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「どうだ、一杯」
帰り支度をしていると、同僚の沢村が声をかけてきた。
「そうだな。軽くいくか」と俺は沢村の誘いに乗った。週末くらいは息抜きをしないとやっていられない。かといって、先週のようなドラマチックな出来事がそうそう起こるはずもない。俺と沢村は、会社を出ると行きつけの居酒屋に足を向けた。台風でもないのにやけに風が強い。猛烈な風に街路樹があおられて激しく揺れた。
「ひどい風だな」
「そういえば、爆弾低気圧がどうとか言ってたな」と沢村が答えた。
俺たちの行こうとしている店は、大通りから脇道に入った小さな路地にあるビルの地下だった。しかし角を曲がった瞬間、沢村がいきなり俺の腕を力一杯引っ張った。凄まじい爆音が響き渡って、俺たち二人はその場にしりもちをついた。外装の工事のために組まれた鉄材が崩れて、おれの足のほんの数センチのところに鉄の棒や鉄板が散乱している。
騒ぎを聞きつけて野次馬が集まり始めた。強風のために足場が崩れたのに違いない。もし、あと二、三歩前に出ていたら。異変に気づいた沢村がとっさに俺を引っ張ってくれたいなかったら。そう思うと血の気が引いた。
「ケガしてないか?」
沢村が聞いた。
「大丈夫だ。すまん」
いずれ警察がやってくるのだろうが、面倒に巻き込まれるのはごめんだった。ケガがないのを幸い、俺と沢村は群集に気づかれないようにこっそりその場を立ち去った。それから俺たちは大通りを渡って、中州の雑居ビルにある海鮮料理の店に行った。ビールを飲んで飯を食い、十時少し前に沢村と別れた俺は、電車に乗るために天神の駅に向かって歩き出した。
福岡駅が見える交差点まで来た時、青信号が点滅し始めた。次の信号まで待つのはかったるい。ビールの酔いも手伝ってそう思った俺はダッシュで交差点を渡り始めた。その時左折してきたワゴン車が猛スピードで俺のいる交差点に突っ込んできた。ライトの光に目がくらみ、立ちすくんだ俺の体の血が逆流した。
――もうだめだ
思わず俺は目を閉じた。
「ばかやろう。何やってんだ」
次の瞬間怒号が飛んだ。俺の体すれすれのところで止まったワゴン車の運転席から、中年の男が怒鳴っている。信号はすでに赤に変わって、車列が動き始めた。俺はあわてて頭を下げ、中央の分離帯に避難した。
――まさか、そんなことが
酔いのすっかり醒めた俺の頭の中に、今日の日付が変わるまでに死ぬと予言した昼間の女の言葉がよみがえった。
「馬鹿な……」
俺は声に出してつぶやいた。さっきの事故といい、今の車といいほんの数秒の差で、俺は死ぬか、大怪我をするかしてた。
「ただの偶然だ」
俺はもう一度声に出して自分に言い聞かせ、駅のコンコースへ向かった。一杯機嫌のサラリーマンや、天神周辺の飲食や販売の仕事で働いている女性たちが帰路を急いでいるが時間が遅いために夕方ほどの混雑はない。
駅の階段を上がろうとした時、一人の男が俺の正面から下りてきた。黒いジャケットに黒いジーパン、ニット帽をかぶって両手をポケットに入れている。一見、どこにでもいる若者といった感じだが、目付きがおかしい。俺の脳裡を不吉な予感が走った。
男はポケットから右手を出した。その手には細身のナイフが握られている。その刃が俺に向けられていた。
「わっ、わぁ」
俺は言葉にならない声を上げて、階段を転げるように降りた。男が追ってくる。コンコースの真ん中で俺は再び男と対峙した。男の目はぎらぎらと異様な光を帯びている。
その時誰かが俺の腕をつかんだ。
「こっちよ。はやく」
その声に聞き覚えがあった。富永亜紀だった。
亜紀は俺の腕を引っ張りながら、地下街に降りる階段へ向かった。男が俺たちを追ってきた。階段を降りる途中で亜紀が言った。
「指を切るのよ」
「何だって?」
「あんたの小指を切るのよ、早く。助かる方法はそれしかないわ。あたしにまかせて。ほら、目をつぶって。一瞬で終わるから」
俺は亜紀のいうままに、両目を固く閉じた。ひやりとする感触が小指に触れ、左の腕が痺れた。
「終わったわよ」
俺は自分の目を疑った。左手の小指の第二関節から先が消え失せている。
「これは……」
俺は絶句した。
「悪魔との契約を解く方法はこれしかないのよ。でもこれで命は助かるわ」
確かにさっきまで目の前にいた通り魔の男は消えていた。地上にパトカーのサイレンの音が響いている。
「君は一体……?」
「昼間、あんたを訪ねてきた女をひと目見てわかったの。それで、今日はあんたのあとをずっとつけてたわけ」
「お前もあいつの仲間か?」
「違うわよ。でもあの女が何者かは知ってるわ。あんたは多分あいつと馬鹿な契約を結んで自分の命を売った。どう、図星でしょう?」
俺は、嘲笑うような亜紀の言葉を聞きながら、呆然となくなった小指を見つめた。
亜紀は俺の前に電話番号の書かれたメモを突き出した。
「ここに電話してみなさいよ。取り合えず生きてくのに困らない程度には修理してくれるはずよ」
「俺の指は……」
「ああ、これ」
亜紀はそう言いながら切り取られた指を乗せた手のひらを広げた。
「まさか、最後の一本をあんたから貰うことになるとは思わなかったわ」
「何だって」
「人間の指三本。あたしはそれを捧げることを条件に悪魔と契約したわけ。これであたしはセレブになれる。もうあんたたちが近寄ることもできないような大金持ちと結婚して、一生贅沢三昧の生活を送るのよ」
亜紀は誇らしげにそう言うと、あまりのことに魂を抜かれたようにぼんやりとしている俺をその場に残して、ヒールの音をかつかつと鳴らしながら階段を上がっていった。




