3年前
「本当にできるの?」
玲奈は不安そうに絵理の顔をのぞき込んだ。時刻は午前1時過ぎ、14歳の少女二人が出歩いて良い時間ではない。
「大丈夫、でろでろの言うとおりにすれば何でも願い事を叶えてくれるもの」
『でろでろ』とは姿は見えないが絵理だけは声を聞くことができ、絵理は自分の中に確かにその『存在』を感じている。彼の透き通った声色は優しく、好青年を連想させる。昔、絵理は『でろでろ』に名前の由来を聞いたことがあったが彼は「秘密」とだけ言った。彼は秘密主義者なのだ。しかし、「お洒落な服がほしい」だとか「空を飛んでみたい」だとか、果ては「宇宙にいってみたい」だとかそんなとんでもない願い事もでろでろは叶えてくれるのである。
「でろでろも任せろだってさ」
心のなかのでろでろの声を絵理は代弁する。でろでろの存在は親友の玲奈だけにしか明かしていない。
「ねえやっぱり止めようよ、私怖くなってきた」
「すぐに終わるから!玲奈は怖がりだな」
玲奈の引っ込み思案な性格だけには心底辟易とさせられる。一ヶ月も前から準備していた『暦渡り』を土壇場で中止するなんて絶対に嫌だ。何のためにでろでろから教わった呪言を毎晩かかさずに紡いできたというのだ。『暦渡り』によって私達の夏休みは永遠に続く。夏休みの初日、8月1日に時間を戻すことによって。
絵理は公園の草むらに落ちていた枯れ枝を使って、でろでろの指示通りに魔法陣を地面に描き始めた。『暦渡り』は少し高度な魔法で絵理の手伝いが必要不可欠だとでろでろは言った。でろでろが突然自分の中に現れてから、彼に呪文の手伝いを頼まれたのは初めてである。玲奈は最初はソワソワして落ち着かない様子だったが、真夜中の暗がりに慣れてきたのか公園の隅にあるベンチにちょこんと腰掛け足をバタつかせた。時折静かな風が通りぬけ木々がザワザワと話し始める。夏虫も休むことなく鳴き続け、まるで二人を子守唄で寝かしつけようとしているのではないかと絵理は思った。
30分ほど経ってようやく魔法陣を書き終えた。まだまだ幼い絵理にとっては重労働でお気に入りのパジャマも汗でぐっしょりと濡れてしまった。しかし、魔法陣の全体を眺めると圧巻であった。絵理は完成度の高さに満足した。
「玲奈おまたせ、できたよ!」
ベンチを見ると玲奈は横になっていた。近づくとスースーと寝息を立て夢の世界に旅立っていた。こんな時間に連れだしては無理もないか、と少し反省しながら絵理は玲奈の身体を揺すった。
「玲奈、起きて、完成したよ」
玲奈はゆっくりと身体を起こした。
「もうできたの?うわっ絵理、汗臭い」
「大変だったんだから、この汗は努力の証拠」
えっへんと腰に手をあててポーズをとると、どこからか高笑いが聞こえた。でろでろである。
絵理はまだ眠気のとれていない玲奈の手をひいて魔法陣の中心に駆け寄り二人は両手を繋いでお互いに向き合った。
「でろでろ、準備出来たよ、お願い」
絵理はでろでろに願った。すると魔法陣が輝きを放ち二人は眩しさで顔を歪ませた。
「玲奈!危ないから絶対に手を放さないで」
「う、うん」
刹那、今まで一度として耳にしたことのないような重低音が公園に響き渡る。二人の握った両手に力が入る。何かがおかしい、根拠の無い胸のざわめきが絵理を襲う。どこかで何かが大きな音を立てて割れた。途端に大風が吹き荒れ公園の落ち葉やゴミをさらいグルグルと魔法陣の周りを周回し始めた。まるで二人を逃がすまいとしているように。二人の不安の芽はぐんぐん成長し大木へと変化する。ふとピキピキとガラスにヒビが入るような音とともに二人の真上の空間が避け始めた。裂け目の向こう側から何か悍ましいものが二人を覗いている。
「絵理、怖いよ!どうなっているの?」
「わかんない!でろでろ、でろでろ。返事をして、助けて!」
『ナンダイ』
裂け目の向こうの悍ましい声が答えた。とても美しい声だった。聞いたことのある声だ。
「でろでろ……。なんなのその姿」
絵理は絶句した。でろでろはあまりにも醜かった。世界のありとあらゆる汚物を固めて捨てたような姿。体中に眼球が張り付いており、ギョロギョロと頻繁に動いている。かろうじて顔のようなものが確認できるが耳も、鼻も見当たらず、大きな口だけがニタニタと薄ら笑いを浮かべている。
『なんなのはないだろう、絵理。僕はずっと君のそばにいたじゃないか。君が笑っているときも、泣いているときも、怒っているときも、いつだってそばにいた。兄弟みたいに喧嘩したこともあったじゃないか』
「違う……。でろでろは、でろでろはこんなんじゃ……。」
『そうそう、僕は『でろでろ』という名前の由来を秘密にしていたよね。今教えてあげるよ。そのまんまさ、僕の姿を一言で形容しているんだよ。『でろでろ』。なかなかいいセンスをしていると思わないかい?自分でつけた名前なんだ。なあ、絵理。褒めてよ。僕が願いを叶えてあげた時みたいに。「でろでろ、すごい!」ってさ』
でろでろが口を開くたびに汚物を何倍も濃くしたような腐臭が漂う。絵理は言葉を失った。
『酷いなぁ、絵理ちゃん。まあ、いいや。君とはもう、終わりさ。あの老いぼれババアの鎖を断ち切ることができたんだから。さて、下界の土を踏むのも何百年ぶりだなあ』
ぬるりと空間の裂け目からでろでろが這い出し、ボタッと地面に落ちた。
『用意しておいた食材も美味そうだ。ああ、本当に何百年ぶりだろう。腹を満たせるのは。』
恐怖で身体が動かない。蛇に睨まれた蛙である。玲奈は目に涙をいっぱい浮かべていた。意識が遠くなっていく。これは現実なのか。夢であってほしい。これは夢だ。これは夢なんだ。
絵理の視界はそのまま暗転した。
「…リ………エリ……」
遠くから声がする。とても安心する声だ。
「絵理……絵理ッ」
絵理は飛び起きた。途端、眩い光が視界を奪い絵理は目を細めた。独特な薬品の匂いが鼻を突く。だんだん目が光に慣れてくると自分が白い部屋のベッドに座っているのがわかった。どうやら自分は病院に運びこまれたらしい。
「あぁ、絵理!よかった……」
母親が絵理に抱きついてくる。母親の顔はすこしやつれている様に見えた。
「お母さん、玲奈は?玲奈はどこ?」
「絵理……」
母親の表情が強張った。必死に何かを言おうとしているが言葉にならないようだ。母親は胸に手を当て深呼吸をすると、口を開いた。
「絵理、よく聞きなさい。今から話すことは私達家族にとってとてもとても大事なこと。呪われた朝比奈家の宿命の話よ」
絵理の母親は淡々と語り始めた。絵理は何時になく真剣に話をする母親の言葉を、頭の奥でする鈍い痛みに耐えながら聞いた。
時は江戸時代末期に遡る。黒船来航に始まり桜田門外の変、幕長戦争、大政奉還と王政復古の大号令、世は激動の時代だった。そして人の世が乱れると必ず魑魅魍魎、奇々怪々が現れ世を攫わんと暴れ出るのだ。その妖怪たちの大将を『常闇』と言った。常闇は世の混乱に乗じて人々を喰らい数多の魍魎を産み世界の主導権を握ろうと企んでいた。そんな時立ち上がったのが朝比奈家当主、朝比奈愁然だった。愁然は生まれつき不思議な力を持ち、女性でありながらその才能を買われ天皇の相談役としてその地位を築いた。彼女は世の混乱を収めんとした天皇から命じられ常闇の霊媒に駆り出したが、常闇の力はあまりにも強大だった。常闇を葬り去るのは不可能だと判断した愁然は常闇を自身の身体に封印し末代まで飼い続けることにしたのだ。そして、朝比奈家に産み落とされた赤子は代々常闇の封印を受け継ぐ宿命を負わされたのである。
「私達の髪の色が白いのも妖力を持った人間の証なの。朝比奈家は代々女の子しか生まれず、必ず妖力を宿している」
母親の話はあまりにも衝撃的だった。自分の体の中にそんな怪物が眠っていたとは……。そしてそれが『でろでろ』の正体だったなんて。
「私、昨日の夜胸騒ぎがして起きたの。そしたら絵理が家に居なくて不安になってあなたを探しに行ったのよ。そしたら公園で倒れているあなたたちを見つけたの。私が駆けつけた時玲奈ちゃんは……」
一呼吸の沈黙が流れた。
「玲奈ちゃんは亡くなっていたわ、魂が抜けたように身体だけ横たわっていたの」
絵理は言葉を失った。玲奈を死なせてしまった罪の意識が絵理を支配してグルグルと頭を廻った。玲奈は止めようといっていたのに、無理やり連れだしてくだらないことに巻き込んでしまった。何故でろでろは私だけ食べなかったのだろう、いっそ私のことも食べてくれればよかったのに。あとで聞いた話だが母もその母もでろでろの声を聞くことはできなかったという。絵理がでろでろと会話していたことを伝えるととても驚いていた。でろでろの声を聞くことができたから私は唆されて封印を解く手助けをしてしまったのだ。でろでろは今はもう行方がしれない。幸い大きな事件は今のところ起こっていない。