも、こんな高級そうな所で食事出来るほどの金など持ってはいない。
千円札が、何枚入ってたっけ? と中身を想像してみる。
確か、二枚は入ってると思うけれど、二千円で何が食べられると言うのだろう。
と言うか、一度の食事で全財産を使い果たす趣味はない。
「子供が支払いの心配するなんて、可愛くないわ」
「でもっ」
「いいから――それに私、あなたの事は調べさせてもらったわよ」
「い、いつの間に? て言うか、どうして」
「トバイアスが話しているのを聞いたから。クェンティンがヴィヴィアンを地球のとあるショップに向かわせた、と言っていたもの。調べないわけがないわ」
「……それ、いつの事ですか」
「そうね、あなたのスケジュールで言えば、昨日のお昼休みくらいかしら」
そうか。よく分からないが、そんなに短い時間ならば、大した情報など掴んではいないだろう。
悠真の過去まで調べたわけでもないはずだ。なら、よし。
「地球に産まれたあなたでも、その姿を維持するためには、お食事は欠かせない条件のはずよ」
「ま、まぁ。人間ですから」
「まぁ、ご冗談を。ふふっ」
――えっ?
「クェンティンは短気で単細胞で単純だけれど、無責任な事は言わないわ。ヴィヴィアンに必要な物があなた達のショップにある、と言ったからには〈あるはず〉なの」
罪悪感が胸で疼く。
ミルドレッド。彼女は何を言おうとしているのだろう。
「それ、って?」と問う声が震えた。
彼女は「ふふっ」と笑う。
「見当はついているけど、まだ言わないであげるわ。あなたにも必要だものね」
小首を傾げ、微笑むミルドレッド。
小悪魔のような視線が、悠真の神経に突き刺さる。
「その〈身体〉――」と言う呟きに、悠真は「うっ」と息を詰まらせた。
「こうやって触っても、ほら。あたたかくて脈打ってて」
その手が悠真の腕を撫で上げる。
悠真はビクッとして避けようとしたけれど、ヴィヴィアンを抱いているので思うように抵抗出来ない。
激しくも動けなかった。
この子の顔に、お湯をかけたくない。口や鼻に入ったら大変ではないか。
ヴィヴィアンは人間、ではないけれど。
でも、まだこんなに小さい子供だ。
「こうやって髪を引っ張ると」との言葉通り、こめかみ周辺の一束を掴まれる。
「いっ痛っ……止めてくださ……!」
グイグイと二度、三度。
リズミカルに引っ張られて本当に痛い。
彼女の、細い二の腕の筋肉に、強い力が込められているのが分かった。
「ほら。涙が滲んで瞳が潤んだわ、可愛い。生々しいその身体を、あなたは維持しなきゃ。ね?」
今度は掴んでいた髪をナデナデされる。
「だから、一緒にお食事をしましょう」
悠真はコクコク、と頷いた。
食事をするしないの言い合いで、なぜ虐められなければならないのか。
ジンジンと熱いこめかみの痛みを我慢しながら、悠真は困惑していた。