No.59 四角い二次元の向こうにあるのは、三次元な現実
僕が『カトレア』さんと出会ったのは、とあるオンラインゲームの中。性別不祥、年齢不詳、職業は白魔術師――あ、これはゲーム内の職業だ。
赤髪にぬけるような白い肌をしたカトレアさんは、僕の中では年上の女の人だった。母さんみたいに面倒見がよくて、ゲーム初心者の僕に根気よくこのゲームの細かいイロハを教えてくれた、「ゲーム内のお母さん」。そんな意味で、女性。
一方の僕は、ゲームの中では、「私」と自分のことを言っている。これは、父さんから命じられたこと。
『子どもと言いながら実は大人とか、女だと言いながら男だとか、そんなのがオンラインの世界にはわんさかといる。事実なんか晒すもんじゃない』
これ、結構我が家では、父さんと母さんの喧嘩の種になっている。だけど僕には関係ないから、だんまりを決め込んでいる。
ただ、一応ゲームに関する約束事は守らないと、プレイ禁止になっちゃうから。母さん曰く
「大人になれば男の人でも、特に目上の人に対しては“私”というから、そんな自分の表し方に慣れるのもいいかもね」
と父さんの意向に従っている。
そんなわけで、ゲームの中では、僕は「私」と自分を表す『ミク』なのだ。レアアイテムで、初音ミクのコスチュームを手に入れたからそう名乗っている。ミクの服だと防御力と魔力のパラメーターがハンパなく上がるんだ。そういうゲームスキルアップが理由、ってだけ。僕は別に誰かを騙そうとかからかおうなんて思っていないから、母さんに「ネカマ?!」と仰天されたあと叱られたけど、父さんが大爆笑して「それでいけ」と言ってくれたので、このプレイキャラでスキルを上げている。
だけど、プレイヤーネームと性別以外は、基本事実を告げているのが僕なりに考えたスタンスだ。自分が年下だと判ると、みんな親切に教えてくれるから。それはゲームのことだけじゃなくて、学校でのこととか勉強のこととか、親には言えないアレとかコレとか。
僕は、学校ではちょっと浮いている存在で。いじめに遭っているわけじゃないけれど、どうもちょっと感覚がズレてるみたい。
笑いを取ろうとしてもポイントが違うとか。
真面目加減が極端だとか。
つまんないやつ、って言われてる。
あ、でも別に独りぼっちというわけではないんだ。部活の仲間とは楽しくやってるし、塾の友達とは勉強の教えあいっこ――の振りをして、Jリーグ談義やワールドカップの話に花を咲かせている。
ただ、ちょっと、疲れる。“悩みなんてひとつもなさそうな、天然で気の優しいヒロキ”を演じることに。
リア友には、愚痴や悩みを話せない。「キャラが違う」ってドンビキされそうで。
母さんにそんな愚痴を零したら、
「そう? いろんな面を持ってるのが人間じゃないの。いろんな面を見せる人って、ミステリアスで関心を惹く存在だと思うけれどね」
と、やっぱりあんまり僕の気持ちを解ってはもらえなかった。
《――って感じでさー。なんか、三次元では解ってくれる人がいない。私はここに来れるから、夜が一番気楽で好き。朝からずっと夜が来るのを楽しみにしてるんだけど、なかなか夜って来ないですよね》
年下らしく、僕はチャットの入力画面に敬語でそんな愚痴を打ち殴った。
《あ、それボクも思う。あ、ミク、ターボ使って》
そう合いの手を入れたのは、三次元では高校生だと言う『ドラ』さん。彼はアイテム収集が目的でこのハントゲームを楽しんでいる。僕らは彼のアイテムコンプの手伝いをしているところだった。モンスターを攻撃する傍らで、僕らは日常会話を交わす。
《はい。あ、やった! クリティカル!》
《サンキュー、ミク。レベルアップおめ》
《ありがとうございます! あと8レベで、この間ドラさんがくれた武器を使えるようになりますよ!》
《ちょ、200時間でレベル58とか、ミク、やり過ぎwww》
そう笑い文字を入れながら回復魔法を唱えてくれるカトレアさん。
《ケアありです^^ だって早くみんなに追いついて、私も何かお返ししたいですから》
モンスターの皮をはぎ終えたドラさんと、カトレアさんがミクな僕に近づいてふたりで頭を撫でてくれた。
《ミクのそういうところ、かわいい》
《よしよし。かわいい妹だ》
《だからっ。私は男ですってば!》
この台詞、オート入力に登録してある言葉。何度も言ってるんだけど、僕のこういうリアクションが面白いのか、本当に本気で「ボクっ娘」だと思ってるのか、みんな「www」しか入力しないから判らない。
《よし、今日のハントは終わり。ギルドに戻ってちょっとしゃべろうか》
ドラさんのひと声で、僕らは街のギルドと呼ばれる仲間同士だけが入れる部屋へ移動した。
ギルドの維持している部屋へ戻ると、ほかのメンバーも集まっていた。
《カトさんとドラさんがログインしてるから、タイムアップの時間だけどコッソリ来ちゃった。待ってたよー》
そう言って黒ずくめの恰好でフードを被ったキャラを操っているのは、黒魔導師のガクさんだ。僕と一番年が近い、いっこ年上の受験生。
《お。どうした?》
とドラさんが促せば、ガクさんが「orz」と落ち込んだ気持ちを表すアスキーアートを噴き出しの中に浮かばせる。
《家さ、親が離婚するんだって》
そんな切り出しでガクさんが話したのは、オンラインゲームが出来なくなる、という知らせと今まで仲よくしてくれたことへのお礼だった。
《俺、母親についていくことになるみたいで。ネットとかゲームとか、そんな金の余裕ないんだってさ》
すごい田舎にあるお母さんの実家へリアルで引越しするらしい。ドラさんは、ガクさんのメールアドレスや住所も知っていた。
《引越し先の住所、またケータイに送ってよ。なんかあったらいつでも相談に乗るからさ》
ドラさんがガクさんにそう言うのは、彼が登校拒否をしていると知っているから。フリースクールとかいうところへ通ってはいるらしいけど、自由登校みたいなんだ。人が怖いガクさんは、オンラインでしか人としゃべれない、と、僕がこのゲームに参加して間もないころにそう自己紹介をしていたのを思い出した。
《あの、私も、よかったらメールアドレス交換してください》
母さんの許可を取らないまま、僕は勝手にそう呟いていた。僕にとって、ガクさんは、一番近いトモダチだ。学校へ行きたくないと愚痴を零したときに、一番真剣に反対してくれた人。
『一度逃げたらずっと逃げなきゃいけなくなる。お母さんの言うとおりだよ。頑張りな』
その代わり、つらかったこと、全部、俺たちが聞いてあげるから。その言葉があったから、僕が今も学校へ通えている。ガクさんがそう言ってくれたから、やっと学校になじめた今、それなりにトモダチっぽいものも出来ている。
なかなか環境に馴染めない、という意味でも、ガクさんと僕はすごくよく似ているのだ。だから、ゲーム内だけの薄い繋がりだなんて思ってなんかいなかった。
だけど、そう思っていたのは僕だけだったみたい。
《ありがと。でもごめんね。俺のケータイも解約するんだってさ。アドレスもなくなるんだ》
全員が、「……」というふたつのフォントを噴き出しに浮かべた。
ガクさんが僕やドラさんに転居先を教えることはなかった。最強戦士のドラさんの物理攻撃、見習い剣士の僕が横からちょこまかとサポート、黒魔法でガクさんがモンスターにトドメを刺して、カトレアさんが白魔法で全員を癒す、という最高のコンビネーションは、その日再現されることなく誰からともなくログアウトした。
「別にヒロキが大事じゃなかった、ってことじゃないかも知れないわよ」
母さんに愚痴ったら、そんな風に言われた。もちろん、僕がメルアド交換をしようとしてたのは内緒だ。ただ、そういう理由でガクさんが消えた、僕がゲームの世界だけじゃなくて、三次元でも繋がれるじゃないか、と言ったことについて、ケータイもゲームも没収だから、と言われた、という話方をした。それに対する答えがそれだった。
「でも、ホントにトモダチだと思ってたら、そんな簡単に切り離せるものかな」
僕は事実を告げていない分、母さんの言い分も今ひとつ信じられなかった。
「そういうところが、親に振り回される子どものつらいところだよね。母さんもね、おばあちゃんとおじいちゃんが離婚したとき、おじいちゃんが追い掛けて来ると困るから、って、おばあちゃんに当時引っ越し先を口どめさせられてつらかった思い出があるわ。だから、ガクくんの気持ちは、ちょっとわかる気がする。好きで黙っているわけじゃないかも知れないわよ」
早くガクくんが復活出来るといいわね、と母さんは苦笑しながら僕を慰めた。
三次元で僕は、笑って過ごす。サッカーの話をしながら。嫌いな先生の悪口を聞いて、苦笑いしてはみんなと調子を合わせながら。
だけど、心は笑えてはいなかった。ガクさんが消えたことをなかなか受け容れられなくて、ものすごく心が寒かった。
《ミク。大人の目から言わせてもらえばね。いちいちそうやって落ち込んでしまうなら、オンラインゲームなんて、しない方がいいよ》
白魔導師のカトレアさんと見習いへっぽこ剣士の僕だけでは、ハントしには出られなくて。僕とカトレアさんがギルドでチャットしていたときに、カトレアさんはミクな僕の隣に腰掛けてそう言った。
《どうしてですか》
僕はそう入力したあと、怒りを表す顔文字を入れようとしたけれど、それより先にカトレアさんが先に文字を入れて来て、それを読んだら入れる気が失せた。
《ヴァーチャルは所詮ヴァーチャルでしかない。三次元で巧く消化出来ないものや、三次元では見向きもされない親切や思いやりの気持ちを、ヴァーチャルで吐き出してはたまたま利害関係が一致して結束みたいに見えるまやかしが生まれる。そのまやかしがまやかしだと見えた瞬間、すぐ離れる。それが簡単に出来てしまうのが二次元だから。ミクはまだオンラインを始めて間もないから、二次元と三次元をごちゃ混ぜにしてしまう。それは当たり前の、オンラインをする中での洗礼みたいなものだから、悪いことではないけれどね。誰かが「それはまやかしだよ」って教えないと、キミが永遠に傷つき続けてしまう。私はそれがイヤだな》
一回の入力で二行しか綴れない噴き出し文字の中で、たくさんの言葉が舞い落ちる。僕は巧くそれを消化出来なくて、履歴画面を開いた。そして何度も何度も読み返した。
――キミが永遠に傷つき続けてしまう。私はそれがイヤだな。
ずっと迷っていたけど、いい機会だから教えておくね。ドラも、もうここへは来ないよ。
それなりの攻撃キャラがいないんじゃ、このギルドにももう利用価値はない、って言っていた。ドラが新しく組んだギルドに私も誘われた。
キミはドラとフレンド登録をしていないから、ドラの動きがわからなかったでしょう。
二次元なんて、そんなものだよ。この部屋を消さないでもらったのは、キミにちゃんとこのことを伝えておきたかったから、私も新しいギルドに入るのを条件に、ギルドマスターのドラにこの部屋を譲ってもらったんだ。ごめんね。
たまたまオンラインで知り合っただけの行きずりのまやかし。それをちゃんと忘れずに、自分の身の回りにいるトモダチを大切にするんだよ。
キミはトモダチ「みたいなもの」というけれど、一緒に笑えて文句も言えて、それは充分立派に「友達」なんだからね。
私も結局、キミを裏切ったようなものだ。ドラの新しいギルドに加わっているんだから。
ごめんね。でも、私はキミがダイスキだった。弟みたいで、とってもかわいくて、素直で正直なキミがダイスキだった。
だけど、それは私の勝手な思いだから、裏切者の私はキミの前から消えるよ。
本当に、ごめんなさい。そして、さようなら――
「え」
僕は思わず声に出していた。ログ履歴画面を消してプレイ画面に慌てて戻す。画面を見ればそこには、ぽつんと独りで部屋に座っている、寂しそうなミクがいた。
あれから三ヶ月が過ぎようとしていた。僕は毎日、誰も来やしないギルドの部屋へログインする。プレイする気にはなれない。新しい仲間を探す気にもなれない。僕は、あのメンバーが、特にカトレアさんが大好きだったんだ。
カトレアさんの告白を読んだ直後、僕はゲーム機を床へ力いっぱい叩きつけた。ゲーム機は簡単に壊れ、そして僕の信じていたものもあっさりと壊れた。
みんな、消えた。
四角い画面の向こうに僕の知る人はだれもいなくなってしまった。
大きな物音に驚いた母さんが、慌てて僕の部屋に入って来た。
『ヒロキ、どうし……あっ! ちょっとあなた、このゲーム機、いくらしたと……どうしたの』
眉尻を吊り上げて怒鳴り掛けた母さんが、壊れたゲーム機から顔を上げて僕を見た途端、柔らかな声音に変わった。
『母さんの嘘つきっ』
僕はそのとき、それが八つ当たりだなんてわかっちゃいなくて、母さんを罵倒した。
『何が“画面の向こうにも生身の人間がいるんだから”だよ! 向こうなんか、僕のことをそんな風に思っちゃいなかった! 使えないヤツからってリセットされちゃったじゃないか! 僕なんか要らないって、捨てられたじゃないかっ! 母さんが言ったとおり、一生懸命人として接して来たのに、結局そんな変わった考え方をしているのなんて、母さんと僕だけだったじゃないか! もう母さんの言うことなんか、信じないっ。誰のことも、信じないッ!!』
悔しいくらいに涙がとまらなかった。僕の居場所が、失くなった。お芝居みたいなヘラヘラと笑ってやり過ごす毎日しか、僕には残っていなかった。上っ面なつき合いしか出来ない、学校や塾のトモダチみたいな薄いモノしかない。
そんな感じの言葉を、たくさん母さんへぶつけた気がする。母さんは扉の前に立ち尽くしたまま、うな垂れた頭を上げることなく、ただ黙って僕の叫びを聴いていた。
『……ヒロキ、ごめんね』
最後にポツリ、母さんが零した。上ずったその声が、初めて僕をはっとさせた。でも、それでも。僕は母さんに、「八つ当たりしてゴメン」という言葉を出せなかった。
その夜、なかなか寝付けなかった。遅くに仕事から帰った父さんと、母さんも随分遅くまでしゃべっていた。きっと僕のことだろうと思ったけれど、内容までは聞こえなかった。
その週末。父さんが休みで家にいた。
『ヒロキ、お前、父さんの言ったとおり、ログを全部パソコンに保存してるだろうな』
そう問われて頷くと、父さんは僕にそのログを見せろと言った。
『ちっ。お前な。短気起こすなよ。一番肝心なログを保存してないじゃないか』
それはカトレアさんとの最後の会話のことだと思う。それ以外は全部ログを保存しておいたから。
『ごめんなさい』
『まあ仕方がないさ。叩き壊したくなる気持ちは、父さんもこれでオンラインゲームをやってるからよく解る』
これはデカくてそう簡単に壊せないけどな、と笑う父さんは、きっと僕を笑わせようと気遣ってくれたのだろう。それに応えようと笑ってみたけど、巧く笑えなくて、醜くゆがんだ。父さんがくしゃりと僕の頭を撫でた大きな手が、ものすごくあったかく感じられた。
『母さんは人を信じ過ぎるからな、極端かなとは思うけど。父さんの友達は、オンラインゲームが知り合ったきっかけだけど、今はちょくちょく会っては飲んだりお互いの家で実際にツラをつき合わせて話しながらゲームしたりして、楽しい仲間のままでいるぞ。全部を否定する必要はないんじゃないか?』
新しくもう一台買ってやる、ただしヒロキが望むなら、と言われた。
『お前にとってカトレアさんは、特別な存在だったんだろう? 一方的に言われっぱなしで、いいのか?』
書き置きを残せるシステムだろう、と、僕にあのハントゲームを教えてくれた父さんだからこその、具体的なアドバイスをしてくれた。
僕はかなり長い時間迷った末、父さんに首を縦に振った。父さんはすぐに立ち上がり、「勢いのある内に、買いに行くぞ」と言って、そのまま僕をゲームショップへ連れて行ってくれた。
もう一度ソフトをゲーム機にダウンロードし直してログインする。一見何も変わらないいつもの町の風景が四角い画面に現れた。たった数日振りという短期間なのに、僕にはそのヴァーチャルな景色がすごく懐かしく感じられた。
毎日、一日一回、ログインする。そして毎日手紙を綴る。
――カトレアさんへ。
信じてくれてありがとう。
僕が本当に男だってこと。「弟」って言ってくれて、嬉しかったです。
ドラさんのことは、悔しくて正直許せないって気持ちがあるけど、カトレアさんのことはそんな風に思ってません。
初めてカトレアさんと会ったときのこと、僕は忘れていません。
ファミレスの無線LANサービスで一緒に遊んでくれる人を探していたとき、近くにいるみんなが無視してたのに、カトレアさんだけが僕の呟きに答えてくれました。
「混んでるから、なかなかご飯が来ないよね。来るまででよければ一緒に買い物しようか。武器とか、どれがいいとか判る?」
すごく、嬉しかったです。
同じお店でご飯を頼んでいる誰か、っていうだけで、僕の中でカトレアさんは、三次元の人でした。ずっとずっと、そう思って来ました。
だから今、すごく悲しいし、さびしいです。
ちゃんと僕の話も聞いて欲しいです。
「どうせ二次元」
っていうなら、ちゃんとリアルで会って話したいです。
僕は本当に、まだ中学生なんです。だからお母さんがついて来ちゃうけれど、でもジャマしないって言ってます。顔を見たら、ちゃんとカトレアさんのことをいい人だと確認出来たら僕らのそばから離れると言っています。
どうか、僕の話を聞いてください。
僕は怒ってません。僕はカトレアさんに裏切られたとか思ってません。
僕は、さようなら、なんて言いません。
連絡ください。待ってます。
ミク・リアルの名前は、橘ヒロキです――
父さんと母さんが夜遅くまで話し合って、父さんが母さんに折れたこと。どうしても母さんが譲れない「相手が実際にこの世に生きている人なのだということは、ヒロキに解っていて欲しいから」
ということ、らしい。
すごく大きな話になってしまったことがものすごく気を重くさせるけれど。
父さんには
「知り合い方がソレだしな。意外とリアルでの知り合いかも知れないし。向こうもそれを解っているはずだから、そう下手なことはしないだろう」
親がついていくということで向こうがたじろぐのであれば、何か後ろめたい別の事情があると思って割り切れ、と言われた。
ギルドの部屋に残した手紙は、毎回開封されていた。ただそれだけでもほっとする。ギルドマスターに許可された人しか入れない部屋で、そこでしか開けられない手紙だから。許可メンバーにある許可プレイヤーの名前は、ミクとカトレアしかないから、きっと絶対カトレアさんが読んでくれたに違いないと思っている。
読んでくれて嬉しいという気持ちと、いつ返事が届くかなという期待が、諦めに変わり始めたころ。いつの間にかカトレアさんから「さようなら」と言われてから半年も過ぎていたころになって、『Miku』と記されたところに、新着マークが点滅した。
「来たッ!」
リアルに叫ぶ、アホな僕。僕は母さんがキッチンで夕食の準備をしているところでログインしていたのだけれど、母さんが僕のそんな叫びを聞いた途端「ぶっ」と噴き出した。
「まるでラブレターの返事を待ってる男の子みたいね」
「ち、違うっ。カトレアさんは、そういうんじゃないもん」
それは僕の本音だった。もちろん、最初はずっと女の人だと思っていた。だけど父さんに指摘されて、そうじゃないって気づいたんだ。
『これ、男の言葉だな』
さようならの手紙だけでなく、今までのログ全部を見た父さんは、カトレアさんの理論的な考え方やあまり自分の感情について語らない辺りに、男っぽい雰囲気を感じた、と言った。
僕は、ちょっと女子が苦手だ。すぐに怒ったり、好きな男子とそうじゃない男子との間でものすごい態度の差があるから、ちょっと怖い。そんな僕だから、カトレアさんが女性なのに気楽っていうのが今思うととても不思議だったんだけど、父さんの言葉を受けて、妙に納得した。
「解ってるわよ。冗談に決まってるでしょ。ほら、待ち遠しかったんでしょ。そっちに集中すれば?」
母さんは自分から僕の気を逸らさせたのに、そう言ってまた笑いながら背中を向けた。
〇ボタンを押すこと二回。ドキドキしながら手紙を開封する。
――ヒロキへ――
親しげな呼び捨てが、妙に嬉しかった。リアルに打ち解けてくれたみたいで、嬉しかった。
――ずっと迷ってて、返事が遅れました。
出会ったきっかけを覚えていてくれたんだね。それが嬉しかったけれど、怖かったりもした。
だって、近くにいる人間だって思ったら、警戒されるんじゃないかと思ったから。
こんなに仲よくなるつもりじゃなかったんだ。
だから、自分のことを何もヒロキに話さなかった。
会いたいと言ってくれてありがとう。警戒されていないと思うとすごく嬉しかった。
会いたいと思います、でもいっこだけ約束して欲しいことがあります。
キミのお母さんに、オレがキミと会うことを誰にも内緒にしておいて欲しい、とお願いしてくれないかな。
でないと、会えない。オレもウソついていたことがあるから。
大人って言ったけど、それはウソです。まだ高校生なんだ、本当は。
こんなオレのことなんかゲンメツだ、と思ったのなら、この手紙を無視していいです。
裏切者じゃないって言ってくれてありがとう。
会いたいって気持ちを持ってくれて、ありがとう。
もしも会えなかったとしても、ヒロキにそれだけは伝えたくて返事を書きました。
では。
カトレア・リアル名=ショウヘイ――
「え……ショウヘイ……って……」
僕の脳裏に過ぎったのは、みんなから「でぶマッチョ」とからかわれていた、小学校の子ども会で一緒だった五歳年上のとっても大柄なお兄ちゃん。多分今は、大学受験生になっているはずだ。
すっかり忘れていたけれど、僕は小学校入学をきっかけにここへ引っ越して来たばかりで友達がいなくて、それを心配した母さんが僕を子ども会へ入会させた。そのときにはもうグループみたいなのが出来ていて、ポツンとしていたところへ声を掛けてくれたのがショウヘイ兄ちゃんだったんだ。
『なんだよ、一緒にドッジボールしないのか?』
ショウヘイ兄ちゃんはそう言って、低学年グループのみんなに声を掛けて僕を混ぜてくれた。
「そうじゃん……ドラさんたちを紹介してくれたときと、おんなじじゃん」
そう呟いた僕の声は、意外と大きかったらしい。母さんがこちらを振り向き、「どうしたの?」と尋ねて来た。僕ははっとして首を横に振ったけれど、ふと母さんに訊いてみた。
「母さん、今、ショウヘイ兄ちゃんがどうしてるっての、知ってる?」
母さんはショウヘイ兄ちゃんのお母さんと一緒に子ども会の役員をしていたから、彼のお母さんともよくおしゃべりしていた。今もそんな感じのことが続いてるのかな、と思って、ちょっと探りを入れてみようと思ったんだ。
「……どうして?」
そう問い返して来た母さんの表情が、曇った。
「ん? んー……。なんかさ、カトレアさんと初めて会ったときの感じと、ショウヘイ兄ちゃんが僕を低学年の輪に入れてくれたときと、感じが似てたなー、なんてことを思い出したら、今どうしてるのかな、ってなんとなく思って」
なんでもない風を装ってそう言った僕は、巧く笑えていたのかな。母さんは少しだけ黙っていたけれど、とても苦い顔をして、ぽつりと言った。
「ショウくんね、今は高校を休学してるんだって」
頑張って入った有名私立の高校で、友達と巧くやれなかったり、思うように成績が保てなくて、とかなんとか。難しい話をされたけど僕にはよく解らなくて。ただ、すごく印象に残ったのは、
「ショウくん、友達に裏切られたことがすごくショックだったんだそうよ。親友だと思っていた友達が困っていたから、お母さんに内緒でせっかく稼いだバイト代を友達に貸し続けていたんですって。『カモ』って綽名をつけられて、陰口を叩かれていたことを知って、学校へ行く最後の支えまで消えちゃって……彼のお母さん、無理をさせてしまった、って、後悔してた」
という、まるで僕がドラさんに味わわされたことの、もっとすごいバージョンみたいな話だった。
――たまたまオンラインで知り合っただけの行きずりのまやかし。それをちゃんと忘れずに、自分の身の回りにいるトモダチを大切にするんだよ。
カトレアさんと名乗ってショウヘイ兄ちゃんが言っていた言葉が僕の中で蘇る。
三次元で裏切りを味わったショウヘイ兄ちゃんは、自分が苦しかったことを僕にしてしまったと謝っていた。
僕はいっぱい学校や塾のトモダチの愚痴を、出来事を交えて話していた。
カトレアさんは、ドラさんの裏切りを知っていた。だけどカトレアさんの三次元は、もっと裏切りの酷い世界で。だから二次元まで失いたくなくて、ドラさんに従ったのかも知れない。
僕はつまんないとばかり言っていたけれど、だけど笑ってバカ話を出来る、騙したり騙されたりすることのないトモダチに囲まれている。
「……なくちゃ」
「え、なに。どうしたの」
僕は母さんの問いに答える余裕がなかった。今すぐ、ショウヘイ兄ちゃんと話さなくちゃ。僕はショウヘイ兄ちゃんにとって、二次元の人で、同時に三次元の人でもある。
「ちょっと、ヒロキ?!」
そう呼び掛ける母さんに、「電話使うよ!」とだけ言って、僕は玄関の家電話に駆け足で向かった。
電話番号は今でもくっきりと覚えてる。同じ学年の友達が出来るまで、毎日のように電話をしては、ショウヘイ兄ちゃんに遊んでもらったんだから。
プルルル、という音を三回聴いたあと、とっても小さくて低い声が、ショウヘイ兄ちゃんの苗字を告げた。
「あの」
僕は、どう言えばいいのかものすごく困った。電話に出た低い声の男の人が、ショウヘイ兄ちゃんなのか、彼の父さんなのか、それとももしかしたらまだすごく元気なおじいちゃんかも知れないけれど、その中の誰だかわからなかったから。
突然、何年かぶりの電話なんだもの、「どうしたの」なんて訊かれたらなんて答えよう、って思った。だってショウヘイ兄ちゃんは内緒にしたそうだったから。
「あの、僕は、小学校のとき、ショウヘイ兄ちゃんに遊んでもらった橘ヒロキって言います」
そう名乗る声が、上ずる。もしカトレアさんがショウヘイにいちゃんはなかったらどうしよう。電話をかけてからそんな不安がよぎり、心臓をバクバクさせながら、次の言葉を必死で探した。
「……ヒロ、声、低くなったな」
僕なんかよりももっと低い大人の声が、そう言った。懐かしいその呼び名が、電話の相手がショウヘイ兄ちゃん本人だと僕に教えてくれた。
「あの、えっと」
頭の中は、カトレアさんをショウヘイ兄ちゃんと決めつけた上でのあれやこれやしか廻っていなくて。どう自然に切り出そうかと「あの」と「えっと」ばかりを繰り返す僕に、ショウヘイ兄ちゃんが、くすりと小さく笑った。
「ありがとう――ミク」
「!」
もうプレイヤーネームなんか要らないね、と言われ、僕はものすごく泣けてしまった。
「兄ちゃん……兄ちゃん、会って、話したいことが、いっぱい、あるんだ」
友達のこと。ドラさんのこと。消えてしまったガクさんのこと。二次元とか三次元とか、そういうのの、こと。そしてショウヘイ兄ちゃんのことも、いっぱいいっぱい聴きたかった。
「女じゃないし、赤い髪でもないし。デブで、どもりの、オレ、だけど、いい?」
僕は「うん!」とだけ大きな声で返事をして、殴り捨てるように受話器を置いた。
「母さん! ショウヘイ兄ちゃんちに行って来る!」
「え、ちょっと、今から?! もうすぐ夕飯」
という言葉は、今日だけは勘弁して。すごく大事な用事なんだ。僕はキッチンから出て来てお説教をしようとした母さんにそれだけ言うと、元気いっぱいに玄関の扉を開けて飛び出した。