さいわいの国と友だち
「オブラジルへいこうよ」
それは、空のいっぱいに広がった青黒い天のヴェールのあちこちに、
きらりきらりと星がひかっている、夜の炭焼き場のことでした。
「オブラジルへいこうよ」
「オブラジルって、どこだい?」
アドルフは牛乳を飲みながら、空をみている友達のかおをながめていました。
「この村のむこうにあるのかい?」
「もっと、ずうっと、とおくさ」
「お殿さまのいるお城や、てんか様のいるところかい?」
「もっととおくだよ。きみはおくれているなあ。もうお殿様もてんか様もいないんだぜ」
グレゴリイはそういってわらいました。
「じゃあ、うみのかなたより向こうなのかい? フランスや、オロシヤや、清国より」
「そうさ」
「エゲレスや、ゲルマニイの森や、海の果てよりもっと?」
「もっと、もっととおくにあるんだよ」
「あははは」
わらいだしたアドルフは、むっとして見つめるグレゴリイにいいました。
「そんなむこうなんて、いけるわけがないさ。
三軒となりのジョウアンじいちゃんも、村の四方八里からでたこともないんだぜ」
「ぼくらなら、いけるさ」
「どうやって?」
「天の力車にのるんだ」
ゆめみるように、グレゴリイはいいました。
「天使がひく天の力車は、とてもとても早くそらを飛ぶんだ。
まるでろうそくの明かりがぽう、ぽうと灯るみたいに、山も海もこえて、ぼくらをオブラジルにつれてってくれるのさ」
「そんなもの、あるわけがないよ」
「あるさ」
「ないよ」
牛乳の壜をぽいと置いて、アドルフは気持ちよさそうにせのびをしました。
「そろそろかえらなくちゃ。おかあさんが待っている。
おかあさんは、ぼくのためにスウプをあたためてくれているだろう。
さめないうちに帰らなくちゃ」
「いかないでよ。これから天の力車がくるんだから」
「こないよ」
「くるさ」
「もういいよ。ぼくはかえるよ。あした、また学校でね」
つぎのあたった外とうを着なおしてアドルフはいいました。
不きげんそうなグレゴリイも、しぶしぶと折り目ただしいツイードのコウトをきると、
ふくれっ面のまま、アドルフに言い捨てました。
「金輪際、ぜったいに天の力車はくるんだよ。
きみも僕といっしょにオブラジルにきてもらいたいんだ」
「わかったよ。そのときがきたら、いくよ」
「やくそくだね?」
「やくそくだよ」
アドルフには、もう友だちのグレゴリイをみる気分はありませんでした。
さむい中を家に帰り、ストウブでほかほかにあたためてくれている、お母さんのあたたかいスウプを飲みたくてしかたがなかったのです。
「さようなら、グレゴリイ。またあしたね」
「さようなら、アドルフ。今夜のことはひみつだよ」
次の日、アドルフはぺしんと先生にたたかれて目を覚ましました。
「アドルフ、アドルフ。きみは実際余裕な男だね?
この国の勉強より、夢のほうがだいじなのかい?」
「すみません、先生」
先生は若くてとてもまじめで、でも生徒にあたたかい先生でした。
ぺしんとたたかれた手も、いたくはありません。
でも、まじめな先生をかなしませたことがつらくて、そういってアドルフはうつむきました。
「アドルフ、アドルフ。きみは昨日よふかししたのだろう。
あるいは、おかあさんの手伝いでおそくなったのかな。
でも、今の勉強はきみにとって大事なことだ。
しっかり、聞きなさい」
「はい、先生」
そうこたえたアドルフは、ふと教室にそろった子どもたちのなかに、親友のかおがないことに気がつきました。
「グレゴリイはどうしたんですか、先生」
「かれはお父さんから連絡があって、やすみなんだ。
きっとお父さんがおいそがしいから、家のことをおかあさんの手伝いでしているのだろう。
さあ、勉強に戻りなさい」
先生のこえを聞きながら、アドルフはむくむくとした不安が頭をもたげてくるのを感じました。
先生は、授業と授業のあいだで、いつもちょっとしたはなしをしてくださいます。
それは先生のお父さんのはなしだったり、遠い国の話だったり、もっとほかの話だったりしました。
先生のおとうさんは、つい十年前のたたかいで、勇かんにたたかってなくなったそうです。
先生はそうした時間に、生徒たちからのたくさんの質問にこたえてくれることがありました。
だからアドルフはほんの気まぐれで、先生に手を上げました。
「先生。オブラジルってどこですか?」
「それはどこで知ったんだい」
先生はおどろいたようにこたえます。
それがちょっぴりうれしくて、アドルフは意気ようようとこたえました。
「おしえてもらったんです。近くの村や海や山やのもっと遠く、フランスやオロシヤやゲルマニイの森より遠くにある国だって。天使がひく天の力車でいくんだって」
「きみ、きみ」
そのこわいこえにアドルフはぎょっとして、なきそうになりました。
「きみはそれを誰に聞いたんだい」
「それは……」
グレゴリイです、といおうとして、アドルフはことばをのみこみました。
なぜか、言ってはいけないとおもったのです。
「だれか……わかりません。とおりすがりの旅のおじさんにききました」
「そうか。ならよかった。あまり聞くはなしではないよ」
「どういうことですか?」
先生はしんちょうに、言葉をえらんではなしました。
「オブラジルは遠い遠い国だといわれている。
住む人はみんなさいわいで、とてもしあわせなのだとね。
むかし、たくさんの人がオブラジルをめざして旅に出た。
でも、だれももどってこれなかった。
それだけじゃあない。
オブラジルをめざすために、家族も財産もなげうつ人もいた。
えらいお坊様も、おかねもちもびんぼうな人も、みんなが行こうとしたんだよ。
だから、いまでは誰も行ってはいけない、はなしてもいけないことになったんだ。
アドルフ。
きみもさいわいの国に行きたくなるかもしれないが、おかあさんのことを考えておあげ。
だれかがオブラジルへ行こうとさそっても、決していってはいけないよ」
その日の帰り道、アドルフは鞄にえんぴつと定規をつめ、足で石をけりながらあるいていました。
こころのなかでは、先生のことばがぐるぐると回っていました。
そのとき、横あいのパン屋のまちかどから、ふいに声がかかったのです。
「アドルフ、アドルフ」
「グレゴリイじゃないか」
休んでいたはずのグレゴリイは、仕立てたセーターにズボンといういでたちで、アドルフに肩をぶつけるようにいいました。
「さあ、アドルフ。やくそくだよ。 ぼくと一緒に天の力車に乗ろう」
「ぼくはのらないよ、グレゴリイ」
アドルフはそういってグレゴリイをつきはなしました。
グレゴリイの肩はとてもつめたくて、まるで冷たい川の水にずっとつかっていたかのようでした。
「どうしてだい、きみはやくそくをしたよね」
「先生がおっしゃっておられたよ。 オブラジルはとてもとおくて、誰も帰ってこられないから、
行こうとおもうのもはなすのもだめだって」
「それは違うよ、アドルフ。 オブラジルは戦争のない、へいわな国なんだ。
ぼくたちもみんな、そこへいくべきなんだ」
「もう話さないよ、グレゴリイ。 ぼくはおかあさんを残して行けはしない」
「ひどい子だね、アドルフ。親友のやくそくを断るのかい?」
「ぼくはおかあさんにないてほしくないだけさ」
その言葉に、グレゴリイはアドルフが見たことのない目をして「そう」とこたえると、
すっとアドルフから体を離しました。
「じゃあ、今日はさそうのはやめておくよ。
でも天の力車が来てくれるのは明日までなんだ。
だからきみは明日さそいにくるよ」
「なんど来てもおなじだよ、グレゴリイ」
「そんなことはないさ。あしたきみはきっと、僕と一緒にオブラジルへいくんだ」
よたかがケエ、となきごえをあげました。
その音におどろいたかのように、きょろきょろとグレゴリイはあたりをみまわすと、
まるで駐在の巡邏にいたずらを見られたようにすっとはしっていきました。
次の日、アドルフはずっとこころがむずむずしていました。
グレゴリイのことばが残っていたのです。
そんな彼を見て、放課のあと、先生はアドルフをじぶんの机によびました。
「どうしたんだい、アドルフ。きみは今日、てきめんに心配そうじゃあないか。
なにかなやみごとでもあるのかい?」
そのやさしい声に、おもわずアドルフはなきながらグレゴリイのことをはなしてしまいました。
「先生、先生。ぼくはうらぎりものです。うそつきです。
先生にもグレゴリイにも、うそをついてしまった」
先生は、そんなアドルフの頭をゆっくりとなでまわすと、おちついた声でいいました。
「アドルフ。きみはかしこい子だ。きみは今からぼくがいうことを、
寸分もらさず理解してくれるだろう。
いいかい、アドルフ。グレゴリイはやすんでいるんじゃあないんだ。
かれはお父さんとオブラジルへ行こうとして、つかまってしまったんだよ。
オブラジルへいくことは、けっしてゆるされないことだ。
でも、お父さんはそれがばれてしまった。
だからアドルフ。きみのもとへ昨日もおとといも、グレゴリイがやってくるわけはないのだよ」
「でも、グレゴリイはきたんです。二度も。そして今日もやってくる。
ぼくを天の力車にのせるために」
ふうむ、とうなずくと、先生はいいました。
「きっと、グレゴリイはとてもとても、きみと一緒に行きたかったのだろう。
きみとグレゴリイは、まるで神話のカストールとポリュデケスのように、いつもいっしょだったからね。
でも、きみのおかあさんのことをかんがえてみなさい。
いいかい、ぼくはおじいさまの法事があるからいけないが、
今日、きみはどうやっても彼についていってはだめだよ。
彼が何をいってさそっても、けっしてついていっちゃあいけない。
さあ、今日はぼくがおくっていってあげるから、家へおかえり。
そうして、戸締りをしっかりとして、誰がきてもかおをみせてはいけないよ」
その日の夜。
アドルフはおかあさんが寝てしまったあとで、しっかりと戸締りをし、
そばにおとうさんが残してくれたちいさい神さまの像を持って、ねむっていました。
「アドルフ、アドルフ」
だれもが寝静まった後に、アドルフはじぶんをよぶこえに目を覚ましました。
「アドルフ、そこにいるんだろう、アドルフ」
グレゴリイの声です。
「アドルフ。約束の日が来たよ。さあ、いっしょにいこう。
天の力車は、サアムベルクのひいらぎの木のところで、きみをまっているよ」
アドルフはぎゅっと布団の中で手を握りました。
声は続きます。
「天使たちもみんな待っているんだ。オブラジルまではすぐにつけるよ。
きみが最後なんだ。はやくきたまえ」
アドルフがだまっていると、声はだんだんとおそろしく、不気味になっていきました。
「アドルフ。君がそこにいるのはわかっているんだ。
きみはぼくとの約束より、ほかのことをとる気なのかい?
はやくくるんだよ。きみのことはもう天使にもはなしているのだから」
こわい、こわい、こわい。
彼が小さいときから知っているはずのグレゴリイの声が、
奇妙にひずみ、ゆがみ、ひびわれて遠く近く、まるでこだまのようにひびきます。
「アドルフ。きみがその了見ならば、ぼくにもかんがえがあるからな」
そう最後に告げて、ぱたりとこえがやみました。
ほっとするまもなく、別の声がアドルフをよびました。
「アドルフ。かあさんはいいから、いってらっしゃい。
おともだちをまたせるものではないわ」
おかあさん!
でも、アドルフにはわかりました。
おかあさんは、隣の部屋でねむっています。
そんなことをいうはずがないのです。
おかあさんの声がやむと、べつのこえがしました。
「アドルフ。お友だちを待たせるものじゃあない。男らしくいってきなさい」
とおい国にでかせぎにいっているはずのお父さんの声です。
「アドルフ。君は約束も守れないこどもかい」
「アドルフ」
「アドルフ、はやくいきなさい、アドルフ」
アドルフのしるいろいろな人の声が、なみのように寄せてはゆれ、返していきます。
かれはふとんをあたまからかぶって、そのこえに耳をふさぎました。
グレゴリイ!
グレゴリイ!
誰の声でなにをいっても、ぼくはオブラジルなんかにはいかないぞ。
だって、だって。
君の声はとてもつめたいじゃないか。
君の体はとてもさむかったじゃないか。
きみはオブラジルへはお父さんといくんだろう。
ぼくはきみとはいっしょにいけないよ。
グレゴリイとすごしたいくつもの思い出が、つぎつぎとよみがえります。
それを必死に振り払っているうちに、いつのまにかアドルフはとろとろとねむってしまいました。
チュンチュン。
すずめが朝の音を奏でる、ちいさな声がうっすらと目覚めたアドルフの耳にとどきました。
しっかりと閉じた雨戸のそとからは小さな光が漏れ、
どこかで朝を告げるにわとりの声がしています。
「アドルフ」
とつぜんかけられた声に、びくっとしたアドルフでしたが、
それが先生の声だとわかってほっとしました。
「アドルフ。ぼくのおじいさまの法事から、きみが心配で夜っぴてかけてきたんだよ。
もう朝だよ。グレゴリイも天の力車も行ってしまった。
もう大丈夫だよ。
さあ、戸をあけて今日も学校へ行こう。はやくしないと遅刻してしまうぞ」
「はい、先生。おはようございます」
安心して、元気よく答えたアドルフに、扉の向こうの先生は安心したようでした。
ふふ、と笑ういつもの先生の声が聞こえます。
「さあ、朝ははやくすぎるよ。かばんにえんぴつと定規をつめて、早く出てきたまえ」
「はい、わかりました」
「アドルフ?」
うしろからおかあさんの声がかかったのと、アドルフが扉を開けたのは同時でした。
「アドルフ?何を寝ぼけているの? 今はまだ真夜中よ」
「え?」
驚いてふりむいたアドルフが最後に見たのは、目をみひらいたお母さんの顔と、
その顔をひきもどし、満面の笑みを浮かべたグレゴリイの、不吉な顔でした。
「やあ。よく来てくれたね、アドルフ。 さあ、いこう」
お母さんがアドルフの部屋に入ったとき、
そこにはかばんにしまいかけたえんぴつと定規、空の牛乳の壜がありましたが
アドルフは、とてもとても遠い場所へ、去っていったあとでした。