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「それじゃあ、あたしはこれで」
女は立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ」
「まだ、何か?」
「俺には、君の言ってることがどうしても信じられない」
普通そうだろう。いきなり見知らぬ女がやってきて自分は悪魔で、あなたは今日死ぬと告げられたって信じられるわけがない。
「信じるか信じないかはあなたの自由よ。あたしには関係ないわ」
「君が本当に悪魔だという証拠を見せてほしい」
「証拠?」
「君の正体さ。たとえば鏡に映したら角が生えてるとか……」
女は吹き出した。
「角が生えてて槍を持ってるっていうあれ?あんなの人間の勝手な妄想よ。あんな虫歯菌みたいなのと一緒にしないでほしいわ。いいこと。悪魔っていうのは、目には見えない、そうね、分子レベルの強大な意思とでも言えばいいのかな。でも力の強さは、見た目の大きさとは関係ない。そういう意味では、ウイルスみたいなものかしら。目には見えなくても、何千、何万という人間を殺すことができるでしょう。こうやって肉体を持った宿主に寄生してるところも似てるといえば似てるわね」
何だかますます話がややこしくなってきた。
「いや、そういうことじゃなくて、君が本物の悪魔だということを証明してほしいんだ」
女は首をかしげてちょっと思案しているふうだったが、やがてポーチの中から古びた眼鏡を取り出した。
「ちょっとこれをかけてみて」
黒い鉄のつるがついた丸い眼鏡、かなり昔の人がかけていたやつだ。俺はその眼鏡を受け取ってかけてみた。何も変わったことは起こらない。
「これが何なんだ?」
「わからないの?じゃあこうしてみて」
女は眼鏡を外すと、俺の目の前にかざした。ちょうどその時、俺の課の上原係長がエレベーターの方へ歩いていくのが見えた。その係長の姿が眼鏡のレンズの中に入った瞬間消え失せた。
「えっ?」
俺は思わず声を上げた。肉眼で見ると、係長はエレベーターの中央に立っている。もう一度レンズを通してエレベーターを見ると、両脇の男性の姿は見えるのに、係長のいる場所だけが空っぽだった。茫然とする俺の目の前で、エレベーターのドアがゆっくりと閉じた。
「どう、これでわかった?」
「どういうことなんだ?」
「この眼鏡で見て姿が消えるのは、悪魔に魂を売ってしまった人間たちよ」
「馬鹿な……」
「若い女をものにしたいとか、ちょっといい洋服やアクセサリーが欲しいとか、ギャンブルでちょこっと儲けたいとか、そんなつまらない理由で悪魔に簡単に魂を売っちゃう人間は山ほどいるわ。そう思った瞬間に彼らは悪魔に魂を乗っ取られて、もう二度と元にはもどれないのよ。一生、色欲とか物欲の奴隷になって、それが満たされない飢餓感に苦しめられ続ける。魂を売るのは、何の手続きもいらないからすごく簡単だけど、その代わりに契約は解除できないの。案外、あっさり命を売っちゃったあなたのほうが幸せかもよ。それじゃあ、お昼休み終わっちゃうから、あたしもう行くわよ」
女はそう言うと、眼鏡をポーチにしまって立ち去った。
午後、俺はデスクに向かってさっきの出来事を思い出しながら、時々上原係長のほうを盗み見た。係長はいつもの通り、神経質な表情で部下を自分のデスクに呼び、指示をしている。何も変わったことはない、いつも通りの社内の光景だった。
そうやって時が経つうちに、昼休みの出来事が次第に白昼夢のように思われてきた。
―― やっぱりあの女は俺に嫌がらせをしにきたのに違いない。だいたい俺はあの時のことを何一つ覚えてない。コンパの時にべろべろに酔った俺が、あの女の気にさわることを言った、その仕返しをしにきたんだ。だからあの眼鏡だってなんかしかけがしてあった、ただそれだけだったかもしれないんだ。
そんな風にいろいろ考えているうちに、気持ちが次第に落ち着いてきた。そして退社時間になる頃には、昼休みの奇妙な訪問者のことは、俺の頭の中からほとんど消えていた。




