問題編
今日の新聞記事は凶報ばかりだ。
届いたばかりの夕刊片手に、ラック・ウォーカーは眉間に皺を寄せる。
連続宝石泥棒はまたも成功記録を上書きし、どこかの銀行では強盗が入り、政治家はいつも通り不景気を嘆き、昨夜からの大雨で飛行機は運休を連発している。
世の中アンラッキーばかりだ。
変わり映えのない記事にため息を吐いてソファに身体を投げ出す。と、タイミングを計ったように事務所のドアが開いた。
「よぉ」
軽く片手を上げて入ってきたのはレインコートの浅黒い男。整った髭を生やした眉の濃い容貌はラックの記憶にないものだ。
「どちら様で?」
「どちら様って、相棒に向かってそりゃないだろ」
一瞬身構えたラックは、闖入者の次の言葉でほっと息を吐く。
容貌に見覚えはなくても、くしゃりと顔をゆがめた笑い方は良く知る物だ。
「入る前にはちゃんとノックして名前を名乗れと言ってるだろう」
「やだよ面倒くさい」
羽織ったレインコートを床に投げ捨てると、男は来客用のソファに身体を投げ出す。ローテーブルに濡れた両足を乗せ、ネクタイを外してシャツを脱ぐ。そのまま脱いだシャツで顔を拭おうとする男を見かねて、ラックは引出しからタオルを取り出す。
「こんなところで脱ぐな、あとちゃんとタオルで拭け。目障りだ」
「だったらこんな嵐の中仕事させないで欲しいんだけど。雨は酷いし道は濡れているし道路は混むし電車は止まるし傘は壊れて使えない!嵐の中ってのは最悪だぜ?今度はちゃんと天気予報を見て決行日を決めてよ頼むからさぁ!」
「仕方ないだろう。今日の牡羊座は運勢絶好調だったんだ。やるなら今日しかない」
「別にいいだろ占いなんてどうでも!実力で十分カバーできる!」
「そういう考えが油断を生むんだ」
「お前は慎重すぎ!もっとフリーダムに生きようぜ!ウィーアーフリーメイソン!」
「言っておくが『フリーメイソン』は秘密結社の名前で別に自由人って意味じゃないぞ」
「大体あってるからいいだろ!俺とお前の関係だってそんなもんだ!」
いつも通りの気の抜けるやり取りをしながら男はタオルで顔を強く拭き、頭髪を引っ張り、コンタクトレンズと付け髭を外す。
タオルをラックに投げ返す頃には、入ってきた髭面の男は消えていた。代わりに現れたのは金髪碧眼の若い男だ。相変わらず、見事な変装。
ついつい目で追っていたラックの視線に気づいたのか、男はに、と笑って手を広げる。
「ただいま、ラッキー。ここは無事を祝してハグとかキスとかしとくべき?」
「おかえり、ジェフ。ハグとキスは要らないから後で汚した分の掃除をしてくれ。付け髭と鬘はちゃんと元あった場所に仕舞え。あと服を脱ぎ散らかすな」
「えー、ラッキー冷たい。昔はもっと優しかったのに」
「えー、じゃない。俺はお前のお母さんでもお姉さんでも恋人でもない」
「親友で幼馴染で大事な仲間だろ?なら同じじゃん大体」
「全然違う」
ごねる男にラックはきっぱりと反論する。
「それに大事な一つが抜けてるぞ。俺とお前は『同僚』で『上司と部下』だ」
ジェフ、こと、ジェフリー・フリーマンはラックの同僚だ。たった二人の会社――と言えるのかどうかも微妙だが――で、同僚も何もないのだろうが、少なくともラックはそう認識している。この事務所に居る間は、ジェフは親友である以前に大事な同僚であり部下だ。
だからこそ、ジェフに求める物は帰宅の挨拶の他にある。
「で?『部下』から『上司』への報告は?」
「うわ超偉そう超上から目線。もしかしてお前今日機嫌悪い?生理中?」
「男が生理になるか馬鹿。俺が聞きたいのは凶報か吉報かの報告だ。お前の愚痴でも無駄な心配でも嫌味でもセクハラ発言でもない」
「あ、何生理中?ってやっぱ野郎相手でもセクハラにカウントされるもんなの?」
「ジェフリー」
脅しつけるような低い声で名前を呼ぶと、ジェフはやれやれと肩を竦めた。
「あー、報告ね。報告。分かってるって。ところでお前にとっての朗報凶報の基準って何?」
「別に大きな成功を求めてる訳じゃない。地道に準備してきた仕事が上手くいけば、俺はそれでいい」
「なるほどね。それだけ聞くと模範生だ。泥棒って言うより警察の言葉だな。そんなラッキーにプレゼントだ」
ぽいと無造作に放られた手帳を受け取る。バッヂと証明書がセットになった二つ折りのケースはNY市警の証明書だ。
勿論、ジェフは警察ではない。
「それ、今回ので使い切りだからお前にやるよ」
「あまり無駄に作るなよ。バレやすくなる」
「大丈夫だって。俺のテクニックはお前も知ってるだろ」
「ああ、そこは信用してる」
本物そっくりの警察手帳に、ラックは渋々頷く。
手先の器用さはジェフにはかなわないのは十分承知だ。パスポートからクレジットカード、各種証明書。ジェフに作れないものはない。当然の事ながら全て違法だが、それを言い出せばきりがない。ラックの事務所の奥。金庫に仕舞われている財産は全て違法行為を基に稼ぎ出したものだ。金庫の中には換金前の絵画や宝石がまだしっかり仕舞われている。
美術品専門の泥棒。
それが、ラックとジェフの『仕事』だ。
「で、もう一度聞くが、例の首飾りは?ちゃんと擦り替えれたのか?」
警察手帳から顔を上げると、ラックは問う。
泥棒と言っても、ラックとジェフは新聞を騒がすような派手な真似はしない。
新聞に載るような泥棒は二流だ。真に優秀な泥棒は、本人にすら気づかれないうちに盗みを働く。絵画を盗めば代りの絵画を宝石を盗めば代りの宝石を瓜二つの偽物をこっそり置いては戻ってくる。気づかれたらそれまでだが、金持ちの道楽で絵を置くような馬鹿には大抵バレない。
絵の価値も分からない馬鹿の手に置いておくなんて勿体ない。だったら俺たちの手で売りさばいた方がずっといい。その方がずっと世の為人の為ひいいては俺たちの為になる。とはジェフの言葉だ。一理はあるのかもしれないが、ラックはそこまで割り切れない。所詮、自分たちのしている事はただの犯罪だ。借金返済の為だの何だのと名目をつけたところで、そこは変わらない。
十分にそれを承知の上で、ラックは犯罪計画を立て、ジェフはそれを実行する。
今回もまた、ある海軍大佐の家の首飾りを拝借すべくラックは数週間前から綿密な調査を行い、ジェフに最後の仕上げを頼んだところだった。
が。
「……いや、それがまあ、なんというか」
数秒の沈黙を挟み、ジェフは誤魔化すような苦い笑みを浮かべる。
「失敗したのか?」
「いや、失敗というかなんというか、貴重な体験をした。ああ、ビッグ・ニュースだ。聞きたい?聞きたい?聞きたいよなーでも俺はあんまり話したくない」
「何があった。ちゃんと話せ」
はぐらかすようなものいいに苛々して言い返すと、ジェフはふむと頷き立ち上がった。ずかずかとラックの前までやってくると空っぽの手を差し出す。
「何だこの手」
「とりあえず先に情報料頂戴?五ドル」
「……『親友』に金を請求するのか?」
じろりと睨み上げると、ジェフは小さくため息を吐く。
「あー、惜しい。そこで『親友』じゃなくて『恋人』とか『マイハニー』とか言ってくれたらおまけしてやったんだけど」
わざとらしく嘆きながらジェフはラックのジャケットの指先を滑らす。見た目に怪しい手つきの目的に気づき、ラックは躾のなっていない手を引っ叩いた。
「こら勝手に財布を持ってくな。五ドル抜いたらちゃんと返せ」
「へいへい。ほんっと抜け目ないねお前」
「当たり前だ、泥棒だからな」
取り戻した財布をポケットへ仕舞うと、ラックはもう一度尋ねる。
「で?一体何があった?」
誤魔化すなよ、と視線で圧力を加えると、ジェフはひらりと手を振って、ケロリとした顔で言ってのけた。
「泥棒にあった」
なるほど、どうやら今日は凶報の日だったらしい。
「警察の方から来ました」
お手製の警察手帳を片手にジェフが目当ての元・海軍大佐の家を訪れたのは昼を少し回った頃だった。収まる気配のない雨脚に辟易しながら、NY富裕層の住む住宅街の屋敷のインターフォンを押し、出てきた夫人にラックが用意した台詞を言う。
「通報を受けて来たのですが?お宅を拝見させていただいても?」
見知らぬ男に唐突に訳の分からない事を言われ、大佐夫人は不審げに眉を潜めた。
「通報?何の事ですか?」
「お宅で保管されている首飾りを盗むとこちらに予告があったそうで。旦那様から何か聞いていませんか?」
「首飾りを?主人は特に何も言ってなかったのですが、」
「本当ですか!?」
なお不審感に満ち溢れた夫人の言葉に、ジェフは大げさに驚いてみせた。
「おかしいな!それはおかしい!こちらはネルソン大佐の家ですよね?警察の上層部に個人的に電話がかかってきたんですよ!?『うちの首飾りが狙われてる!何とかしてくれ!今私は手が離せないから誰かに見張らせろ!』って。そりゃあもう物凄い剣幕で!それなのに知らない!?そりゃないですよ!私はこんな嵐の中他の仕事も放りだしてわざわざ来たのに!」
天を仰いで嘆いてやると、夫人はうろたえて携帯を取り出す。
「すいません、今確認してみます」
「ええ、お願いします。できれば早く。このままだと凍え死んでしまいそうですから」
寒い寒い、と言いながらジェフはレインコートのポケットへと両手を突っ込み、中の機械のスイッチを入れた。手製の電波妨害装置は、スイッチ一つで半径3メートルの携帯電話を通話不能に陥れる事ができる。雨天だろうと晴天だろうとそこは変わらない。
可哀想な大佐夫人は何度も携帯電話を耳に当てては首を傾げた。
「もしもし、もしもし――駄目ね。繋がらないわ」
「ちょっと貸してください。――もしもし?もしもし!あ!大佐!私、ジェーン・フリーソン警部と申します。先程お電話いただいた件でお宅にお伺いしているんですが――え?ぐずぐずするな?すいません申し訳ありません今すぐ警備を――ああ、切れた!」
物言わぬ携帯相手に勝手な一人芝居をするとジェフは夫人に携帯を返す。
「すいません、切られてしまいました。どうやら大佐はご立腹のようです」
困ったように肩を竦めると、ジェフは夫人の手を取る。
「もし、私を信用して下さるなら、家に上げて頂けますか?このままだと首になってしまいそうです。それから、お美しい夫人からできれば暖かい飲み物を頂けるととても嬉しいのですが。勿論、私を不審者だとお思いになるなら諦めますが」
冗談めかして付け足すと、夫人はくすりと笑みを浮かべた。
「『お美しい』だなんて久々に言われたわ。あの人は滅多に言わないもの。お世辞の上手さに免じて信用しますわ。丁度メイドが出かけているので美味しいコーヒーを出せるかどうか自信はありませんが、お茶くらいなら御馳走します」
上品に笑うと、夫人はジェフを家に上げた。
ここまで見事に、ラックの作戦通りである。
「で、そこまでうまく行ってて何で失敗したんだ」
「ここからが駄目だったんだよ!」
「駄目だった?俺の作戦が?それは聞き捨てならないな」
「いや別にお前の作戦が駄目だったわけじゃないけど」
「ならいい」
「……ラッキーって結構子供だよね」
「子供じゃない。さっさと続けろ」
「へいへい」
話の腰を折るラックを宥め、ジェフはさらに先へと続けた。
室内に招かれコーヒーで僅かばかり温まると、ジェフは夫人に首飾りの警備を申し出た。
「ご婦人との会話はとても楽しいのですが、仕事を忘れる訳にはいきませんから」
渋々、と言った調子で付け加えると、夫人は同情するような目をした。
「すいません。主人が無理を言ってしまったようで」
「いえいえ、仕事ですから。それよりご夫人の方が大変でしょう。その、大佐は――いえ、すいません。何でもありません」
廊下を出て金庫室へと向かう途中、雑談ついでに大佐の事で言葉を濁すと、大佐夫人はくすくすと笑った。
「いいんですよ。はっきり言って下さって」
「いえいえ、それは悪い。あ、これも失言かな?どうも私はうっかりしているようで。大佐には言わないで下さいよ?あの方に怒鳴られるのは電話で十分」
おどけた笑みと共に、いかにも当の大佐と親しいかのように振る舞って見せる。本当は電話なんてしていないし、声なんて聞いたことすらないが、夫人に隙を作ってもらうにはまず夫人に信用してもらう必要がある。ここで親しくなっておく方が後々便利だ。とはラックの言葉。紳士の風上にも置けない酷い台詞だ。
「木彫り細工が趣味なんですか?」
「え?」
廊下のあちこちに飾られた置物に目を留め、ジェフは問う。玄関にも客間にも、そして金庫室への廊下の各所にも、木製のモニュメントが置かれていた。どれもそれほど大きなものではない。ある程度の腕の職人が作ったもののようにも見えるが、ニスの痛みが激しかった。室内で保管されていたにしては状態が悪い。
ジェフの指摘に、夫人は小さく首を傾げた。
「主人から聞いていませんか?これは、昔護衛艦に乗っていた時、部屋に置いていたもののようなんです」
「え、あ――ああ、護衛艦。そういえば大佐は以前そちらを担当されていましたね」
ラックから渡されていた資料の内容をジェフは今更思い出す。
不審に思われただろうか、と夫人の顔色を伺うと、夫人は物憂げにため息を吐いた。
「ひょっとすると職場では違うのかもしれませんが――主人は慎重過ぎるんです。以前船の上で火事に遭ったとかで、以来ずっと家に置く美術品は木製か真鍮製の置物ばかり。ほら、軍艦って、火花が散らないように気を使った設計をしているでしょう?コンロもガスではなく電気製。折角の暖炉も使わずにエアコンばかり使っている有様です。配電盤の調子が心配だからと毎月業者を呼んで点検もさせますし――昨日も工事だったんですよ?それで今日は警部さんでしょう?私、時々うんざりしてしまいますの。ああ、いえ、警部さんにうんざりしているのではなくて、」
「分かりますよ。煩くて細かくて慎重過ぎる人間が近くに居るとしんどいですよね。よく分かります」
「あら、貴方もそういった方が?」
「ええ。煩くて細かくて慎重でおせっかいな人間がすぐ近くに居るもので」
事務所で盛大にくしゃみをしているであろう親友を思い浮かべて、ジェフは目を細める。
それを見て何を思ったか、夫人はくすくすと声を殺して笑った。
「何かおかしなところが?」
「そういう人間を愛してしまうと困りますわね、お互いに」
見透かしたような夫人の視線に、ジェフは指先で付け髭を弄る。
「分かりますか?」
「ええ、とても分かりやすいですわ。主人も照れた時、同じような反応をしますもの」
懐かしい思い出を追うように夫人の瞳が細められ、その瞳が僅かに陰る。
一瞬の表情の変化をジェフは見逃さなかった。
「どうされました?」
「いえ――その、警部さんにこんな事をお話しするのも申し訳ないのですが」
少し言い淀むと、夫人は躊躇うように数呼吸置いてから話を続けた。
「警備をお願いしている首飾りなのですが、あれは、うちで唯一のそれらしい装飾品なのです」
「それらしいというと――ああ、木製ではなく、という意味ですか」
「それもありますが、主人の家に代々伝わるもので――何でもイギリス王朝時代のものとか」
「イギリス王朝、ですか。それはまた大仰な」
ラックから聞いて既に知っているが、ジェフは初めて聞いたかのごとく驚いてみせる。
「となると価値も素晴らしいでしょうね。一体どこでそんな物を?」
「昔主人の先祖が譲り受けた物らしくて――とても大切なものだそうです。あの首飾りだけは、と、いつも主人は言っていて、金庫に厳重に管理して。あの首飾りがあるせいで、二人で家を空けて旅行に行くこともままなりません。私、結婚してから一度もあの人と出かけた事がないんです。あの人にとっては私より首飾りの方がずっと大切なのかもしれませんね」
自虐的に笑う夫人に、ジェフは首を横に振った。
「そんな馬鹿な事はありませんよ!どんなに大切な物だって、愛する人には代えられません」
「新婚旅行より首飾りを優先したとしても?」
「男は馬鹿な生き物ですから。プライドが傷つく事を許せないんですよ。失敗が怖くて仕方ない。私の知り合いにも同じような人間が居ます。ついつい親しい人間をおざなりにして、傷つけて、後から物凄く後悔してしまうんです。きっと心の底ではご夫人を一番に思っていますよ」
「だといいんですが――ああ、着きました」
奥の扉の前で、夫人は立ち止まる。
「おいちょっと待て」
「えぇ今止める!?このタイミングで?」
「当然だ。前半も後半もお前の発言がいろいろおかしい。第一、『失敗が怖くて仕方ない、親しい人間を傷つけて後から後悔する』馬鹿は一体誰の事だ?」
「うーん、自己反省とちょっとした嫌味だったんだけど。まあ通じてないか、どっちも」
「は?まあいい。後で聞くからとりあえず続けろ」
「へいへい」
どうやらそこが金庫室らしい。手にした鍵束から一つを取り出して、夫人は鍵穴に差し込み――そこで夫人は首を傾げた。
「おかしいですわ。鍵が開いてます」
「開いてる?普段誰か出入りする事は?」
「メイドが一人――私が小さな頃からずっと側に居てくれている信頼できる人間なのですが――彼女が朝と昼、首飾りの点検と部屋の掃除をしているはずです。今日は締め忘れてしまったのかもしれません」」
訝しげな顔をしながら夫人は部屋のドアを開ける。ドアの向こうは3メートル四方の小さな部屋だった。廊下と客間はフローリングであったのに対してここだけ絨毯がしきつめられている。ふわふわに毛の立った染み一つない赤色の絨毯は土足で踏み込むのが躊躇われた。
「これ、こんな泥塗れの靴で入っていいんですか?」
家に入る際一応拭ったとはいえ、ジェフの靴は雨と泥で汚れている。フローリングならまだしも、絨毯に脚をつけるのはありなのだろうか?
一応確認すると、夫人はくすくすと笑った。
「何を今更、ですわ。私どももメイドのメアリーも主人も皆、うちでは土足ですの。その――火事があってもすぐに逃げられるように。だから掃除も面倒なのですが」
「なるほど、ご主人は慎重だ」
真っ先に脚を踏み出した夫人に続いてジェフもまた絨毯に足をつける。弾力のある絨毯の感触は庶民にとってはやはり恐れ多いものがある。一歩踏みだすごとについつい足元を見てしまうのは仕方のない事だろう。
「ん?」
ふと、赤い絨毯の上に僅かに零れた粉を見咎め、ジェフはその場にしゃがみこんだ。指先で掬い上げる。どうやら煙草の灰のようだ。
「毎朝掃除してるんでしたっけ?」
「ええ。毎朝。それが?」
「いえ、何でも。それが金庫ですか?」
壁に埋め込まれた黒い箱は、なにもない部屋の中で異様な存在感を放っていた。暗証番号を打ち込む文字盤とアナログの鍵の二重ロックは、『来るな泥棒』とジェフを威嚇しているようにすら見える。
さて、ここからが本番だ。
ジャケットの中に隠した偽物の首飾りを無意識に握りしめると、ジェフは夫人に笑いかける。
「金庫も勿論防火性ですよね?念の為開けて頂いてもよろしいでしょうか?一応確認しておかないと、怒られてしまうんで」
大佐の承認を匂わせると、夫人はあっさりと頷いた。一応、とジェフに後ろを向かせると、暗証番号を打ち込む。鍵が回る音がして、数秒の間を置いてから小さな悲鳴が聞こえた。
振り返ると金庫の前で、夫人が口元を押えて座り込んでいた。
「どうされました!?」
駆け寄って肩を支えるジェフに、夫人は紙のように白い顔を向ける。
ゆらりと持ち上がった指先が、開いた金庫を指し示した。
「ないんです――首飾りが、消えているんです!」
「と、言う訳。なんと俺が盗みに入る前に誰かが首飾りを盗み去っていたのでした!めでたしめでたし!」
「どこがめでたいんだどこが」
一人でぱちぱちと拍手をするジェフの頭をラックは手にした新聞で叩く。
「痛いってラッキー!何俺なんか悪いことした!?」
「『悪いこと』に失敗しただろう」
「じゃあ『良いこと』したって事だろつまり!」
「屁理屈を捏ねるな」
すぱん、と小気味よい音がもう一度事務所に響く。
頭を押さえてしゃがみこむジェフに冷めた一瞥をくれ、ラックは新聞を机に置いた。
「何でそんなとんでもない事があったのに連絡一つ寄越さないんだお前は」
「仕方ないだろ。その後警察が集団で来てそれどころじゃなくなったんだよ。流石に本物と対面して誤魔化しきれる自信なんてないからどさくさに紛れてどうにか逃げてきたけどさ。あ、一応手袋して動いてたから指紋は残ってないはずだぜ?変装もしてたし口調も全部変えたから街でうっかり再会してもまずバレない」
「そういう問題じゃない、俺は」
「心配してくれた?」
悪戯っぽく笑ってジェフはラックの言葉を継ぐ。
行先を失った続きの言葉を呑み込むと、代わりにラックはため息を吐いた。
「まあとにかく、無事で良かった。牡羊座の加護だなこれは」
「それはないと思うけどな。ほんとに『ラッキー』なら成功してる」
ぼそ、ジェフがと付け足した言葉に、ラックは肩を竦める。
「本物の犯人と一緒に捕まらなかっただけでもありがたいと思うべきだな。こんな事を言うのは悪いが、向こうが先に捕まってくれて良かったんじゃないのか?」
「は?」
さらりとラックが言った言葉に、しゃがみこんでいたジェフが勢いよく立ち上がる。
「え?ちょっと待ってラッキー!何?あれ犯人捕まったの?」
「は?捕まってないのか?あんなの一目瞭然じゃないか」
「一目瞭然!?どこが!?警察は今物凄い勢いで探してるよ!?」
「探す?何で?誰を?」
疑問符を連発するラックに、ジェフは夕刊を広げてみせる。見出しに踊る文字を指して、ジェフは続けた。
「ほらこれ!最近有名な宝石強盗居るだろ?こいつの仕業だって思ってるらしくて。もう大騒ぎしてたよ?お蔭で俺は逃げ出しやすかったんだけどさ」
「宝石強盗?こいつが犯人?まさか!」
「絶対そうだって!だって家の中からは出てこなかったし、夫人もメイドの部屋にも無かったんだぜ?昼間に点検した時はちゃんとあったって話だしさ。そうなったら犯人は外部の人間だろ?怖いよな、っていうかひょっとしたら俺と入れ違いだったかもしれない訳じゃん?そうそう、そういや大慌てで戻ってきた大佐がまた大騒ぎしてさ!夫人を抱き締めて『君が無事で良かった!』って!まあそこだけは良かったんだけど」
「おい待て、何でそんな事知ってるんだ?まさかさっさと逃げ出さずに隠れて見てたのか?」
「ラッキー、お前は俺を何だと思ってるんだ?変装と偽装工作の天才だぜ?変装し直してもう一回入り込むくらい楽勝だって」
「お前は馬鹿だ!」
スパン、と今度は掌でジェフの頭を引っ叩く。
「痛い!俺が馬鹿になったらどうすんだよ!」
「既に馬鹿だからどうしようもないだろ」
再び机の下に沈んだジェフをジト目で見ると、ラックはやれやれと肩を竦めた。
「それだけ情報が揃っていてどうして分からないのかが俺には理解できない」
「はぁ?何だよそれ、お前には全部分かるわけ?」
机を叩いて抗議するジェフに、ラックは自信満々に言い切った。
「当然だろ?お前こそ、俺を何だと思ってるんだ?」
さて、ここで問題。
首飾りを盗んだ犯人は誰でしょう?
ラックは何を見て犯人に気づいたのでしょうか?