女神の肖像2
スイが神殿に入ってすぐに感じたあの嫌な空気が再び色めき立つ。
そしてアリサから引き離された彼女の影に湿気と共に集まっていく。青白く光るそれはやがて大きな水の塊なようなものとなり、急激に形を変えていく。
「なんだこれは……」
乾ききった空気に響く濤音のようなざわめきが神殿の空洞にこだまする。その中心には9つの頭を持った巨大な蛇のような不気味な魔物が現れた。
「なぜヒュドラが?」
その昔クワイアトの水源に巣食い女神に退治されたと言う伝説の水蛇。何故それが女神を祀る神殿にいるのだろうか。
スイは素早くアリサを抱えると部屋の隅へと移動させた。
「……キカ」
ヒュドラは取りつかれたように呟き続ける。
「は? 意味わかんねぇ」
「赤イツ……キ」
「赤い月?」
赤い月の華は女神の異名として有名だったが、ヒュドラの呟きには「華」が抜けている。黎明の歌の歌詞にも同じフレーズがあるが、その意味を知る者はいない。
「赤イ月ノ……」
スイは身構えた。
“来る”
スイはヒュドラを見据えたまま腰元の武器に手をかける。しかし、その手は何も掴むことが出来ずに空を切る。不思議に思い、スイが横目で右脇を見ると。
「げっ、そんな!」
スイは仰天して声をあげた。愛用の刀がない。
「マジか」
城内での帯剣禁止されているためスイは常に腰に帯びていた武器の類をすべて城門にて預け、予備の武器も執務室に保管したままだった。
城内にて帯剣を許されるのは、神殿と首長の警備を行う業務に従事する一部のものと、王と王太子またはそれに準ずる地位にある存在に限定される。暗殺やクーデターを警戒しての処置である。その厳重な対策がここにきて仇となった。
彼は、アリサを庇うように立つと、軍隊仕込みの体術の構えをとる。弱いなりにも剣の型の美しさには定評のあるスイ。だが、体術においては全く自信がなかった。しかも、どう見てもはったりの通じるような相手でもない。
最重要警護対象である王族を守る盾として彼は不十分過ぎる。しかし、ないよりはマシと、彼は腹を括った。
魔物にとって使命は絶対のもの。それを果たすために攻撃しようと決めたならば、それを阻む相手の息の根を止めても、相手の姿形が残る限りその手を止めることなどない。
せめて、どんな鈍でも武器があれば増援を待つくらいの余裕はあっただろうが、かれの手にも王女の元にもペーパーナイフ一つない。スイの額からは汗が吹き出した。
神殿内の乾いた空気はそのわずかな汗の滴も直ぐにスイのもとから奪っていく。この魔物の能力だろうか、このままでは対峙しているだけで干からびてしまう。そしてその分が全て魔物の力となっているような気配すら感じていた。
「スイ!」
先ほど神殿内に響いた凄まじい音を聞いて内部の人間が、ぞろぞろと入り口付近の広場に集まってきた。
“良かった、誰でもいい何か武器を”
その人だかりの中にはシンの姿もあった。シンはスイがヒュドラと対峙しているのを確認すると、まるで以心伝心すぐさま腰に携えていた短刀を鞘ごとスイに投げつけた。
「使え!」
そう言うと、シンは再び神殿の奥に走りさった。
“逃げた? うそだろ、加勢しろよ!”
スイは短刀を受け取ると鞘から抜いた。シンの短刀は刃のつき方が右手用。スイは鞘を投げ捨てると逆手に構える。
「赤イ……キノ……ノ。命ヲ」
ヒュドラの不気味な声は水の奥から浮き上がっては砕け散る泡のような響きを上げて彼にわめき散らした。その鬼気迫る形相は今まで彼が対峙した魔物とは一線を画する。それはその命に刻まれた使命の重さを表しているのだろうか。
スイはそういう魔物の顔を見るといつもいたたまれなくなる。容易に滅ぶこともあたわず、ただ望みもしない使命に踊らされ、生かされるこの空虚な生命、魔物とはなんと哀れな存在なのだろうか。この命がすがるべき使命を果たせない痛みとはどんなものなのだろう。
こんなにも緊迫した状態にも関わらず、絶命際の飛鏡のみせた慈愛の眼差しが脳裏に浮かんだ。
「ぼんやりするなよ!」
スイとの間合いを詰めながらジリジリとすりよる九頭の大蛇。その前に先ほど逃亡したシンが大槍を携えた躍り出た。
「逃げたかと思ったぜ」
「生身で相手にするはアホ。そもそも、か弱き友の窮地に逃亡など有り得ん」
シンはいかにも重そうな黎明の槍を頭上で大きくスピンさせる。そして直ぐに槍の芯を片手で体に絡ませるように回しながら滑らかに構え直す。
演舞のように流れる一連の動き。その手に握られたものが槍という物騒な武器である事を忘れさせてしまうほどの優美さにスイは見とれてしまう。
「ぼんやりするなよ!」
シンの声に我に返りスイは小刀を構える。
水音にも似たヒュドラの喚きが神殿中に響き渡る。
シンは間合いを見ては黎明の槍をヒュドラに突き立てる。その切っ先がかする度に激しい水飛沫が散乱し、削ぎ落とした魔物の肉は水になって空気に溶ける。しかし、その度にまた底から沸き上がるような嫌な音と共に傷は埋まってゆく。
黎明の槍は、退魔の力をこめられた槍で魔物を傷つける能力を持っていた。故にヒュドラの肉を削ぐだけの破壊力を得ているといえる。しかし、槍の能力を上回るヒュドラの回復力がシンの攻撃を無駄な足掻きに変えてしまう。
「ぼんやりするな。お前の分野だろう!」
スイが見計らうように飛び出すとその度に遮るように鋭いシンの切っ先がヒュドラを捉える。彼の力が必要とはいえ手も足も出ない。スイの速さ、センスでは太刀打ち出来ない。
「援護する。斬り込め」
シンは一歩引いて槍の構えを変えた。
「お前に傷などつけさせん。躊躇するな」
自信満々のシンの言葉に後押しされてスイは深く腰を落として構えヒュドラに向かって飛び出した。
触手にも似た9つの頭が彼を食いちぎろうと襲いかかる。右から左から上から……。
スイがかわしきれない攻撃をシンの槍が止める。水飛沫が霧のように立ち込めて削がれた水の塊は魔物の肉片からただの湿気にかわる。
「はっ!」
渾身の力を込めたシンの攻撃に敵の頭部が飛沫となって切り落とされる。それをみたスイがその泡立つ切口に左手に握られた小刀を突き立て、大きく振りかざした右手で柄を押し込んだ。
程なくその切口は小さく爆発するような音を立て、ヒュドラはヘビ特有の空気が抜けるような悲鳴をあげる。
「やったか……」
しかし水蒸気が煙幕のように立ち込めた神殿内に、再び濤音が響く。その底から沸き上がるような音はヒュドラの生存を知らせるかのように不気味に鳴り響く。
咄嗟に身を引いたスイはシンの背に体を寄せて一息つく。
「きいているみたいだ。ただ、表面的にしかダメージがない」
「そのようだな」
水蒸気はヒュドラの体に吸収され、その体が再び露になる。
「残り8つだな」
先ほどスイの攻撃をうけた傷口はまるで石灰化したように硬くなりボロボロと組織が剥がれ落ちていた。
「急げ、固まった部分が全部剥がれたらまた再生する」
「一理ある。無駄口は不要。ゆくぞー!おぅ」
“掛け声変だから”
シンの口調にスイはややペースを崩されて出遅れる。しかしそこは幼馴染、お互いの可笑しなところを十分に理解した彼らはすぐに連携しやすいようにとタイミングを計り始める。
シンの槍筋が走ると、すかさずスイがその切口を封じていく。飛び散った水飛沫と煙り立つ水蒸気が干からびるほど乾いていた神殿内の空気を徐々に潤していく。
ヒュドラは空気の抜けるような喚きと、体の底から沸き上がる泡音を立てて幾度も幾度も崩れ落ちる。
やがて9つあった頭は残りひとつになった。ヒュドラはその身を縮めて後退りしながら悔しげな音をたてて鳴いた。
「ウヌラ……、我等……ヲ阻ムノカ……」
苦しげな声は、意味の解らないフレーズを残し、聞き取ることもままならない騒音へとかわった。
「煩いな。通じるか?ウルサイなぁ~」
シンは軽口を吐きながら余裕の表情でヒュドラの最後の頭に攻撃を仕掛ける。しかしシンの槍の切っ先がヒュドラの最後の頭を捉えたとき、急に今までになかった感触にシンは慌てて引く。
槍がヒュドラの体の中にのめりこんだのだ。まるで何かに掴まれたような感触にシンは槍を退け、水分を振り払い、スイの元に駆け寄った。
そして、スイの耳元で何やら囁くと再びヒュドラに向かって槍をむけた。
「これで終りだ」
シンはヒュドラの頭上高く飛び上がり、その胴体を貫くように槍を突き立てた。
ヒュドラの体は水のような波紋を浮かべて簡単に槍を通し、槍は掴まれたようにそのまま動かなくなった。
シンは舌打ちをして槍から手を離しヒュドラからも離れる。するとその目の前で向かい合うように屈んだ。
ヒュドラはここぞとばかりにシンに噛みつきにかかる。
その時、
「かかったな」
シンの不敵な笑みのあとにその背中をスイが駆け上がった。スイは敵の体に刺さったままの槍を左手で掴むと、その上から右手を重ね大声で喚いた。
「失せろ!」
凄まじい衝撃が黎明の槍を中心とした同心円状に広がる。身体中を駆け巡る衝撃でヒュドラは沸騰したように泡立ち、声を上げることもなく蒸発した。
魔物が消滅し支えを失った黎明の槍はスイと共に床に崩れ落ちた。
「うわぁ、ギャっ!」
鈍い音を立てて転がったスイ。その左足に大槍の柄が容赦なく落下した。スイは電流のように走る痛みに身を捩る。そして、声も出ないほどの激痛にもがきながらも上半身を上げてシンに助けを求めた。
「あ、すまん」
シンは悠長な様子でニヤリと笑うと、ゆっくりとスイの前に歩みでて屈んだ。
「ごめんね。怪我させちゃった」
しかし、シンは助ける素振りも見せずに話すばかり。
「それ、重いでしょう。所有者を選ぶ武器。聞いたことあるよね? 専属部隊つくるなら、退魔兵器要るんじゃない?」
シンはそう言って悪戯っ子のように笑うとスイの鼻先をつつく。
「……すけて……」
「ん?」
「たすけ……」
「ああ! ごめんね忘れてたよ」
シンは軽々と槍をスイの足から退けた。
槍を除けたスイの足は熱をもったように熱くなり脈打つような痛みが襲う。スイは不本意ながらもゆっくりとシンの肩にもたれて立ち上がる。
痛みはあるものの立ち上がることが出来る。骨には異常はないのだろう。
「あっ……」
しかし、歩き出そうと一歩を踏み出したとき、頭が急に重たくなり、スイの視界に激しく揺らぐモザイク模様のようなものが立ち込めた。
「力量を超えた力だったね。お休み」
シンは立ち眩みで千鳥足になったスイをしっかりと抱きとめた。スイはその安定感に安心して気を失った。