vector B→C ~旭万里の片想い~
天野智花。それが彼女の名前だ。
彼女のことをちゃんと認識したのは、高校生活が始まって一週間ほど経ってからのことだった。
学校にもそろそろ慣れてきたので、図書室にでも行ってみようかと思ったのだ。もともと俺は本を読むのが好きで、蔵書が多いと聞くここの図書室にも期待を寄せていた。
特別棟三階の廊下の奥に、その図書室はあった。
「―へえ、やっぱり広いな」
高校の図書室らしく学習スペースも多く確保されていて、ちらほらと利用者もいるようだ。しかしそれ以上に、読書スペースが広い。棚同士の間隔も広めにとってあり好印象だった。
中を歩いて背表紙をざっと確認していく。面白そうなタイトルもいくつかあって、それらを手に取りながら進んでいく。
日本文学よりは外国文学の方が多そうだ。見たことのないものも多い。しかしそれらを合わせてみても、雑学本や図鑑、百科事典の量を圧倒的に下回る。さすが高校といったところか。
そんなことをつらつらと考えながらカウンターへ向かっていたので、そこに座っているのが誰なのかということに意識が向いていなかった。
「―あれ、旭くん・・・だっけ?」
「え?」
顔を上げると、そこに居たのはクラスメイトの天野さんだった。もっともそのときはまだはっきりと名前を覚えていたわけではなかったので、そういえばそんな子がクラスに居たかな、という認識だけだったのだけれど。
「ええと、図書委員だっけ?」
「うん。今日から当番で・・・」
彼女ははにかむように笑った。
「じゃあ、これ借ります」
「はい、ちょっと貸して。―どうぞ」
手早くバーコード処理を終えた彼女から本を受け取ろうとしたとき、
「・・・あの」
「何?」
「・・・あ、ううん。何でもないの・・・」
「・・・・・・そう。じゃあ、また」
うつむく天野さんに背を向けて、俺は図書室を後にする。
静かに話す子だな、という印象だった。場所の所為もあるのだろうけれど、多分彼女はもともとああいう話し方をする子なのだろう。
でも。
はにかんで笑う彼女の姿が、脳裏に浮かんできた。
「・・・どんな子なんだろう」
もっと話してみたい。言いかけたことが何だったのかも気になる。
多分あの時既に俺は、彼女が気になり始めていたのだろうと思う。
←↓→
彼女は、いつも一人で本を読んでいた。
人と話すのが嫌いなのかと思えばそうでもないらしく、数名の女子と仲良く弁当を食べる姿もよく見かけた。
しかし自己主張は強くないように見える。集団の中でいつも穏やかに微笑んでいる、そんな存在であるようだった。
「うわ、数Aのノート忘れちゃった・・・」
「・・・ルーズリーフ、要る?あげるけど・・・」
「わ、ありがとうチカちゃん、助かる!明日には返すから!」
両手を合わせて頭を下げる女子に、天野さんはいいよ、と手を振って笑った。
そういう風にして、彼女はなんだかんだと周りから頼りにされているらしかった。多分持っている優しさがにじみでているのだろう。そういうのは、自然と他人によく伝わるものだから。
どうも、最初に受けたあの温かな印象はここから来ているらしい。
「―万里。どうした?」
ふと気が付くと、ヒデが不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「ああ、いや、なんでもないよ」
「そうか?ならいいけど」
すぐに興味をなくしたように弁当に手を付けるヒデだったが、
「・・・・・・なあ、伊波ってさ、どう思う?」
「え?」
おもむろにそんなことを口にした。
「伊波がどうかしたのか?」
「いや・・・あの子、サッカー部のマネージャーなんだろ?結構さ、かわいいじゃん」
「お前は本当そればっかりだな・・・。見た目以外もちゃんと見ろよ」
「はいはいモテる男子は余裕があっていいですねー。つかお前、そんだけモテんだからカワイイ子とも付き合い放題じゃんかよ。ちぇ、いいなあ」
「だからそんなんじゃないって。何度も言うけど俺は全然モテてないぞ」
「嘘吐け。そんなイケメン面してどこがモテないと」
いや・・・本当なんだけどな。まあ告白されたこととかは無いわけじゃないけど、それも一回か二回だし。周りからよく言われるほど大げさにはモテていない。
「実は既に伊波と付き合ってるなんてことはないだろうな」
「ないない。俺を過大評価し過ぎだよ、お前は」
伊波とは部活が一緒でたまに話したりはするけど、それだけだ。向こうも俺のことなんてなんとも思ってないだろう。
ただ、時折体育館の方を見てひどく寂しそうな顔をするから、それがどうしてなのか気になってはいるのだけれど。
「まあでも、やっぱかわいいっていったら断然藤澤先輩だよなあ!一回でいいから話してみてえ・・・。お前もそう思わね?」
俺は呆れてため息をついた。
「・・・つくづくおめでたいやつだよ、お前は」
天野さんともう一度話す機会を得たのは、またも図書室でのことだった。
「あ、旭くん。こんにちは」
「ああ・・・。今日も、当番?」
「うん。―はい、返却はやっておくから」
「ありがとう」
ふとカウンターに目をやると、好きな作家の本がいくつか積まれていた。無いと思ったら、こんなところにあったのか。
「あの、これって借りられるのかな」
「へ?あ・・・これは、私があとで借りようと思ってたやつで・・・。ごめんなさい、やっぱり利用者の人に迷惑だよね・・・」
天野さんは少しうつむいた。
「いや、別にそれは・・・。っていうか、この人の本、好きなの?」
そう言うとぱっと顔を上げて、
「うん!小学校の頃からずっと好きで・・・。また読み返したくなって」
「俺も大好きなんだ。やっぱり何度読んでも感動するよな」
「そうだよね!知ってくれてる人がいてすごく嬉しい」
彼女は本当に嬉しそうに笑って、カウンターの本を俺にさしだした。
「―はい」
「え?だってこれは・・・」
「いいの。話が出来てすごく楽しかったから、それで充分」
「・・・ありがとう」
天野さんはもう一度笑って、
―その瞬間、俺は。
「・・・じゃあ、また、来るから」
受け取った本はほんのりと温かいように感じられて。
笑顔に恋をするのは、見た目を好きになるのと同じだろうか、なんてくだらない考えがふと脳裏を掠めた。
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「万里くん、新刊が入ったの。読む?」
「ああ、ありがとう。悪いな、いつも」
ううん、と天野は鷹揚に手を振った。
あれから、本絡みで会話をすることが増えた。天野が当番でない日も頻繁に図書室に来ていることを知って、俺も自然と毎日通うようになった。
もちろん、本を口実にもっと話したいという下心も当然のようにあったのだけれど、それでなくても自分の好きな本について話せるのは楽しかった。俺と彼女は、不思議なくらい本の趣味が合っていたのだ。
図書委員権限で借りたい本を取り置きしてくれることも多々あって、彼女は司書さんには内緒だよ、といたずらっぽく微笑んだ。
その度心臓が高鳴ってしまう俺は、やっぱり彼女に恋しているのだろうと思う。
図書館に再び落ちる静寂。
誰も居ない部屋で、風の通り抜ける音と、天野が本のページをめくる規則的な音だけが響いている。しかし俺の手は依然として止まったままだ。
呼吸の音さえ聞こえそうなくらい近い位置に天野が座っているのに、落ち着いて本なんて読めるわけがなかった。俺のこの鼓動も天野に聞こえているんじゃないかって、そんなのは杞憂だと分かっているのにそんな気がしてならない。
そっと正面に視線をやる。
穏やかな表情を浮かべながらゆっくりと文字を追う天野の姿が、そこにはあった。
やわらかそうな栗色の髪が五月の爽やかな風に揺れている。
天野はふと目の動きを止めて、
―面白いものでも見つけたように、小さく微笑んだ。
「―天野」
「・・・ん?何、万里くん?」
「好きだ」
彼女の眼が大きく見開かれて、
「・・・・・・・・・・・・え?」
―時間が、止まったように感じた。
「あ・・・あの、万里くん」
「・・・・・・ごめん。俺、先に戻るから」
俺は逃げるようにその場を離れた。
「―56、57・・・」
なんというか。
・・・・・・やってしまった。
「70、71、72・・・」
部活でしばらくは忘れられていたものの、終わった途端また後悔の念が押し寄せてきた。
あのときの困ったような顔が浮かんできて、それを振り払うようにリフティングに没頭する。
・・・迷惑、だっただろうか。
やっぱりいきなり告白するなんてどうかしていた。どうしてあのタイミングで言ってしまったのか。
本以外の話はほとんどしていなかった。だから彼女自身のことはあまり知らない。もしかしたら既に好きな人が、いや、あれだけいい子なのだから彼氏が居たっておかしくはないのかもしれない。
・・・いや、考えても仕方ないな。
「83、84・・・」
こちらに集中しよう。
数はすでに600を超えていた。もう少しで記録更新だ。
「89、90・・・」
ああ、やっぱりボールを蹴っているのは楽しい。無心になれるから。
「よっ・・・と」
96、97、98、99・・・・・・!
ボールを一高く蹴り上げた。受け止めて、
「―よし、700!また記録更新だな!」
確実に力はついている。やっぱり、俺はサッカーをやっているのが一番―
「―あの、万里くん!!」
「え?」
振り返った視線の先に居たのは伊波だった。
「・・・あなたが、好きです・・・!!」
「え・・・・・・?」
聞き間違いか。一瞬そう思ったけれど、そこにあるのは紛れもなく耳まで真っ赤になってうつむいている伊波の姿で。
告白・・・なんだよな、これ。一瞬頭をよぎったのは、やはり天野のことだった。
断るべきだ。だって俺は、天野が・・・。
―視界の隅に、ぎゅっと握られて震えている伊波のこぶしが映った。
・・・そうだよな。俺と同じように、彼女も・・・怖いんだ。
想いが届かなかったら・・・と、そう考えると怖くて仕方なくて。
「・・・・・少し・・・考えさせてもらえるかな」
時間をあげることしか、思いつかなかった。
それが、怖い時間を引き延ばすことにしかならなくても、
―真剣に考えなくちゃ、だめだ。