第5話「その一、帰り道」
「じゃあね、朱姫!」
「気をつけてね、奈々ちゃん」
私と奈々ちゃんは駅まで一緒に返るのが当たり前だ。奈々ちゃんは、これから一つ先の駅の近くにある学校に通っている彼氏に会いに行く。
駅は私の帰り道の途中なので、改札口の手前まで奈々ちゃんを送る。その背中が見えなくなってから、私も帰ろうと踵を返した。
部活をしていない私たちの帰り道はいつも明るい。夏なのでまだまだ高い太陽の光をかばうように手を重ねて空を見上げた。
真っ直ぐと伸びる飛行機雲が見えて、少し得した気分になる。今日も早く帰って、お母さんの手伝いをしよう。そう思って歩き出した。
「……誰?」
駅から家までの道のりで、普通の大通りを抜ける道とは別に、裏路地を通る近道がある。近道にはあまり人気がないのだが、5分早く家にたどり着けるのだ。
暑いから今日も近道を通っていたのだが、今日は誰かの気配を感じる。足を止めて振り返ってみるけど、誰もいなかった。
前を見てもやっぱり誰もいない。気のせいだったのかな、そう思うことにして少し急ぎ足で進んだ。
「にゃあ……」
「あ、まだここら辺をうろうろしてるの?」
途中、通り過ぎた電柱の裏の塀から聞こえた鳴き声に振り向くと、見覚えのある猫の姿があった。
この間までの梅雨の時、びしょ濡れになっていたから可哀想で連れて帰った猫だ。手を伸ばすと猫は覚えていてくれたのか、すり寄ってきてくれた。
「夏は暑いから、水分はとらなきゃだめだよ?」
なんて猫に少し話しかけて、心を落ち着ける。かなり癒されたから帰ろうとした時だ。
「――双葉さんって、猫好きなんだ?」
聞こえた言葉に心臓が大きく跳ね上がった。じりじりと照りつける太陽の光で上昇する気温とは逆に、サッと血の気が一瞬で引いていくのを感じる。
振り返ると、毎朝あいさつをしてくれる男子がそこにいた。奈々ちゃんが言ってた名前、確か田中くん。
どこにでもいそうな好青年の田中くんは、私に近づいてくると猫に手を伸ばした。だけど猫は田中くんが触れる前にどこかへと行ってしまう。
私は猫と違って俊敏に動けず、その場に立ち尽くしていた。今まで一度も、同じ学校の生徒と帰り道であったことはなかったから。
後ろにいたのは田中くんだったのだろうか、そういう疑心暗鬼が生まれたのだ。
「あーあ、行っちゃった……双葉さん大丈夫?汗びっしょりだけど……」
猫が行ってしまった方向を見ていた田中くんは、こちらに振り向いて私を見ると手を伸ばしてきた。
それがたまらず怖くて、僅かに足を引いて下がる。動けたと思うと、今までのことが嘘のように体が軽くなった。
「だ、だいじょうぶ!夏だから暑くて……それじゃあね、田中くん!!」
どんどん距離を開けながら早口に言葉を紡ぐと、言いきる前から私は背中を向けてまっすぐ走りだした。
後ろで私を呼びとめる田中くんの声がするが、怖くて振りむけない。家に帰るためには曲がらなければいけないところも曲がれず、ただひたすら走り続けた。
* * * * * *
「――きゃっ!!」
「うっわ!?」
田中くんの声も気配もしなくなったところで角を曲がると、誰かとぶつかってしまった。
反動で後ろに吹っ飛びかけたけれど、腕を掴まれ助けられたようだ。その証拠に、いつまでたっても衝撃がこない。
「お前……隣のクラスの双葉か?」
「えっ……?」
問いかけられた言葉に、反射的に閉じていた目を開けて顔を上げた。そこに見覚えのある顔が間近にあることに気づき、少しの間フリーズしてしまう。
「一之瀬、くん……」
「大丈夫か?すっごい汗かいてるけど」
呆然と目の前の人物、一之瀬くんを見つめながら呟く。重ねられた言葉にはっとしては、現状を確かめた。
無我夢中で長い距離を走り続けたので、ブラウスはすっかり汗でぬれている。肌も少し湿っていて、一番熱く感じる場所には一之瀬くんの手があった。
「……っ、ごめんなさい!すっごく気持ち悪かったよね……?」
「……」
慌てて腕を引いて一之瀬くんの手が離れると、頭を下げて謝る。何も答えない一之瀬くんが怖くて、おそるおそる顔を上げた。
するといきなり、額に強い刺激が走ったので手を添える。何が起こったのかわからず、一之瀬くんを見ると何やら不機嫌そうな様子だ。
「あのな、こういうときは謝罪も大事だけど……ありがとうって言うのが正解なんじゃないの?」
「あ、ありがとう……」
言わされた感半分、心から言った感半分で礼を告げて一之瀬くんを見た。するとくしゃりと表情を崩して、一之瀬くんは笑みを浮かべる。
「どういたしまして」
ふわりと頭の上に載せられた手と、一之瀬くんの笑顔に思わずときめいてしまった。夏の暑さとは違う熱が顔に集まるのがわかる。
「で、急いでたんじゃないの?」
「え?」
「だって、さっきまですごい勢いで走ってたんだろ?びしょ濡れだし」
自分でも気付かないうちに一之瀬くんに見惚れていたことに気付いた。はっと両手を頬に添えて恥ずかしさをこらえようとしたが、先ほどまでのことを思い出しては曲がった角の向こうを覗いてみる。
そこに誰もいないことを確認しては、ほーっと息を吐きだした。
「うん、大丈夫。急いでたわけじゃないから」
「……変な奴にでも追いかけられてたのか?」
「え?まあ……似たような感じかな?」
正確には追われてなかったので違うのだが、後をついてきていた可能性があるだけだ。しかし相手が同じ学校の人物なだけに、一之瀬くんに言うのがためらわれ言葉を濁した。
苦笑で答えると一之瀬くんはしばらく私を見た後、口元に手を当てて考え込む。
「双葉って家、この近くなの?」
「そうだよ?ちょっと通り過ぎてきちゃったけど……」
「なら送ってやるよ。俺も家、近くだから」
一之瀬くんの急な申し出に目を丸くした。けれど答えを聞く前に手をひかれてしまったので、大人しく甘えることにしよう。