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堆積した有機物が水分を溜め込んで、どろりとした沼になった。
そこは深い森の奥で、訪れる者など居ない。
だが、満月の夜ごと女は通った。
まだ若い女だ。
少女としての幼い面影がありながら、成人しているようにも見える。
妙齢、と言う言葉が似合う風情の女であった。
彼女は黒くて長い外套を身に纏い、腰まである髪をそのまま垂らしている。
円らな瞳は前方を見つめ、目的地へ向かって黙々と歩いた。
女が沼の淵に立つ。
月の光が、ヘドロ状の沼を浮かび上がらせていた。
ごぽり、ごぽり。と泡を吹き出し、生命活動を続けているような沼を見つめ、満足そうに微笑む。
それからおもむろに、両腕を前方に差し出した。
女の腕は白くて細かった。
肌もまだ若々しく、きめ細かくて滑らかである。月光を受け、青白く輝く。
女の右手には、鈍く光る刃物が握られていた。
ナイフだ。
それがすうっと、左腕の手首に充てられる。
そしてほんの、瞬く間の後。
赤い筋が、浮かび上がる。
筋から溢れ出る赤い液体は一滴二滴、などと言う量ではなく。
ぼとぼとぼとぼと! と重そうな音を立て、沼へと落ちた。
ざわり。と沼の表面がざわめく。
無数の波が発生し、それらは女の血が滴った場所へ集まってゆく。
静かな空間に湿った音が、ぐちゅりぐちゅり。と響き渡る。
鳥の声や虫の音どころか、風に揺れる草木の音すらない静寂の中で。
女は沼の、様々な淵に立ち、あちらこちらで同じように血を滴らせた。
そのたび、女に縋るように気配が追いかけて来る。
そんなに広くはない沼だが、一周し、二周し、そのうち何周したのか分からなくなった頃、夜明けを告げる鳥の声を聞いた。
女は空を見上げた。
まだ輝いて見える星もある。だが、今日はここまでだ。
自分の血を飲み、沼の中で存在感を増してゆく〈それら〉に対し、女は次の約束を呟いた。
「次の新月こそ、満願の時――」
女は、臨月を迎えている自分の腹を、愛しそうに撫でさすった。
そして約束通り、女は来た。
通い慣れた道だが満月の夜とは違い、足下が全く見えない。
だが、分かっていた事だ。
これまで何度となく通い詰めた道を、勘と音を頼りに進んでゆく。
沼の表面で泡が弾ける、あの音だ。
耳を済ませば聞こえる。オルゴールのように美しく、うっとりと聞き惚れてしまいそうになる。
臭いと音の大きさで、沼と自分がどの程度の距離に居るのか。
何となく分かる。
ある程度の距離まで来て、立ち止まった。
一度荷物を地面に降ろした後、女は持って来たキャンドルに火を灯した。
カップキャンドルを足下に置き、周囲を確認する。
自分の立っている位置は、大体予想通りだった。
女の右手にはいつものように、儀式用のナイフが握られる。
最終仕上げのため、いつもより手入れをして来た。丁寧に研いだから切れ味もいい。
そして女は左腕で、赤ん坊を抱き上げた。
今は眠っている。
数時間前に、女が産んだばかりの子だ。
「これで総仕上げよ。こいつを贄にして、わたしは魔物の力を手に入れる」
これから先、自分の欲を満たすために魔物を使役する。そのための儀式である。
自分に対抗意識を燃やしているあの女も、セクハラして来る教授も、バイト先の偉そうな先輩も、束縛する両親も、みんなみんな、許さない。
思い知るがいい。
自分にひれ伏さない者は、ひとり残らず不幸にしてやる!
これからは金も欲しい。
付き合う男のステイタスも大切。
自分の要求を拒否する者は許さない。絶対に。
野生の魔物を探し出し、餌付けをし、育てて来たのはそのためだ。
他の人間より霊力の高い男を騙し、子を宿す。
安定期に入った時、その男も殺し、この沼に捨てた。
魔物達は喜んでくれた。
肉体も旨かったらしいが、その魂も美味だったらしい。
「あの男の血を引く子よ。さぁ、存分に味わってちょうだい!」
父子揃って沼の餌になるのかと思うと、不憫過ぎて笑えた。
女がちょっと不幸な捏造の経歴を語れば、男はすぐに騙される。
こいつの親もそうだった。
誠実で暢気で、人を疑おうとすらしなかった。
バカである。
バカが利用され、殺されてしまうのは仕方がない。バカなのだから。
女は何も着せていない赤ん坊を沼の上に掲げ持ち、その腹にナイフを深々と埋めた。
水面がざわめくと同時に、左腕にあたたかな液体が流れ落ちて来る。
鉄臭い液体であった。
――穢らわしい!
女はそう思った瞬間、子供を投げ捨てていた。
腹にナイフが刺さったまま、沼に落ちてゆく。
どぷん!
物体の落ちる音がいやに大きく聞こえた。
そして、いつも以上のざわめきがバシャバシャと響き渡る。
魔物達が興奮しているのが分かった。
喜んでくれているようだ。
さぁ、そして。約束をしたのは、あとひとつ。
あの子の、魂。
肉体が滅びた後に、一度浮かんで来るはず。
女は少し緊張しながら、波の中心部を凝視していた。
すると、数秒後。
淡く緑色に発光する綺麗な、十五センチほどの小さな光が、すうぅぅ、と空に向かって浮かんでゆく。
あれが魂だ。こいつの父親の時と同じだ。
上昇し続けるあの光を、沼から触手のような物が飛び出して来て、追いかけ、捕まえようとする。
グロテスクな長い腕だ。それが空に向かって伸びてゆく。
沼から伸びる影は三十センチ、五十センチ、そろそろ一メートル……間もなく触手の先が魂に辿り着く。
そう思った、瞬間。
風が吹いた、ように見えた。
女の視界の、右から左へ。
気付けば魂の光は消えていて、触手は空振りの弧を描いた。
そして、それはそのまま。勢いを殺す事なく。
女の元へ――。
一瞬の小さな悲鳴の後、何かが水辺へ落ちたような音が響いた。
「申し訳ありません……」
近くの樹の上に、女が居た。
切れ長の涼しい瞳が伏せられ、苦しげに眉を歪めている。
腰まである長い髪は後頭部で結い上げられ、風に靡いている。
スリムな身体を包んでいるのは、白いシャツと細身のパンツと、ブーツであった。
彼女の手に、淡く光る魂が抱かれている。
「間に合いません、でした」
閉じられたまぶたから、涙が零れた。
森の奥から、もうひとり。
白髪混じりの、高齢の女が現れた。
呼吸がヒーハーと乱れ、走り疲れたような様子である。
「あ、あなたが間に合わないのに、他の誰が助けられたと言うのかしら。無理よ、無理無理。無理だったのよ、オーフェリア」
高齢の女は、樹の上に居る女に向かって言った。
オーフェリア。それが女の名前である。
「ですが、花純様」
「仕方ないわ、こんな事もあるわよ。とりあえず、下りていらっしゃい」
花純と言う名の高齢女性は、息を整えようとして大きく息を吐いた。
オーフェリアは呼ばれて、素直に地面へと下りる。
魂を柔らかく抱いたまま、花純の前へ跪く。
「あの子だって悪いのよ。もう少し早く知らせてくれたらいいのに……自分の子の危機なのだから」
「あ、はぁ……いえ。ご子息様は別に、悪くはないと……」
花純の息子は魔物に食われてしまう寸前、自分が騙されていた事を悟った。
子供の未来を心配した彼は最後の瞬間、自身から〈念〉を切り離す。
〈念〉とは、我が子を思う〈気持ち〉の事だ。
断末魔に生まれた、強い〈感情〉である。
その〈気持ち〉が我が子の危機を花純へと伝えたのだが、少しばかり遅かった。
〈念〉は〈人格〉とは違い、あまり理性的ではない。
息子本人ほどの動きが出来ないのも、仕方が無い事であった。
「ノンキでお人好しの息子なんて、持つものじゃないわねー。あの子は兄弟の中でも一番心の広い、優しい子だったけど、それがこのように災いするのだもの。善し悪しだわぁ」
花純はオーフェリアの腕の中の、小さな魂をしばらく見つめた。
「それにしても――可愛いわね」
「え? は、はい。もちろんです。可愛いです」
「ババの欲目じゃないわよね?」とオーフェリアの顔を覗き込む花純。
「可愛らしいです、愛らしいです。間違いありません」
「そうよねぇ。あんな女の腹から産まれたなんて、思えないわぁ」
花純はチラリ、と沼の方を見た。
さっきまで波打っていた表面が、静まり返っている。
魔物との〈約束〉は息子とこの子の身体、そして魂までがセットだったはず。
だから、約束は守られなかった事になる。
あんな女のひとりで埋め合わせが出来るほど、この子の魂は下等ではない。
「アテクシの可愛いムチュコタンをたらし込んで、このフジコフジコ!」
花純は突然、沼に向かってそう叫んだ。
オーフェリアはギョッとした。
「ふんっ。このくらい言っておけば供養になるでしょ」
「……は?」
「あら。だって、嫁って姑に勝てればそれでいいんでしょ。負けたフリしてあげたのよ」
「う……私には、よく分かりませんが」
「地獄への花道よ、花道っ! さ、帰ってこの子をお風呂にでも入れてあげましょう」
「えっ! どう言う意味ですか!」
歩き出そうとしていた花純が、跪いたままのオーフェリアを見つめる。
そして数秒後。
「あぁ、そうか。あの頃はまだあなたと巡り会っていなかったわね。ワタシね、素敵な人形を持っているのよ。昔作ったの。〈宿り木〉って言うのよ」
「はい。花純様は人形作家ですよ、ね」
花純は「ふふっ」と少し得意げに鼻で笑い、再び歩き出した。
「帰り着くまでワタシの可愛い孫ちゃん、よろしくね」
「はい」
「オーフェリアのような美女に抱かれて、きっと緊張してるわよ。この子は幸せねー」
ふたりと孫は、夜の森を移動する。
新月の、真っ暗な森の中を。
しかし彼女達は迷わず、戸惑わず。
自分達の歩くべき道を、しっかりと踏みしめながら進んで行った。
もう、随分前の話である。