vector B→C ~旭万里の困惑~
「・・・まいったな」
机の上にあるのは一冊の本。裏を返すと学校図書館のバーコード。借りたのはちょうど一週間前。つまり、今日が返却日だ。
「返しに行かないと・・・」
あの日の前日に借りた本だった。まさか図書室に行かなくなっているなんて想像さえしていなかったときの。
「期限過ぎるわけにはいかないしな・・・」
仕方ない、返しに行こう。天野に会ったら・・・まあそのときはそのときだ。
とはいえ気が乗らないのは事実で、放課後までずるずると来てしまった。
昼休みに教室を出て行くのを見たので、おそらく天野は昼休みシフトだったんだろう。
ということは今出会う確率も低くなる。そんな打算を働かせながら図書室のドアを開けた。
「・・・・・・あ」
「あ・・・万里くん・・・」
しかし予想に反してカウンターに座っていたのは天野だった。
「・・・・・・今日も・・・当番?」
「・・・うん・・・・・・・」
ちょっと前にしたのと同じ台詞だというのに、この気まずさはなんだろう。少しズキリと痛んだ胸から目を逸らし、俺は真っ直ぐカウンターへ向かった。毎日教室では会っていたけれど、やはり図書室で会うというのは意味合いが違ってくる。特別な場所なんだ、少なくとも俺にとっては。
「・・・これ、返しに来たんだ」
「うん・・・」
本を渡すと俺は踵を返して出て行く、と
「・・・待って・・・・・・」
天野の小さな声が、俺の足を止めた。
振り返ることは出来なかった。彼女がどんな表情をしているのか怖くて見られなかったから。
きっと天野は今、あのときの返事をくれようとしてる。でも・・・答えは。
「・・・分かってるよ」
「へ?」
「・・・好きな人が・・・居るんだよね」
天野がハッとする気配がした。やがて、うん・・・という肯定の返事が返ってくる。
やっぱり、瑞希の言った通りだ。あいつの言うことはいつも当たるから。
「私、好きな人居るよ・・・。すごいね、万里くん、分かるんだ―」
俺じゃなくて瑞希が、だけどな、と心の中で呟いたけれど、そんな事を言ったって仕方がない。
「―それが、万里くんなんだってこと」
その台詞が脳内でぴったり10回リピート再生されたとき、ようやく俺は今の状況を把握した。
「え・・・・・・?」
恐る恐る振り返った俺の目に映ったのは、少し頬を赤らめてこちらを見ている天野の姿だった。
ちょっと待ってくれ、ええと。天野には好きな人が居て、その人が俺?ということは、
「・・・天野が、俺のことを好き?」
確認のように口にすると、天野は一層頬を赤くしてこくっとうなずいた。
「あ・・・そう、なんだ・・・」
「・・・そうなんだ・・・ってあれ?だって万里くん分かってるって」
「いや・・・てっきり別に居るんだと・・・」
天野は一つ深呼吸をすると、じっとこちらを見つめて言った。
「私は・・・私が好きなのは、万里くんだけだよ」
柄にもなく、
「えっ、ば、万里くん大丈夫!?」
真っ赤になってしまった。
「だ・・・大丈夫・・・」
「本当に?本当に大丈夫?」
心底心配している風の天野の様子に少し笑ってしまう。
きっと、彼女は分かっていないんだろうな。俺にとってどれだけその言葉が嬉しいものなのかっていうこと。
「俺も・・・天野が好きだよ」
仕返しのようにそう口にすると、今度は天野が真っ赤になった。
「あ・・・はい、ありがとう・・・・ございます・・・?」
その返事がなんだか可笑しくて笑うと、天野もつられたように微笑む。
随分と久し振りのように感じられるその笑顔に、胸の奥がじわりと温かくなった。